2.女嫌いの殿下の秘密と沢山のキス
それからというものの毎週、決まった曜日に昼食を一緒に食べることになった。そのあと、普段ちっとも休まない殿下を無理矢理休憩させる時間、その名も。
「もふもふ時間、最高っ……はー、疲れた。もうずっとこのままでいたい」
「でん、殿下。大丈夫ですか……?」
紺色のジャケットを脱ぎ、白いシャツ一枚になってカウチソファーに寝転がった殿下に抱えられながらも聞いてみると、疲れたように笑った。顔が見えないのがちょっとだけ残念。
「ありがとう……大丈夫だよ。こんな風に未婚のご令嬢を抱えるのはよくないことだって、そう分かっているんだが」
「だ、大丈夫ですよ……殿下のお役に立てて嬉しいです。それに、私にまで気を使わなくてもいいんですよ?」
そんなことを言ってみると、どうしてか黙り込む。あ、あれかな……失礼だったかもしれない。びくびくと怯えて、しっとりとした毛皮を震わせていると、優しく笑って抱え直してくれた。ウィスキーのような、甘くて古いお酒の香りがふんわりと漂う。
「ありがとう……別に気を使った訳じゃないんだが」
「あ、あの、一つだけ質問いいですかっ?」
「なんなりと。一体どうしたの?」
聞いてはだめなことなのかもしれない。でも、疲れたように笑って、終始礼儀正しく接してくれる殿下は、夜会で見る時とは全然違っていて。
「殿下はその……もっともっと、近寄りがたい方だと思っていました。その、女嫌いの噂もございますし」
「ああ、あれは……わざと流して貰ったんだ、そんな噂を」
「へっ!? い、一体どうしてですか!? そんな、もったいない!」
「もったいない……? その、あまりよろしくない理由だから話したくないんだが」
「す、すみません! 王家の……秘密とか!?」
「っふ、いいや。違うな……」
くすりと笑って、私のもふんとした体をぎゅっと抱き締める。幸せだった。遠く及ばない御方だけど、好きな人だから。淡くて芽生えたばかりの感情だけど、でも、好きなのには変わりないから。
「私は……その、女性を前にすると緊張してしまって」
「緊張……」
「ああ。だが、そんな風には見えないらしい……外交でお相手するのは、ええっと、言い方はよろしくないがお年を召した方ばかりだ。ときめきはない、緊張することもない」
「ときめき……」
「ただ、夜会ではその……ドレスを着たご令嬢ばかりが現れる。怖いんだ、失望されるのが。呆れられるのが」
ぎゅうっと、枕を抱えるみたいに、私の小さな体を抱き締めた。ああ、そっか。だから。
「ご挨拶する時、無なお顔なのも……?」
「緊張しているんだよ……だって、その、みんな美しい。笑いかけてくるんだ、怖い」
「じょ、女性恐怖症なのですか?」
「いいや、違う。ただ、女性と何を話せばいいのかよく分からなくて……それなのに、沢山近寄ってくるんだ。一体どうしたらいいと思う? 私は書類と睨み合う日々なのに、そんな知識を身に付ける暇は無いというのに。何故かみんな、私が女性慣れをしていると思っている……ああ、だめだ! きっと、こんな私を知ればみんな失望する。変な噂を流されるに違いないんだ……っ!! 怖い!!」
「わふっ」
色っぽくて、甘い顔立ちを持っている、どこか野生的な殿下の中身はちょっぴり繊細で臆病で。驚いて、もぞもぞと腕の中から抜け出せば、手を伸ばして「むちむち、ふわふわ……!!」と言って、私の背を撫でてきた。もふんと、殿下の指先が柔らかな毛皮に埋まって、地肌をマッサージしてゆく。その優しい指先が、あまりにも気持ちよくて、ついつい後ろ足が伸びてしまった。
「はふん! 殿下の指先、好きです! 優しくて気持ちがいい!」
「う、うん。それは良かった……」
何故か、しきりに扉の方を気にしている。構って貰えないのが淋しくて、もふもふな体をぽむんと顔に押し付けると、「わっ」と言って喜んでくれた。
「は~……!! だから、どうか秘密にしておいて欲しい。私の中身はみんなが思うほどよく出来た、立派なものじゃない。それどころか私は、女性と目を合わせるたびに顔が引き攣ってしまうし、緊張してろくに喋れないし、だめな王弟なんだ……公務しか出来ない、書類仕事しか出来ないポンコツ王弟なんだ。私は、私は」
「で、殿下!? だめな存在なんかじゃありませんよ!? 殿下はとっても素敵な御方です!」
