6.夢ならばどうか醒めないでいて
「今日は~、殿下とお喋りをする日~」
「よかったですねえ、お嬢様」
「うん。お友達と喋れないのが残念だけど……ローラってば、まだジャック様かオーガスト様で迷っていて」
「あらら、ジャック様にするんじゃなかったんですか?」
「お母様の反応が芳しくないんですって」
「それは無理かもしれませんねえ」
「でしょう? お母様に気に入られないと無理だもの」
白いレースの布が垂れ下がり、真ん中にリボンが付いた鏡台の前に座って、黄色のモスリンドレスを着たシャーロットが爪を磨きつつ、鏡越しに侍女を見つめる。白い肌にそばかすが散った、茶目茶髪のベティが愛想良く笑って、シャーロットの柔らかい茶髪を梳かした。奥の窓からは春の朝日らしい、柔らかな光が零れ落ちている。
「で、どうなんですか? ローラ様よりお嬢様の方は! 恋に何か進展は!?」
「それがね、ちっとも無いの……どうしよう? 最近、オリヴィアがまた付いて行くって言ってるし」
「ええ~? また!? でも、お嬢様が甘やかすからですよ。きっぱり断っていたら、あの女も来ませんって!」
「もう……みんな、ヴィーのことをそうやって毛嫌いするんだから」
「当然ですよ! 前のあの婚約だって、オリヴィア様が邪魔をするから、」
「いいのよ、もう。元々、あまりいい噂がある御方じゃなかったんだし……」
お義母様もちょっと微妙な顔をしていたし、きっとこれでよかったんだ。美しいオリヴィアに恍惚と見惚れていた、元婚約者の横顔を思い出す。
(どうしよう? もし、殿下もヴィーのことを好きになったら?)
それだけがおそろしい。散々私に冷たくしてきた元婚約者のことなんか、今となってはどうでもいい。ただ、あの優しい御方が青い瞳を細めて、オリヴィアに優しくでもしたら。女性として、全否定されたような気持ちになる。
(嫌だな……渡したくない。奪われたくない)
俯いて、ちまちまと革製の爪磨きで爪を磨いていたら、背後のベティが「お嬢様」と悲しそうに呟く。
「でも、きっと大丈夫ですよ! 脈、ありそうな感じじゃないですか!」
「そうかな……本当に? そう思う? ベティ」
「ええ、もちろん! あれですよ、密着すればいいんですよ! ボディタッチです、ボディタッチ!」
「ボディタッチ……」
「そう! それもウサギの姿じゃなくて、人の姿で。あれでしょう? 殿下はふくよかな御方が好きなんでしょう?」
「ちっ、ちちちちち違うもん!! えっ!? 私ってそんなに太ってる!?」
「いいえ。でも、もう少し太って欲しいっておねだりされたんでしょう? 脂肪をおねだりしてくるってことは、つまりは、そういうことじゃないですか!」
「も~、ベティったらもう……」
気が利くし、そこまで年も離れていないから喋りやすいんだけど。どうにもたまに、驚かせるようなことを言ってくる。溜め息を吐いて、すとんと椅子に座り直した。鏡の中には憂鬱そうな顔をして、ウサギの両耳を垂らした女の子が座っている。
「……私、可愛い? ウサギの姿じゃなくても」
「もちろん! とびっきり可愛らしいですよ! お肌だって白いし、目もくりくりしていて、声も可愛いらしいし」
「ありがとう、ベティ……」
「こんなに可愛い、お嬢様に迫られて嫌な思いをする男なんていませんよ! あのですね? お嬢様。ちょっと耳を貸してください」
「えっ? なになに?」
「あのですね? 殿下にはこうやって────……」
「今日こそは絶対に言う。言う。この前みたいに、体のサイズを測ったりしないぞ~。言う、言う!!」
「頑張ってくださいね、殿下。ここ最近、そう言っては毎回失敗していますけど」
「今日こそは絶対に言う……それで、会う回数を週に一回から二回に増やして貰う」
「……週に三回ぐらいでもいいですよ。こちらで調整しますから」
ルイが哀れなものを見る目つきで、私のことを見つめてきた。
「分かっている。意気地無しだって、そう言いたいんだろう? だが、今日こそは絶対に言うからな……!!」
「頑張ってください。それでは」
「ああ……」
ぱたんと扉が閉まる。緊張して紺色のネクタイを緩めていると、すぐに彼女と従者のアーサーがやってきた。垂れ耳を揺らした彼女がにっこりと微笑み、澄んだグリーンの瞳を細める。今日は瞳の色と合わせた、白とグリーンのストライプ柄ドレスを着ていた。
「殿下! ごきげんよう……って、どうなさいましたか? お顔の色が悪いような、」
「あ、ああ。大丈夫だ。昨夜、よく眠れなかっただけだから……」
ああ、今日も可愛い。眩しい。きらきらと光り輝いている。私のような権力を持っている軟弱男に言い寄られたって、彼女は全然嬉しくないんじゃないか?
