1.彼女が遺してくれた「お守り」のような存在
あなたがいてくれたからこそ、第二の人生を歩んで幸せを掴むことができた。でも、周囲はあの方のことを子供だとは思っていない。────誰も助けになってくれないんじゃないかしら。死の間際、そんなことを考えるのはおかしいでしょうか?
ですが、いつも涼しげな目元を苦しいぐらい、歪めてこちらを見つめるギルバート殿下を見て、“死ねない”とそう思いました。でも、私の体は弱いままで、今こうして横たわっているだけでも、命の源がぼたぼたと零れ落ちて、どこかへ流れ出てゆくよう。私が遺せるのは? この方のために。
この広い王宮でひとりぼっちの王子様がどうかどうか、幸せになれますように。震える手を伸ばして、その小さな手を握り締めた。この手にあなたは、本当に多くのものを握っているから。
(苦しいでしょう? 悲しいでしょう? ……でも、もう大丈夫)
あの子が何とかしてくれるに違いない、きっと。弱い赤子には人を強くさせる、そんな何かが宿っているはずだから。
「ギルバート殿下……きっと、あの子が。アルフレッドがあなたのことを守ってくださいます。ですからどうぞ、あまり思い詰めないでください。アルフレッドが……あなたのことを守ってくれますから。どうぞ甘えてください」
「マルティナ夫人」
どこか呆然とした表情で呟いた。こちらを食い入るように見つめてくる陛下に、何とか微笑みを返す。お二人はそっくりで、弱くて、本当に重たいものを高すぎる地位と共に背負っていらっしゃる方だから。
「大丈夫です、きっと。あなた達にはアルフレッドがいますから……」
本当に幸せだった。目を閉じれば今も、森の中で陛下と出会った時のことを思い出す。涙が一筋、頬を流れて落ちていった。
(アルフレッド、ごめんね……? でも、大丈夫。私が今の幸せを見つけられたように、あなたもきっときっと、いつかは見つけられるはずだから)
私に似て、繊細なあの子がどうか幸せになれますように。心残りはギルバート殿下と、泣き叫んでいる陛下と、目も開いていない我が子を置いていくこと。でも、大丈夫。
「お二人とも、頼みました。アルフレッドがきっと、守ってくれるでしょうから。どうぞ、どうぞ────……」
「アルフレッド。……体ばかり大きくなって、子供のようなことを」
「あ、兄上。どうかお願いです……このもふもふ時間が無ければ、外で一国の王子として振舞えないっ!」
「少し話がしたいと言っているだけだろう? ……それとも何だ? 私がこのままずっと、お前達の婚約を許さなくてもいいのか?」
「あ、アルフレッド様。私なら大丈夫なので……」
「私が大丈夫じゃないんだ、ロッティ!! 離れたくないんだ!」
わぁっと泣き叫んで、ウサギ姿の私をぎゅっと抱き締めた。どうも二人で舞踏会に参加して以来、あちこちで私達の婚約について色々言われるらしく、ますます情緒不安定になってらした。それに、これから精神病院への慰問に行くらしく、紅茶のカップを持って震えながら、「もう終わりだ、終わり。終わりだ……」とおっしゃっていたのに……。
陛下に詰め寄られたことで、とうとう限界を迎えてしまったみたい。壁に背中を押し付け、私の毛皮に顔を埋めながら、「嫌だ、嫌だ……ロッティと離れたくない。嫌だ……!!」と言ってひたすら泣いていた。陛下がそれを見て、ふうと、呆れたような溜め息を吐く。今日も変わらず、金茶色の髪と青い瞳を持った陛下は美しく、茶色いツイードのスーツに身を包んでいた。アルフレッド様は慰問に行くからか、無難な紺色のスーツを着てらっしゃる。
「話がしたいと言っているだけなんだが……」
「……私への嫌がらせですか? 陛下」
それまで涼しげな顔をしていた陛下が、ぴくりと眉を動かした。どうもこの方はアルフレッド様のことが好きで、「陛下」と呼ばれるのはお好きじゃないみたい? 黄色い花模様のドレスを着たシャーロットが、毛皮を膨らませる。そうやって黙り込んでいると、こちらを見下ろしてきた陛下がふっと、蔑むような微笑みを浮かべた。凍てつくような青い瞳を見て、背筋が震えてしまう。こっ、このふわふわな毛皮を見て、そんな顔が出来るだなんて……!! この毛皮が通用しないだなんて、そんな!
