1.毎週のもふもふが決定しました
「これからも是非、定期的にもふらせて欲しい」
あの日、色んな意味で目覚めたアルフレッド殿下はそう仰ってくれた。だから、抱き上げられながらも「はい、お望みとあらば」と、そうお答えしたのですが。柔らかな栗色の垂れ耳を揺らしたシャーロットが、ふんふんと鼻歌を歌いつつ、魔術書庫へと続く廊下を歩く。ここは王族の方々が住まう部屋や大広間といった、主要な部分からかなり離れているところで、延々と渡り廊下が続いてゆく。
(私の毛皮は~、あの王弟殿下さえも夢中になる毛皮っ! 王室御用達のむちむちふわふわ、魅惑の毛皮~)
白い大理石の柱がいくつも並び立ち、両脇には緑豊かな芝生が広がっていた。ふと横を見てみると、白い花の世話をしている庭師のおじいさんがいた。こちらを見てきたので、微笑んで会釈をする。でも、すぐに嫌そうな表情となって顔を逸らしてしまった。ああ、お年を召した方だから。獣人がお嫌なのかも?
(もう何百年も前の話なのに……獣人が奴隷扱いされていたのは)
奴隷というよりも、ペット扱いかもしれない。とにかくも男は労働力、女は愛玩用として酷使された。人間とみなされなかった。でも、人間にもいい人は沢山いて。歴史によると、気高きドラゴンの血が混じった王が立ち上がり、その国を起点として、徐々に「獣人と我々は同等だ」と唱える貴族や思想家、政治学者が増えていった。こうしてじんわりと、渇いた土地に雨季の雨が降り注いでいくかのように、獣人差別撤廃の考えが広がっていった。それでも、今みたいに嫌な顔をされてしまう時もある。
(私が……ウサギだから? わんちゃんや猫ちゃんの獣人はあまり、嫌そうな顔で見られないって言うけどなぁ)
でも、私、この姿でウンチを食べたりしない。……元の姿に戻ったらするけど。興味本位で「妊娠出産の時は? どうなるの?」だとか、「ウサギのオスも恋愛対象なの?」とか、ずけずけと聞いてくる人が多い……。
(まったく! 失礼だとは思わないのかしら?)
人間が猿に恋をしないのと一緒で、私もウサギのオスに恋したりなんかしない。妊娠出産は人間の姿でも出来るし、選べるし! 落ち込みながら歩いていると、ふと黒い影が差した。
「あれ? シャーロット嬢。今日も君のお父上が昼食を忘れたのかな?」
「あっ……そうなんです。でも、その、今日はちょっと違っていて」
「違う? 何が?」
お父様の部下でもある魔術書庫の職員、コンラッドが煌く星空をローブに仕立てたかのような、少しだけ銀色の煌きが走っていて、深い青と漆黒が混ざったローブを羽織って佇んでいた。良かった、今日はちゃんと着ていた。たまに、夏の暑い日だとローブを脱ぎ捨てて、上半身裸になっているから。茶色い髪に黒い瞳を持った彼が、わくわくとしながら私の返答を待っている。
「今日はですね? な、なんと……!! 内緒にしなきゃいけないことでした。たぶん」
「えっ? なに? たぶん?」
「あんまり……言いふらしちゃだめなことかなと、そう思いまして」
「んー……俺、こう見えて口は堅いんだけどな? あれ? ひょっとして誰かとの密会だったりします?」
「ふぉっ!? ど、どどどどうして」
あっ、しまった。動揺しちゃいけなかったのに、今。垂れ耳を震わせていると、コンラッドがにっと不敵に笑う。
「そっか。……立ち直ったんですね? あの婚約破棄事件から」
「あれは……その、私に魅力が無いからで」
「そんなことはありませんよ。ああ、ジェームズさん。可愛い娘さんがあなたに会いに来ていますよ。これからどなたかとデートだそうで」
「こっ、コンラッド様!? その、私は!」
のろのろとやって来たお父様を振り返って、そんなことを言い出した。慌てて黒いローブの腕にしがみついていると、我慢し切れなくなったのか、くるりと向き直って「失礼! 少しだけもふもふしても?」と言って、ふわっと私の両耳に触れる。
「は~……ふわふわ~! 絹みたいだ、素晴らしい。ほら、流石にジェームズさんの耳をその、触る訳にはいかないので」
「すまないな、コンラッド君。私も嫌だし、妻も嫌がることだろう……さて、可愛いシャーロット? 誰と会う予定なんだって?」
「おっ、おおおおお父様……!!」
お父様がゆっくりと現れ、眼鏡越しにオリーブ色の瞳を細める。私と同じ、栗色の髪はちょっとだけ貧しかった。それから、コンラッドと同じ美しいローブを羽織っている。