(ああ、もう! ルイもアーサーもあやふやなことしか言わないし……)
彼女に好かれていないかもしれない。いや、彼女は私を「美味しい人参をくれる飼い主」としか思っていないのに、婚約を申し込んだりなんかしたら絶対引かれるに決まっている。絶対絶対、引かれるに決まっている!
(だが、彼女と会う時間を増やしたい。彼女ともっともっと会いたい)
堂々と胸を張って傍にいたい。それなのに、今日も私は何も言い出せず、虚ろな目でティーカップを見下ろすことしか出来ない。終わった。彼女はいつものように、隣で「わ~、美味しい~」と言って、ニョッキにバジルソースを加えたものを食べている。距離が少しだけ遠いな。
「あの……シャーロット嬢?」
「はい? 殿下は食べないんですか?」
「あー、食欲が無いから」
「え、ええっと、この前みたいにまた、その、あーんしますか……?」
おずおずと、赤い顔でフォークを持ちながら聞いてくれた。かわ、可愛い……。でも、嫌われる未来しか想像出来なくて辛い。本当に辛い。私が硬直していると、きりりとした顔をしてそっと、ニョッキを口の中に入れてくれた。ふわりと、バジルとガーリックの香りが口の中で広がる。それを味わいながらも、思わず両手で顔を覆ってしまった。
「こんなのはもう、介護じゃないか……!! 君に申し訳ない! 自分で食べればいいのに私は私は、」
「ええっ!? 介護じゃないですよ? あの、殿下!?」
「申し訳ない……毎週毎週、君の時間を奪っていて。もう会わない方がいいんじゃないかな……?」
しまった、違う。言うんだ、ここで言うんだ!! 他にも男を作ってもいいから婚約して欲しいと! いや、結婚だ。結婚。ここで私が弱小貴族の娘と結婚すると、兄上の周りの家臣達も落ち着くだろう。
(そのことを言い出すべきか? でもな)
政略的な思惑があって、婚約を申し出る方が心に優しい。なにせもう、ボロは出てしまっている。最悪だ。彼女の中で私は一体、どんなだめだめ王弟に仕上がっているんだろう? 考えただけで死にそうだ。もう嫌だ。死にたい。ぐるぐるとそんなことを考えていると、そっと手を重ねられた。驚いて見下ろしてみると、彼女が熱っぽい眼差しで「殿下」と呟く。心臓がどきりと跳ね上がった。その柔らかな茶髪に触れたいと、そう思ってしまった。
「殿下……その」
「どうしたんだ? シャーロット嬢。顔が赤いようだが」
「私、殿下とこうやって会ってるの楽しいです。ええっと」
ああ、気を使わせてしまって申し訳ない。そうだよな? そう言うしかないよな? いわばこれは接待接待、社交辞令。間違っても私は調子に乗っちゃいけない。
(でないと、あとで傷付くのは私だ……!! もう嫌だ、彼女にだけは嫌われたくないのに)
がっくりと落ち込んでいると、彼女がなんと私の腕に腕を絡めて、ぴったりと密着してきた。ふわりと、甘い花とバニラのような香りが漂う。あれか? 幻覚か? とうとう彼女が恋しくて、自分に優しくしてくれる彼女という幻覚を勝手に作り出して、今ここでこうしてそれを見ているのか? 最低だろう、自分。混乱したまま見下ろしていると、「あれ? 何か違うかも?」と呟いて、更にぎゅうっと密着してきた。に、二の腕に、二の腕にふにっと胸が当たってる……。
「殿下? あの、嬉しくないですか……?」
「いいや、嬉しいけど!?」
「よ、よかった。迷惑なのかと、そう思いまして……」
「いやいや、迷惑だなんてそんな……シャーロット嬢」
少しは触れてもいいんだろうか? 彼女に。ごくりと唾を飲み込んで、優しく彼女の頬に触れると、はっとグリーンの瞳を瞠っていた。夏の木漏れ日みたいで美しい。もっともっと触れたい。だが、自制しなくては。
「あの……」
「は、はい。殿下。どうかしましたか?」
「わ、私のことを……」
聞ける聞ける、大丈夫だ。いや、「私のことをどう思っている?」と聞いたところで何か得られるものはあるのか? いいや、無いな。何も無いな!! じゃあ、傷付かない選択を、自分が傷付かない選択を。混乱して固まっていると、不思議そうに首を傾げる。かわ、可愛い。今日も彼女は天使かな……?