前足でぽふぽふと、頑張ってソファーの座面を叩いてみると、起き上がったアルフレッド殿下が嬉しそうな顔をして、ふんにゃりと笑う。吸い込まれそうな深さの、青い瞳が優しく細められていた。どきんと、心臓が跳ね上がる。
「ありがとう……そう言ってくれるのは、シャーロット嬢だけだよ」
「みな、みなさんはなんて……?」
「だめ王子……昔からそう言われてきたんだ。王族たるものなんて、聞き飽きたなぁ。でも、正論なんだ。国民に生かされている存在だからって、お祖母様がよくそう仰っていた……」
今は亡きかつての女王を思い出しているのか、くらりとその美貌が翳る。長い睫が影を落として、白い肌を彩っていた。また、この前のように青い瞳を虚ろにさせて、毛皮の表面を優しく撫でてゆく。
「王族に人権は無いね、シャーロット嬢。持つもの一つ、選べないんだ。誰の視線からも逃れることは出来ない。失望されるかもしれない」
「誰もしませんよ、失望なんて……」
「いいや、するんだ。みんな、王族というだけで美化してくるから……どこに行ってもその視線が付き纏う。評価もね。比べられて、どうでもいいことばかりを耳に入れられる……」
美しくて色っぽい王弟殿下は、どこの誰よりも疲れているように見えた。じゃあ、その砂漠の夜のような淋しさを、私の毛皮でお慰めすることが出来たら。そっと寄り添うと、また嬉しそうに笑って「シャーロット嬢」と呟き、私の頭を撫でてゆく。
「私は殿下のなでなでが好きです! だから、貴方は素敵な人です」
「なでなでが上手なだけで……?」
「だって、殿下は適当に撫でたりしないでしょう? 私が顎を上げれば、すかさずさっと、顎の下を撫でてくれるし! 気が利かない人も多いんですよ? 殿下にはなでなでの才能があります!」
「なでなでの才能が私に……」
「だから、それだけでいいんです。少なくとも、私にとっては」
だから、落ち込まないで。元気を出して。こんなに優しくて繊細な御方が、自分の脆さを責めていると、私まで悲しくなってしまうから。
「私だってピアノは得意じゃありません、刺繍だって上手く出来ません。絵を描く時間も苦手で……キーってなって、ウサギの姿でじたばた寝転がる時だってあります」
「なにそれ、可愛いな……」
「だか、だから! 殿下もあまりご自分を責めないでください。私はなでなでが上手な貴方が素敵だなと思うし、だめだとはちっとも思いません! 殿下は思いますか? 淑女らしいことが苦手な私がだめだなぁって」
「いいや? ちっとも。優しいし、君はこんなにも素敵な毛皮を持っているし」
「そっくりそのままお返ししますね、殿下。貴方は心優しいし、毎日ちゃんとお仕事が出来ている方です。えらいっ!」
「わっ……」
ぽふんと、魅惑のむちむち毛皮を顔に押し付ける。きっと、これで殿下も元気が出るはず!
(今まで私にこうされて、喜ばない人間はいなかった!!)
ふんふんと鼻息荒く、自慢の毛皮を押し付けていると、アルフレッド殿下が笑って私を抱き上げる。
「はー……ありがとう、シャーロット嬢。可愛いし、優しいし。こんなに素敵な毛皮も持ってるし。文句無しだ、言うところが無い完璧なご令嬢だよ」
「ほっ、本当ですか? でん、殿下も人を褒めるのがお上手ですね……!!」
喜びに打ち震えていると、私の両脇に手を入れて抱えたまま、愛おしそうに青い瞳を細めた。その青い双眸に魅入られて、固まっていると、形の良いくちびるが近付いてくる。ちゅ、と私の鼻先辺りにそれが触れた。
「ふぉ!?」
「……申し訳ない。ウサギの姿だったらいいかなと、そう思って」
「っは、ほわ、で、でも、乙女のくちびるなんですよ……!?」
「ごめんね? でも、初めてじゃないだろうからいいかなと思って。一度、婚約しているんだろう?」
ああ、私がさっきまで見ていた、よわよわな殿下は幻だったのかもしれない。色気を含んだ、妖艶な微笑みに心臓がばくばくと騒がしくなる。胸の奥が詰まって苦しくなる。
「ふぁ、ふぁい……でも、緊張しました。少しは自重してくださいませ、殿下!」
「うーん……申し訳ない。努力するよ」
「でん、殿下……!!」
「君が私にキスをしてれたら、少しは自重出来るかもしれないね?」
くすりと笑って、私を高く掲げて見上げる。思わず前足が動いた。今すぐ、元の姿に戻って抱きついてしまいたい。でも、それはきっと嫌われちゃうから。ぱたぱたと前足を動かして、訴えてみる。