「嫌がらせではない。アルフレッド、そのご令嬢をこちらへ渡してくれないか?」
「嫌です。陛下は……陛下はロッティを傷付けるつもりなんでしょう? 気に食わないから、獣人が」
その言葉に違和感を覚える。違う、この方は私のことが目障りなだけ。可愛い弟を、自分から奪っていく私が目障りなだけ。ぐしゃっと、苛立った様子で金茶色の髪を掻き上げた。その青い瞳はただひたすらに冷たく、私のことを見下ろしてくる。
(こっ、これは……!! お兄様を取られなくないブラコン妹の目だわ! エマと同じ目をしてらっしゃる!!)
私の従姉妹のエマも、私がウィリアムと仲良くしてると決まって、嫌そうな顔をして、睨みつけてきたもの! ああ、私の毛皮がもふもふなばかりに……。
「へっ、へへへへっ、陛下は獣人に差別意識があるかもしれない! でも、私は違うんです。この毛皮が無いと、ロッティがいないと生きて行けないから……」
「アルフレッド様、あの、一旦おろして頂けますか?」
「ロッティ。だめだ、この人は本当に冷たい人だから。誰のことも、そう、我が子でさえも愛せないような人だから……」
はっとして見上げてみると、陛下が虚ろな顔をしていた。流石にまずいと思ったのか、アルフレッド様がぎゅっと、私のことを抱き締めながら見上げる。
「……兄上。申し訳ありませんでした。今のは失言で、」
「いや、いい。事実だからな」
重たい場の雰囲気に似合わない、温かみのある微笑みをにっこりと浮かべた。でも、表情には傷付いた色が見え隠れしている。この方は本当に、アルフレッド様のことが好きなんだ……。呆然と見上げていると、陽の射し込んでくる執務室にて、腕を組み直した。また薄い微笑を浮かべる。
「アルフレッド。……いいや、アルフィー。信用ならないだろうが、彼女を傷付けるようなことは言わない。お前とは違ってな?」
「役立たずのゴミの分際で申し訳ありません……!! 出すぎたことを言いました!」
「いや、お前はゴミなんかじゃないよ。現に今もこうして、彼女から離れて公務へ行こうとしている。兄として、誇らしい気持ちでいっぱいだよ。私は」
「いや、あの、ロッティからは永遠に離れたくな、」
「えらいな、アルフィー。頑張って行っておいで?」
満面の笑みを浮かべ、ぽんと肩に手を置く。アルフレッド様は蒼白な顔をして、ぷるぷると震えていた。その微笑みが異様に怖かったらしく、小刻みに震えながらも、私を床へそっと、優しく置いてくれる。すぐさま体を震わせ、乱れた毛皮を整えた。この一手間がないと、綺麗にならないもの!