「この間から殿下は、何か物言いたげというか……」
「あ、ああっと、シャーロット嬢に好きな男は? いるのかな? ほら、最近、私と君の仲を疑う者も出てきてて」
ああああああっ、これで彼女が「はい」とでも言ったらどうする気なんだ!?
(バカじゃないか? 私は……手放す気なんて無いくせに)
ああ、神よ。申し訳ありません。昔から自分の不運さを呪い、あなたを恨めしく思ってきましたが、どうぞどうぞ彼女に好きな男なんていませんように────……。彼女がちょっと黙り込んでから、「は、はい。います……」とだけ答えた。はい、終了。これで婚約が言い出せない。私はとんだ気持ち悪い勘違い男だったし、今夜は涙で枕を濡らすしかない。
「そ、そそそそそうか……ええっと、その人の特徴は?」
「すごく優しくて! その、繊細で……」
「へえ~……そんな男の、君は一体どこがいいんだ?」
「えっ、ええっと、守ってあげたくなるところ! ですかね……?」
情けない……。そんな情けない男の一体どこがいいんだ、君は。そんな言葉を飲み干して、勇気を出して、ぎゅっと彼女の手を握り締める。嫌だったのか、びくりと体を揺らした。心が削られる。でも、顔には甘い微笑みを浮かべていよう。そうしよう。
「あと他には?」
「え、ええっと」
「君の心を独り占めにしている男が羨ましいよ……」
ああ、本当に羨ましい。彼女に想われるというのは、一体どれだけの幸福で────……。その時、彼女が「殿下」と呟いて、私の手をぎゅっと握り返してきた。手が柔らかく汗ばんでいる。そして、思い詰めた顔で見上げてくる。ほんの一瞬だけ、息が止まった。
「で、殿下にその、好きな方は……?」
「いないよ? いたら、こうして君と二人きりで会ってないさ」
「そ、そうですか……」
あれ? 少しだけ落ち込んでいる。そうか、分かったぞ。
(きっと、私に好きな女性がいないと聞いて、逃げられないのを悟ってしまったんだ……!!)
自分がその男と結婚したいからきっと、私に好きな人がいないと聞いて落ち込んでしまったんだ。ああ、少しでも好かれているのかも? とか調子に乗っていた自分をぶん殴ってやりたい。終わった、終わったんだ。もう完全に。
「で、でも、殿下ってその、かなり女性慣れしていますよね……?」
「そ、そうかな? そんなことはないと思うが」
「私、だからもやもやしてしまうんです。アルフレッド様がその、他の女性にもこうやっているんじゃないかって……」
名前で呼ばれたぞ? 一体何の奇跡だ、これは。夢か? そうか、私はもしかして眠っているのか?
