3.心臓がもたないので、甘々台詞は禁止です
あの殿下の優しくて甘い声が、耳から離れない。眠りから覚めて間もない、柔らかな時間にふと落ちてきたのは、「今日はありがとう。優しく慰めてくれて」という言葉。いつもの廊下を歩きながら、ウサギの姿に戻って、じたばたしたくなってしまった。白地に花柄ドレスを着たシャーロットが、前を歩く従者に話しかける。
彼はアーサー・オルコットという名前で、黒髪と黒い瞳を持っている男性だった。それから従者らしく、白いシャツに黒いベストとジャケット、そしてぴかぴかに磨き上げられた、エナメル革の靴を履いている。
「あ、あの……今日の殿下の目の下のクマ、一体どうでした!?」
「……そのようなことが気になるので? シャーロット様は」
「え、ええっと、昨夜はよく眠れたのかなと、そう思いまして……」
だ、だめだ。緊張してしまう。またこの前みたいに、キスをされてしまったら。勝手に赤い顔をしている私を見て、困ったように笑う。笑うと、冷たい印象の黒い瞳が細くなって、ぐっと柔らかい雰囲気になった。
「ここ最近の殿下は、貴女との時間があるからか……穏やかな顔をされるようになりましたよ」
「そ、それは良かったです……」
また沈黙が落ちる。この方は殿下が「差別意識も無いし、誰かに何か言われても迅速に対処してくれるだろう」と、そう言って選んでくれた方なんだけど。
(と、とっつきにくい……廊下も長いし。ちょっとは喋ってくれても)
この自慢のふわふわな両耳を持ってしてでも、懐柔出来ない人物なのかもしれない────……。そんなことを考えて、きりりと前を向くとこちらを振り返った。
「不躾な質問で恐縮なのですが」
「あっ、はい! なんなりと!」
「お二人きりの時、いつも何をなさっているのですか?」
「いつも、何を……?」
もふもふ以外の何かはあるのかと、たぶん、そう聞かれているに違いない。黒い瞳がじっと、静かにこちらを見ていた。頬に熱が集まる。鏡を見なくても分かる。きっと今、私の顔は真っ赤になってる。
「あ、あの……殿下が、私のお腹を撫でたりだとか!」
「なるほど。あと他には?」
「あと、あと他には……? ええっと、私の毛皮に顔を埋めたり、キスをしたり」
「……アルフレッド様が申し訳ありません。今度、それとなく叱っておきますね」
「しか、叱る……」
従者だからきっと、それなりに親しいんだろうけど。困惑に満ちた私の顔を見て、くすりと笑った。
「アルフレッド様は気安い関係を求めてらっしゃるので」
「気安い関係……」
「非公式の場では、不敬に当たらない程度に砕けた態度で接しております。……そうですね。年上の従兄弟のような、ご学友のような気持ちで」
「なる、なるほど……」
「ですので、シャーロット様もぜひ。そのように」
「ほわ!? わた、私もですか……」
「喜ばれるかと。気を張り詰めておいでなので」
でも、その線引きが難しい。身の程を弁えて接しなくては。なにせアルフレッド殿下はこの国の王弟で、本来なら親しく交流することもない、触れる距離にいない遠い御方。
(あ……私、本当に無謀な恋をしているんだ)
そのことを考えると、きゅっと胸が苦しくなった。そうこうしている内に、辿り着く。扉が開いて春らしい、掠れた灰色のスーツを着たアルフレッド殿下が現れる。
「シャーロット嬢! こんにちは」
「こん、こんにちは……」
「それでは、私はこれで。それから、殿下?」
「うん? ありがとう、アーサー」
不思議そうな顔の殿下をじっと見て、告げた。
「未婚のご令嬢ですよ、シャーロット様は」
「……分かっている」
「では、もう少し控えた方がよろしいかと」
「……」
死んだ魚の目で黙り込んだ殿下を見て、くすりと笑ったあと、丁寧にお辞儀をして去って行った。その後ろ姿を見ていた殿下が、すっと腕を伸ばして、私の腰に手を添える。
「じゃあ、入ろうか」
「あ、は、はい……」
心臓がばくばくしてる、つらい。私の立ち位置は宙ぶらりんで、殿下を癒すもふもふ令嬢。
(つまり、ペット的な存在……?)
