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ある人の聖夜

作者: あべちか


その年のクリスマスはフックにとって最悪なものだった。


「あの男が勝手に飛び出してきたのよ!こんな道路で急に車が止まれるわけがないじゃないのッ」


白髪の老婆が訴える。

ゆきがそこそこに降っているので、道路の視界はよくない。

フックは雪に飛び散っている赤黒い血に視線をやった。


「酔っ払いが勝手に飛び出してきたのよ?ほらッ、ここでもお酒の匂いがするじゃないの。だのに、私が何から何まで悪いっていうの。じゃあ、あなたは私が、この白髪のお婆ちゃんが映画みたくカーアクションすれば良かったっていうの?ええ?」


「いえ、ですから、お話は署の方でおききしますので…」


「私は孫の家に行く途中なのよッ?だいたい…」


耳を劈くような金切声に、対応している警官も気がめいり始めているようだった。


「ありゃあ、救急じゃなくて別のヤツ呼ぶべきであ」


「即死だな」


「ああ、あの婆ァ、スピード違反してたな、絶対」


「酔ってんじゃねーのか」


ホワイトクリスマスだが、気分は最悪だった。一刻も早く日が過ぎてくれることを祈って、フックはだらだらと交通整備の棒を動かした。







***************


中山壮太はなかなか可愛らしい子供だった。

中山夫妻にとって初めての子供ので、父親は初めて壮太を抱いた瞬間に親ばかがさく裂した。

おかげで中山家には、しわくちゃの猿みたいな赤ん坊のころの壮太の写真がやまほどあった。幸いなことに、大きくなるにつれて、壮太のアルバムの厚みは減っていったが、高校生の頃からは再び厚みが増していった。


それは壮太がカメラを始めたからだった。


きっかけは些細なことだった。なんとなく高校でなんとなく部活動をしていた。

ある日の放課後、部室でだらだらと過ごしていたら、目の前にあった林檎の模型を毎日一枚は撮ろうと思った。


本当にただなんとなく初めて、一か月後には百枚になっていた。


どうしてこんなことをしたのだろう。


カラープリンタの前に座って、次々と現像されてくる、ひたすらに林檎な写真を眺めながら後悔した。


印刷された写真はどれも林檎だった。


いや当然なのだが、壮太にとっての感想は、リンゴだな。の、ただそれだけだった。


自分の感想に気づいたとき、なぜかひどく虚しくなってしまった。

あんまりにお粗末なのだ。

壮太だって、リンゴを見て、美しいだとか可愛らしいだとか、思いたいのではない。

感想が『林檎だな』という感想にもなっていない自分に足りないものを、たがだか模型の林檎に思い知らされた気分だった。


いつの間にか、後輩が後ろに立っていた。


「林檎ですね」


林檎だろう、と言いかけて、やめた。


「でも」


ふっと視線を遠くにやって、おもむろに百枚の林檎の中から二枚を取り出して、自分の顔の横に並べて見せた。

ほら先輩。

軽やかな声で、言う。


「こっちより、こっちのほうが痛んでますね」


その瞬間から、壮太はカメラに没頭した。

あまりに些細すぎて、その時の感情を覚えてすらいない。


大学生のころに小さな賞をとった。


「おめでとう。すごいね」


そんなことはないのだ。何とか賞とか言う、応募者はたった三人。誰も知らない小さな賞なのだ。アメリカのどこかのちいさなちいさなデザイン会社がやっている、ちいさな賞だった。


だが、壮太も見栄を張りたかったので、亜紀には特にその小ささを語らなかった。


「すごい、ほんとうに」


亜紀の言う『すごい』は、壮太には意味のない言葉だった。おそらく、亜紀にも意味がなかったのだろう。


亜紀はどうだったかは、今となってはわからないが、少なくとも壮太は、ただ亜紀と同じ空間にいることが気をそぞろにさせたし、薄っぺらいが歓びを感じることに心は弾んだ。

壮太は亜紀と恋人になれたらいいと思っていた。

亜紀のことを好きだとか、そういうことはあまり思ったことがなかった。


夏、サークルで旅行に行ったときに亜紀と寝ることはできたが、その後は何もなかった。

ただの友達か、知り合いのようにお互いすごした。

相変わらず賞は取らなかった。


年に何度もいろんなところに送りつけているが、少しもかすらない。



そのまま大学を卒業して、国語の教師になった。

カメラは相変わらず続けていてた。

壮太には撮りたいものが山ほどあった。

自分の手で、小さな箱に収めて自分だけのものにしたい景色があったのだ。


入学式には桜を撮り、体育祭にはカメラ片手に生徒の間に交じり、文化祭には一般客に交じって写真を撮った。


妻の咲とは中学の同級生だった。

咲は英語教師になっていた。

壮太のいる学校に咲が赴任してきたときに再会したのだが、会ってすぐに咲は自分と結婚するのだ、と思った。なので、壮太は珍しく積極的に咲を口説いた。そのおかげかはわからないが、咲とはすぐにそういう仲になった。


壮太はその関係には少しだけ不服だった。

咲は妻のようにしか思えなかったからだ。

同棲しても、一緒に住むのが当然なんだという気がして、結婚をしないことに、いつも内心首をかしげていた。


「妊娠したの」


深刻そうな顔で咲にそういう割れたとき、じゃあ結婚だね、と軽く答えた。


咲はその返答に驚いたようだった。


「あたしのこと、あそびなんでしょう?なのに結婚していいの?」


壮太も驚いた。

咲のことをあそびとおもったことなどないのだから。

柄にもなく、ええッ?、と声を上げてしまった。


壮太は咲を妻だと思っているので、恋人らしいことをおよそしてこなかったのだ。当然のように、いつもいてくれるものなのだという感覚がなまじ壮太にあったため、恋人にしてはずいぶん素気ない態度をとってきた。