「アルフレッド様、どうか安心してくださいませ! 私が傷付くことなんてありませんし、絶対に陛下を黙らせてみせますっ!」
「ロッティ。確かに君は素晴らしい毛皮の持ち主だけど、それは兄上に通用しないんじゃないかな……?」
困った顔でしゃがみ込み、私の前足を優しく持ち上げてきた。その途端、背後から冷気が漂ってくる。こ、怖い! 陛下はブラコン、完璧に見える陛下はブラコン……。
「でっ、ですが! 大丈夫です! 陛下はアルフレッド様に甘いし、アルフレッド様のことが大好きなので!」
「えっ? これのどこが?」
「アルフィー……」
「あっ、はい。申し訳ありません、すぐに行ってきます……」
そうは言っても執務室の扉に手をかけた瞬間、やっぱり不安になったのか、くるりと振り返って「ロッティ~……!! 不安だ、どうしよう!? 兄上に嫌なことを言われないといいが!」と叫んで、人の姿に戻った私をぎゅっと抱き締めてきた。でも、これは火に油を注いでいるだけですよ、アルフレッド様……。ますます、背後からひんやりとした冷気が漂ってくる。
「あの、アルフレッド様? 私でしたら大丈夫ですので……」
「兄上……ロッティに何か言ったら、許しませんからね?」
「具体的にはどういった風に?」
「……」
「アルフレッド様、あの、私なら大丈夫ですので……!! 時間も押していますし、行ってきてくださいな! さぁ、お早く!」
しくしくと泣くアルフレッド様を慰め、ひとまず応接室へ移動して、向かい合った。ここは陛下がごく親しい人だけを招いて、もてなす応接室らしく、性格が目に見えてくるような内装だった。
シックな焦げ茶色に、金の植物柄が描かれた壁紙。絨毯は深いモスグリーン色で、何の柄も浮き出ていない。剣が飾られたキャビネットに、夜の湖が描かれた絵。白いテーブルクロスがかけられたテーブルに、座り心地が悪い椅子。奥の窓から、初夏の眩しい陽射しが落ちてきているのに、ここだけ空虚で色が無かった。運ばれてきた紅茶のカップをソーサーへと置いて、陛下がようやく口を開く。
「あの子は君が来てから、弱くなった。……以前はあんな風に、騒ぐことも無かったんだが」
「気を許しているからですよ、陛下と私に。外では完璧な王子様です」
「……ああ言えばこう言う。君はどうやら、私の弟とは違って怖くないらしい。私のことが」
王妃様が惚れこんだというのも納得の、美しく整った顔立ち。陛下はアルフレッド様の十歳上で、三十八歳。でも、年齢不詳だった。僅かに目元にしわが刻まれているものの、それも王としての風格、そして色気を漂わせている。似ている雰囲気がありながらも、どこか正反対。それがこのエオストール王国の国王で、アルフレッド様のお兄様。金茶色の髪に、青い瞳を持ってはいても、人に与える印象はおそろしく冷たい。向かいでうっすらと、油断のならない微笑みを浮かべていた。
(でも、中身はブラコンなのよね……)
だから、ちっとも怖くなかった。紅茶を一気にごくごくと飲み干し、ソーサーの上へと置く。あれだけ憎たらしいと思っていた陛下なのに、ブラコンだって知ったからか、嫌な感情は湧き出てこなかった。
「陛下。アルフレッド様に嫌われますよ、こんなことをしていると」
「……怖いもの知らずな。いや、身の程知らずか? それとも、獣人ごときにそんなことを思う、私が愚かなのか」
「アルフレッド様のことが好きなんでしょう? そりゃあ、私がこの素晴らしい毛皮で虜にしてしまったことは申し訳なく思って、」
「単刀直入に言う。弟と別れてくれないか?」
なっ、何もかもを無視して突っ込んできた……。にっこりと微笑んではいるものの、頬が引きつっている。なのにどうしてだろう、ちっとも怖くない。それどころか、敬う気持ちも出てこない。この方は子供で、私にアルフレッド様をとられまいと、駄々をこねてらっしゃる。
「アルフレッド様から、陛下は父親のような存在だったと、そう伺いました」
「……それが? この婚約話と何が関係、」
「一体、どうして私にそこまで嫉妬しているのですか?」
「嫉妬だと?」
ひやりとするような、ナイフのように鋭くて暗い声だった。それまでの微笑みを掻き消し、一転して、仄暗い表情となる。
「君には……一体何が見えている? 君の目に、私は一体どう映っている?」
「アルフレッド様のことが大好きなお兄様、ですかね……?」
「……」