首を傾げつつ、私室に入ると、テーブルの上に美味しそうな軽食の数々が並べられていた。優美なケーキスタンドの上には、小さなキュウリのサンドイッチと、真っ赤な苺が乗ったタルトと茶葉入りのクッキー。それから瑞々しいフルーツが乗ったバターケーキと、焼き立てのスコーン。それにハーブサラダと胡桃パン、人参のグラッセに、ジェノベーゼパスタまで並んでいる。目を輝かせて、それらを見ていると、背後で気まずそうに呟いた。
「君の……その、甘い食べ物が好きということしか聞いてなかったから。とりあえず、肉以外で色々と揃えてみたんだが」
「ありがとうございます! お肉食べると、お腹を壊しちゃうので嬉しいです……」
「なら、良かった。食べようか」
「はい!」
この前は、ウサギの獣人がお肉を食べられないと知って、愕然としてらしたから。気まずい空気が漂っちゃったけど、今日は大丈夫そうだ。私も食べられる。いそいそとソファーに腰かけると、何故か隣に腰を下ろした。ごくりと、唾を飲み込む。今日も殿下は憂いに満ちた顔をしていたけど、えもいわれぬ色気が漂っていた。
「申し訳無い……その、この間は」
「い、いえ……」
「それなのに、その、帰り際になって、あれしか聞けなくて」
「わ、私が眠たかったから……!!」
「いいや、もっと早く聞けば良かったんだ。ついうっかり、君の体に溺れてしまって」
「ふぁ、ふぁい……」
顔が真っ赤になってしまった。でも、私の毛皮は王弟殿下も認める素晴らしさ! 叔母様に手紙でお伝えしようかな? それとも、鼻持ちならない従兄妹に自慢でもしようかしら。ふふんと胸を張って、美味しそうな料理の数々を見ていると、ぼそりとまた呟く。
「その……」
「はい?」
「私は食べないから、好きに食べるといい」
「へっ!? どうして食べないんですか!?」
「野菜はそんなに好きじゃないし……何よりも食欲が無い。食べたくない」
「だ、だめですよ!? きちんと食べないと……殿下?」
こてんと、私の肩に頭を預けてきた。距離が近い、蒸留酒のような匂いがふわりと立つ。殿下からはいつもいつも、独特の甘い匂いがした。お酒のような、古い木のような。
「それよりも君に甘えていたい。かな」
「ふぉ!? あの」
「だめかな?」
じっと、吸い寄せられるような青い瞳で見つめられて、首を横に振る令嬢がいるでしょうか? ぎゅっと両目をつむって、「はい」と言うしかなかった。
「えっ……だめなの!?」
「だ、だめじゃないです! あの、殿下の距離が近くてですね!?」
「ごめん……疲れているみたいだ」
「あの、お食事は……」
「君が口元に運んでくれるのなら、食べる。以上」
あれ? おねだりをされてる……? そのまま、不貞腐れたように黙り込んでしまった。もしかして、従者に注意されたのが嫌だったのかも?
「殿下……その、よろしいので?」
「よろしいも何も、君に食べさせて欲しいな」
「う、嘘でしょう? 女性に慣れていないだなんて……」
あ、違った。女性として見られていないんだった、私。胸の奥にずきりと、鈍い痛みが走る。震える手でサンドイッチを摘まむと、気怠げに口を開けた。そっと優しく、口元へと運ぶ。ぱくりと食べて、そのままもぐもぐと、よく噛んで食べ始めた。やっぱり、美しい目の下にはクマが浮かんでいる。本当かな? 穏やかになってきたって。心配になって見つめていると、私の手をきゅっと握り締めてきた。
「シャーロット嬢……」
「は、はい」
「君の時間を奪ってしまってすまない。その」
「はい?」
「や、やっぱり何でもない……もう一つくれないか?」
「あっ、どうぞ……」
何を言いかけていたんだろう? 今。不思議に思いつつ、小さなサンドイッチを運び、よく噛んで飲み込むのを見届ける。アンティークの椅子やランプが並べられ、緑と白のストライプ壁とクリーム色の絨毯が美しい応接室の窓からは、春らしい陽の光が射し込んでいた。
「もういいかな、サンドイッチは」
「じゃあ、パスタでも食べますか? これ、殿下のでしょう?」
「……パスタは流石に一人で食べるしかないな。ああ、でも、君にも。はい」
「ふぁふ!?」