それが咲に誤解を生んだのだ。


咲には壮太は憧れだった。


お遊びか何かで自分と寝てくれているんだと思っていた。


「え、違うの?」


そう聞き返す咲の顔は、あらん限りに普段の細長い目を見開いていて、しばしば壮太を感心させた。

壮太の夫婦の生活は、お粗末な始まり方をしたのだった。


娘のアズキは顔貌こそ可愛らしくはなかった。

引っ込み思案すぎて挨拶はおろそかだし、好き嫌いは多いし、おもちゃは絶対に人に貸さないし。

このあたりは咲にうり二つなのだそうだ。

だが、人一倍負けん気の強い子だった。


小学校に上がると、アズキはあまり成績がよくない子だとわかった。

宿題は咲がチェックしているので、欠かすことなくこなしているのだが、どうにも習得できないらしかった。九九がちっとも覚えられず、同級生に馬鹿にされて号泣しながら帰ってきたかと思うと、「パパのバカ!」と一言叫んでトイレに閉じこもってしまった。


娘の号泣帰宅を納めた一眼レフ片手に、壮太は咲が職場から帰ってくるのをトイレの前で待ち続けた。


咲が帰ってきてしばらく、夫婦二人して娘の籠城したトイレの扉に耳を当てて、中から聞こえるブツブツといううまく聞き取れない言葉に聞き耳をたてた。

7時ごろ、やっとトイレから出てきた娘は両親には目もくれず、靴を履いて外に飛び出していった。

慌てて壮太と咲が後を追うと、マンションの上の階に住んでいる同級生の家に上がり込んで、九九を暗唱してみせる娘がいた。

なんとなく、その家の子とアズキの間に仲がよさそうなところが見られなかったので、アズキを馬鹿にした子なのだと伺えた。


嫌な子だ。


壮太がアズキに抱く感想の多くとなる。



カリフォルニアに行こう。


言い出したのアズキだった。


よく咲が、イギリスで紅茶を飲もうとか、パリでワインが飲みたいだとかいうので、アズキもふざけて、ドバイでトランプしようとか言っていた。なぜかアズキの生きたい国には英語圏の国は今まで一度も出てこなかった。


珍しいと思って話を聞くと、瞳を輝かせてカリフォルニアのアナハイムにある某メジャーリーグ球団のエンぜ〇スの〇谷について熱く語りだした。


本当に珍しいことだった。

咲も賛成だったし、初めての家族の海外旅行はカリフォルニアになった。



咲と壮太はアズキの英語能力が激しく心配だったが、心配をよそに、ほぼ勢いでアズキは空港を乗り切った。怪訝そうな顔の入国手続きのカウンタに座る小母さんに、「アイ ラヴ ユー!」と叫んだ時には爆笑してしまった。


「娘の勇姿を嗤うなんて最低よ、パパ」


「そうよ、おまけに写真まで取って」


「ああ、一生パパにこのネタでからかわれるわ」


ホテルの部屋の曽田でくつろぎながら、咲とアズキの会話をBGMに、壮太はうとうとと船をこぎ始めた。


はっと目が覚めると、アズキと咲は部屋にいなかった。

テーブルにメモがあった。

アズキの字だった。



チケットが無駄になるので先に行きます。


一瞬もうチケットの時間なのかと、頭が真っ白になった。

部屋の時計を見ると確かにもう試合の開始時間だ。


もともとのんびり屋なので、急ぐといっても若干もたつきが出るが、さすがに今日は普段の云倍のスピードで支度を済ませた。

エレベーターがロビーに着くと同時にバッと駆け出すと、信じられないものが目についた。


「どっきり大成功!」


「あらあ、あなたってこんなに早くしたくできるのねえ」


「部屋の時計もパパの腕時計も全部いじったかいがあったよ。すごい顔してるよ」


「安心してね。試合はまだまだ間に合うから。アズキがどうしてもやるっていうから」


「空港の雪辱は晴らしたわ」



その時、そうたの耳に二人の声は聞こえていなかった。

ロビーのソファに座る男性の、膝の上に置かれている小包から目が離せなかった。

プレゼント用にラッピングされた丸い箱。

そのラッピング用紙。

その包装紙にプリントされている社名。


何もかもが目を疑った。


林檎の無数の写真。

デザインが高校の秋を。

社名が大学二年の春を、亜紀を。









「あの包装紙の写真を撮ったのは僕なんだ」










フックは泣きじゃくる母子の姿を見やった。


「あのアル中のばあさんが轢いちまった男の家族だそうだ」


「こんなに早く身元が?」


「日本人だ。野球を見に来てたんだ」


「そりゃあ、かわいそうに」


男性のパスポートから「NAKAYAMA SOTA」と書類に書き込むと、やっとフックのクリスマスの仕事が片付いた。同僚に声を掛けて署を出ると、途中、これからでもクリスマス気分をと思い、大手メーカーのケーキを買う。


無数の林檎の写真がポップに並ぶデザインの包装紙でラッピングしてもらい、寝静まっているだろう家へ帰った。















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