「しま、しましゅ! あの、します! から、おろしてください~……怖いです。高くて怖いっ」
「ああ、悪かった。はい、どうぞ」
「!?」
何故かいきなり、赤ちゃん抱っこをされてしまった。ぴしりと固まっていると、深くて青い瞳を細めて、私のことを見下ろす。さらりと、濃いブラウンの髪が流れ落ちた。
「シャーロット嬢は可愛いね、本当に。私の癒しだ」
「ふぁ、ふぁの、殿下……?」
「キス、してくれるんだろう? 私に」
ぐっと、その整った顔立ちが近付いてくる。殿下のお顔立ちは冬の澄み切った空気のようで、鼻梁がすっと通り、青い双眸は綺麗に整っている。くちびるは薄く、その肌は白く透き通っていた。それなのに、濃いブラウンの髪が色気をほんの一匙加えていて。あわあわと焦っていると、殿下がまた、私の鼻先に優しくちゅっと、キスを落としてきた。
「あ~……可愛い。他の場所にしてもいいかな?」
「ひゃい? どう、どうぞ……?」
「可愛い。人の姿だったら、耳まで真っ赤になっていたのかな……」
ひ、人の姿じゃなくてよかった! ああ、でも、垂れ耳が緊張してぴくぴくと動いてる。殿下が微笑みを深めて、私の胸元に指を埋め、そっと優しく額にキスをする。青い瞳が、私のことを至近距離で見下ろしていた。吐息がかかる、甘い匂いがふわりと漂う。
「でん、殿下……!!」
「ごめんね? つい、からかいたくなってしまって」
「う、嘘でしょう!? 女性相手に緊張するなんて!」
「君はうんと年下だし、可愛いからね。あまり緊張しないんだ」
ぴしりと、体にヒビが入りそうになってしまった。
(つま、つまりは……私のこと、女性として見てないってこと!?)
ああ、早くも片想いで終わってしまいそう。こんな御方に恋をするような私が悪いんだろうけど、でも。じわりと目に涙が浮かぶ。もて、もてあそばれているような気がする!
「でん、殿下! 私のこと、からかわないでくださいませ!」
「ご、ごめん……」
「そんなに、っう、いじわるばっかりするのなら! もうここへは来ません、殿下とは二度と会いたくありません!」
「そっ、それは困る……!! 申し訳ない! 君は私にとって救いの女神のような存在なのに!?」
ああ、そんな称号はいりません。遠慮します。
(ただ、アルフレッド殿下の隣に立ちたいだけなのに)
でも、このか弱い四つ足じゃきっと無理だ。私のように、獣の耳が生えた女は殿下に相応しくない。じわりと、抑えていた涙が滲み出てくる。泣き出した私を見て、殿下がぎょっとした顔をしていた。
「シャーロット嬢、私は」
「それに、私! 早く結婚相手を探したいんです! じゃないと、もう」
「それじゃあ、私が誰か紹介してあげようか?」
「……本当ですか?」
「ああ。そうだな、二年……二年、せめて私の傍にいてくれないか? きちんとした身元の子息を紹介しよう」
「わ、分かりました……二年。長いですね?」
「じゃ、じゃあ、一年半で……」
殿下が私を赤ちゃん抱っこをしたまま、困った顔をする。きちんと諦めなくては、この御方を。
(淡い恋心ならまだ、消せるもの)
私は殿下の癒し係。この複雑で繊細な御方に寄り添って、ふわふわむちむちの毛皮でお慰めするの。そして、一年半が過ぎた頃、新しい人と会って結婚すればいい。
「だ、大丈夫ですかね……? 私、振られませんかね?」
「え、ええっと、次々紹介してあげるから……!!」
「じゃあ、それで……よろしくお願いします」
「あ、ああ……」
そのあと、何故か殿下は落ち込んで、ずっと私のお腹にふがふがと顔を埋めて、息を深く吸い込んでいた。その指先が気持ち良くて、すうすうと寝息を立てて眠っていたら、「時間だよ」と言って優しく揺り起こしてくれる。
「ん……殿下?」
「侍女を呼んでこよう。別室で着替えるといい。……ああ、好きなお菓子は? 今度から用意したいんだが」
「クッキーと……フィナンシェ。甘いものなら何でも好きれふ」
「そうか。気が合うね、シャーロット嬢」
「殿下も甘いものがお好きなんですか?」とは、聞けなかった。アルフレッド殿下があまりにも、淋しそうな顔でこちらを優しく見下ろしてくるから。
「また……来週ですね?」
その言葉に、ふっと青い瞳を瞠る。それから、名残惜しそうに甘く囁いた。
「そうだね……また来週だね? 次が待ち遠しいよ。今日はありがとう。優しく慰めてくれて」