すいと、美しい指先がスコーンを摘まんで、優しく押し込んできた。あぐあぐと食べていると、ふっと慈しみ深く微笑んで、凝視してくる。お、落ち着かない……。
「で、殿下?」
「すまない。少しでも長く、君を見つめていたくて」
「え、ええっと、その!」
「うん? どうしたの?」
まるで恋人のように、私の手を取って甘く囁きかけてくる。心臓がばくばくと鳴り響いていた。深くて海のように青い瞳が、ゆっくりと細められる。
「可愛いね? シャーロット嬢は。ウサギになっても人になっても」
「あ、あああああ甘々台詞は禁止ですっ!!」
「へっ? 禁止?」
「ご飯、ご飯が食べれなくなっちゃうので禁止です……!!」
ああ、どっちなんだろう? 時折見せる弱さと、遊び人がちらりと見せるような甘い顔。そのどちらも本当の殿下に見える。覗けば覗くほど、底が見えなくて恐ろしい。どんどん、深みにはまってしまいそうで。隣の殿下が「それもそうか」と呟いて、ぱっと手を放し、優雅にパスタを食べ始めた。殿下のものにはイカと海老が入っている。そんな美しい横顔を、恨めしく眺めながら黙々と食べていた。先に耐え切れず、口を開いたのは殿下で。
「シャーロット嬢の……その、趣味は?」
「へっ? そうですねえ……図書館に行ったり、植物園に行ったり。あと、お散歩です! お散歩。義妹にリードを付けて貰って、お散歩するのが趣味です!」
「リードを付けて、散歩をするのか……」
「ついうっかりその、はしゃいでしまって、はぐれる時が多々あったので……あと、馬車に驚いて茂みに逃げ込んだこともありますから。そこに蛇がいて怖かったんです」
「ああ、なるほど。大丈夫? 怪我は無かった?」
「ありませんでした! 義妹が追い払ってくれました!」
「そうか、良かった」
また優しく、青い瞳を細めて笑う。でも、先日のような熱は灯っていなかった。人形にはめ込まれた、硝子玉のような青い瞳。それを見て悲しくなって、思わず手を伸ばす。ふと気が付けば、殿下の頬に触れていた。バジルソースを少しだけ付けた殿下が、不思議そうな顔をして「シャーロット嬢?」と聞いてくる。
「殿下。その……何か悩みごとでも?」
「ありすぎてよく分からないな……」
「私に出来ることは何かありませんか? 差し出がましいのかもしれませんが……殿下は酷くお疲れです。怖いです、見ていて」
「怖い? ……上手く笑えていなかった?」
「いいえ。ゆっくりと、崩れ落ちていきそうで怖いのです。昔、よく似た目をした子がいまして」
「それは、君の元婚約者のこと?」
かたんと、フォークを置いて私の手に手を重ねた。甘えるようにすりりと、手に頬を寄せたあと、青い瞳で射抜いてくる。心臓がどきんと跳ね上がった。
「い、いいえ……」
「じゃあ、一体誰だろう? 男じゃないといいけど。誰にでもこんなことをしているのかなって、そう疑いたくは無い」
「殿下にだけです。その、みだりに触れたりするのも……」
「じゃあ、こうやって君に触れるのも私だけか?」
甘く、深い声で囁いて近付いてくる。真剣な青い瞳に見つめられて、思考が止まってしまった。殿下が傾いてゆく私の両肩をがしっと掴み、更に近付いてくる。
「好きな男は? いる?」
「い、いいいいいません! です、ですから! 殿下のペットとして頑張りますね!?」
「ペット……」
「はい! 私、その、変な期待は何一つしていないので! 殿下はそんなこと、絶対になさらない方ですし、安心して通えるなぁと!」
アルフレッド殿下がぴしりと固まって、黙り込む。あまりにも心臓に悪いので、丁寧に両手を振り解き、フォークを掴んでパスタを食べてしまった。もうだめだ、これ以上好きになんてなりたくないのに。醜い勘違いもしたくない。きっと、お戯れだろうから、これも。必死にもぐもぐと食べていると、深い溜め息を吐いて、座り直した。
「私はどうせ、公務しか出来ないポンコツ王弟だよ……」
「でん、殿下!? どうなさいましたか!? あとでもふもふでもしますか!?」
「する……慣れないことをするんじゃなかった。もう私はだめだ、誰からも見放されて終わるんだ……!!」
「で、殿下……!?」