だ、黙ってしまわれた……。どうしよう? 何がいけなかったのかな。困惑して見守っていると、硬直していた。「信じられない」とでも言いたげな表情で、限界まで青い瞳を瞠ってらっしゃる。ああ、こんな風に不器用なところは、アルフレッド様とそっくり。
「舞踏会の時、二階から私のことを睨みつけていましたよね? 陛下は」
「さぁ。……見てはいたが、よく覚えていない」
「あれは嫉妬に狂う、兄の目でした……!!」
「君が傍にいると、弟はますます情緒不安定になっていくみたいでね……。別れてくれないか? もちろん、君に相応しい貴族の子息も紹介しよう。金も払う。……だから、別れてくれないか?」
その言葉にきょとんとしてしまった。またあの、甘ったるい微笑みを浮かべて座っている。あの夜見た、陛下はもっともっと王様らしくて、背筋も凍りつくような────……。
「おそれながら陛下。陛下にとって、アルフレッド様は一体何ですか?」
「……聞こえていないのか? 私の話が」
「本当に本当に、可愛い弟ですか? ですが私の目には、」
「もういい、黙れ! シャーロット・オーウェン!!」
がちゃんと、音を立てて立ち上がった。驚いて息を飲み込めば、はっと焦った表情で我に返り、口元を押さえる。
(この方は……本当に、アルフレッド様に関することになると、駄目になってしまうのね)
沈黙が落ちた応接室で、深く深く、溜め息の音だけが響き渡った。外の中庭の木には小鳥が止まっている。ぴるぴると、高らかなさえずりが耳へ届いた。ぎゅっと、真っ白なテーブルクロスを握り締め、うつむく。アルフレッド様と少し似た、金茶色の髪が流れ落ち、陽に照らされている。
「私は……私にとってのアルフレッドは、お守りのような存在だ」
「お守り、ですか? それは一体どういう意味で、」
「ああ、彼女が遺してくれた。……それがあれば、まともな人間でいられる」
最後に呟かれた言葉は本当に小さくて、人間だと聞き取れなかったと思う。でも、私の垂れたウサギの両耳はしっかりと、その言葉を聞き取っていた。お守りのような存在で、それがあるとまともな人間でいられる。ふと、ある言葉が口をついて出てきた。
「陛下は……アルフレッド様がいるからこそ、完璧な王様になれるんですね?」
「ああ、そうだな。……悪い、取り乱してしまって。怖い思いをさせたな、シャーロット嬢」
律儀に謝ったあと、品良く椅子に腰かける。こういうところはアルフレッド様にそっくり。驕り高ぶらず、優しくて礼儀正しい。真面目な顔をした陛下が、改めて私を見つめてきた。
「それで、別れる気は無いと?」
「あっ、はい。それに……アルフレッド様には、私がいないとだめです。そのあたりのこと、お兄様である陛下ならよくご存知なのでは?」
「そうだな……あれは昔から、お気に入りのぬいぐるみでも絵本でも何でも、こちらが呆れるくらい、大切に扱うような子だった……」
お母様であるマルティナ様亡きあと、アルフレッド様を育てたのは陛下だった。火がついたように泣き叫び、乳母が与えようとしてきた母乳も飲まなかったアルフレッド様は、ひとたび陛下を目に入れると、泣き止んで笑ったらしい。先日の会話が脳裏に蘇ってくる。
『だから、陛下は私を育ててくれただけで……大きくなった今では、ストレス解消のためにいじめ抜く、』
『あの、アルフレッド様? それからは一体……』
『ああ、そうそう。赤ん坊の私が乳母を泣いて嫌がるものだから、陛下がみずからお乳をやって、寝かしつけもしてくれたらしい。まるで覚えてないが』
『でしょうね……』
兄の心、弟は知らず。ふとそんな言葉が浮かんできた。それからというものの、アルフレッド様はひたすら陛下を必要として、いないとずっと泣き続けたのだとか。それまで顔を伏せ、虚ろな顔で紅茶を見つめていた陛下が、ぽつりと口にする。
「なら、代わりのものを見つけて与えてやればいい。……そうだろう? シャーロット嬢」
「そんなことをしても、陛下の気が晴れるとは到底思えませんが……」
「すまないな。……弟のことになると、どうにも」
ひとりごとのように呟き、じっと、虚ろな表情でティーセットを眺めていた。私も何も言わず、陛下のことをただ見つめる。数分にも、数時間にも思える沈黙が過ぎ去ったあと、ようやく口を開いた。
「彼女にも言ったが、テストをしてみようか。……なに、そう難しくはないテストだ。シャーロット・オーウェン」
「受けて立ちます、陛下。それで、貴方様の気持ちが少しでも晴れるならば」