(彼女の顔が赤い。目も潤んでいる。まるで、私のことが好きみたいな……)
ああ、そうか。夢だったのか。きっと私は今、公務のしすぎで倒れているんだ。そうに違いない、そうでないと説明がつかない。なら。彼女の手をぱっと放して、両手でふっくらとした丸い頬を包み込む。途端にぼっと、火が点いたように赤くなった。可愛い。潤んだグリーンの瞳と、柔らかそうなくちびるに目が吸い寄せられる。
「……こんなこと、しないよ。好きじゃなきゃ」
「へっ!? す、すすすすす好きって!? 私のことが!?」
「ああ、好きだ。シャーロット嬢。よければ、私と婚約してくれないか?」
よし、言えたぞ。夢だから言える、これ。現実だったら口が裂けても言えないな。シャーロットは真っ赤な顔で、ぱくぱくと口を動かしていた。可愛い。それに、夢ならばもっともっと。
「だめかな? だめなら、ひとまず婚約者候補に、」
「い、いいえ! 婚約したいです、殿下と……」
「……いつもの呼び方に戻ったね? まぁ、いいや。これは夢なんだから」
「ゆ、ゆめ?」
「そう、夢だ。夢」
夢だから、もう少しだけ彼女に触れていたい。夢だから、心ゆくまで好きだってそう伝えたい。
「好きだよ、シャーロット嬢。初めて会ったその時から、その毛皮にも優しさにも惹かれていて」
「あ、あの、殿下……私も好きです、その、お慕いしております!」
「ありがとう。ああ、夢ならもう、このままいっそ……」
醒めないでいてくれたら、この甘い甘い夢から。熱っぽく見下ろしていると、彼女がぎゅっと両目を閉じた。キスしてもいいと、そう言われているみたいだ。少しだけ近付いてから、息を止める。
(ファーストキスが夢の中とはな……)
いや、ウサギの姿の時にしたな? あれは数に数えるべきなのか、そうじゃないのか。緊張して混乱したまま、彼女のくちびるに触れる。ふにっと、マシュマロのような柔らかい感触が訪れた。驚くほどに柔らかい。即座にばっと離れると、グリーンの瞳が薄っすらと開いて「う……殿下?」と尋ねてくる。理性が吹っ飛びそうになった。もっともっとと、そう欲してしまう。
「シャーロット嬢……可愛いな」
「えっ、あの、もう、もう一回、まさか」
「ごめん、止まれそうにない……」
でも、夢だからこれは。もう一度深くキスをすると、ふるりとかすかに震えた。ああ、愛おしい。もう少しだけしたい、もう少しだけ、もう少しだけ。
「ごめん、シャーロット嬢。私は」
「しん、心臓が爆発してしまいそうです……!! あの、私! あまりにも混乱すると、ウサギの姿に戻ってしまい、んっ」
我慢しきれずに、もう一度キスをした。柔らかくて甘くて、背筋がぞわりと粟立つ。心臓の鼓動が速くなる。夢中で舌を絡めていると、震えて胸元を押し返してきた。愛おしい、可愛い。
「でんっ、殿下!? あの、ちょっと!」
「悪い。夢だからって暴走してるみたいだ……」
「夢じゃないんですけど、あの……?」
「夢じゃなかったら、ここは一体……?」
「現実だと思いますけど、ここ」
「……」
いや、それならもう死ぬしかないのでは? ひとまず彼女から離れて背を向け、自分の胸元を押さえる。
「わ、悪い……!! いや、もう、それならそれで、夢であって欲しいんだが!? 切実に!」
「え、ええっと、殿下?」
「すまない、無理に迫ってしまって……怖かっただろう?」
余裕が無い。なんて情けないんだ、私は。嫌がっているのに、こんな密室で無理矢理迫ったりなんかして……。後悔して落ち込んでいると、彼女がそっと私の背中に寄り添ってきた。こつんと、額が背中に触れる。
「殿下……怖くないです。その、もうちょっとだけして欲しいです……」
「あまり、私を煽らないで欲しいんだが……?」
「でも、夢なんでしょう? これは。顔が見たいです、アルフレッド様の顔が」
ああ、可愛い。耐え切れなくなってばっと振り返ると、かなり恥ずかしそうな顔をして見上げてきた。「シャーロット嬢」と、意図せずにして言葉が漏れる。その手を取って、見つめ合う。
「好きだよ、シャーロット嬢。悪い、意気地無しで。今まで黙っていて」
「いいえ! あの、その、もう一回だけ、さっきのしてくれます……?」
「いくらでも喜んで……!!」
いや、夢だろうなぁ。これ。自分の情けなさに気が遠くなりながらも、何度も彼女とキスをしていた。グリーンの瞳を潤ませ、はっと息を荒げて「殿下」と、合間に私のことを呼ぶ。
「ああ、何か……私の心臓も破裂しそうなんだが、シャーロット嬢?」
「ふふっ、嬉しいです。よかったです!」
「かわ、可愛い……可愛いの塊だ、可愛い……」
小柄で華奢な彼女を抱き締めつつ、その甘い香りに酔い痴れる。ウサギ姿の時はたまに、香ばしいコーンミールのような香りがしたが。
「可愛いなぁ……もう、ずっとこのままこうしていたいなぁ」
「でも、私、そろそろ帰らないと……殿下にもご公務がありますし」
「ああああああっ!! 嫌だ、働きたくない。目が、目が覚めなければいいのに、このままずっとずっと」
「いや、あの、だから夢ではないのですが……?」