(だっ、だって、あの時のこと。夢なんじゃないかって、まだそう疑ってるから。言えなくて)
あの吸い込まれそうな青い双眸に、優しい手。それに動物好きと自称するだけあって、もふもふテクニックがすごかった! あのあと、目覚めた殿下が改めて優しく優しく、私の地肌をマッサージするかのように、両耳の付け根をもふもふしてくれた。その時のことを思い出すだけで、うっとりとして毛皮が震えてしまう。
「あっ、あの! 悪いことはしておりません……決して」
「それはね? よく分かっている。お前は優しくて真面目な子だから、」
「で、でも! 私……まだ信じられなくて。とにかくいいことがあったとだけ! お伝えしておきますね!」
「……プロポーズでもされたのか? 一体どこの誰に?」
「まぁまぁ、落ち着いてくださいよ。ジェームズさん……お嬢さんも困っていることですし、少し待ってみては? 話すつもりが無いようには見えませんけど?」
コンラッドが気安く肩にぽんと手を置いて、険しい顔となったお父様をなだめる。よ、良かった。助けてくれた。
「シャーロット嬢、お父上に渡しては?」
「あっ、はい……あの、これ。お義母様が作った人参のグラッセと胡桃パンです」
「カミラがわざわざ作ってくれたのか! ああ、でもまた、バーナビーがうるさく騒ぐかな……」
「ふふ、大丈夫です。お義母様が貴族のご令嬢でもきっと、バーナビーはうるさく騒いでいたことでしょうから」
オーウェン家の家令、バーナビーはとにかくうるさい。若い頃にさる公爵家に勤めていたことが自慢で、やいやいと色んなことに口を挟み、数年前にやってきたお義母様にも当たりが強い。でも、かつては歌姫として活躍していたお義母様は歯牙にもかけず、にっこりと微笑んで「可愛らしいじゃないの。それに、あなたものんびりしていて人に騙されやすいから、ちょうどいいわ」と言って、不満そうなお父様をなだめていた。
(そう……悪い人じゃないんだけど。ただ、ちょっとだけ口うるさいだけで)
口癖は「のんびりとした旦那様やお嬢様は、この私が目を光らせて守らなくては!」だもの。愛情からだから、そこまで気にならないけど。ふうと溜め息を吐いていると、気遣わしげな顔をして、コンラッドが話しかけてきた。
「あの……約束のお時間は? 大丈夫ですか?」
「あっ! え、えーっと、そろそろ行かなきゃ! それではごきげんよう、お父様。コンラッド様」
ちょこんと淡い青のドレスの裾をつかんで、お辞儀をしてみると、コンラッドがにっこりと嬉しそうな微笑みを浮かべてくれた。お父様もバスケットを持ちながら、にっこりと微笑む。
「はー……春ですねぇ。お嬢さんも恋をする季節ですか」
「残念だったな、コンラッド君。他の男に取られそうで」
「嫌だな、それをそっくりそのままお返ししますよ。ジェームズさん、可愛い娘さんが、どこかの馬の骨にさらわれてしまいそうだ」
「いや、なに。馬の骨とは限らんぞ? なにせシャーロットは極上の毛皮を持っているからなぁ。去年に開催された、毛皮コンテストでも見事優勝を射止めて……」
「……審査員も確か、もふもふしていましたね? いいなぁ、もふりたい。眺めたい」
「もっふもふ~、もっふもふ~」
「……殿下。気持ち悪いのでやめて貰えませんか?」
「酷くないか? ルイ。あと、もうあっちに行ってくれ、彼女と二人きりで過ごしたいんだ」
後ろに控えていたルイが、嫌そうな顔となる。しかしすぐさま姿勢を正して、頭を下げると、私と殿下を二人きりにしてくれた。ぱたんと、執務室の扉が閉まる。流石に今日は私室じゃなかった。ちょっとだけがっかりしてしまう。今日も甘い色気を漂わせている殿下は、シンプルな紺色のスーツを着ていた。滑らかなブラウンの髪と、青い瞳が陽に煌いている。
「さて、シャーロット嬢? 先日は見ず知らずの貴女に、本当に申し訳ないことをしてしまった。どうかこの通りだ、私を許して、」
「まっ、ままままま待ってください!! あの、殿下は頭を下げちゃいけませんよっ!?」
いきなり深々と頭を下げられてしまい、驚いてその額を持ち上げて、ぶんっと元に戻す。いや、これは不敬に当たる! 慌てて見上げてみると、どこかぽかんとした顔で自分の額を押さえていた。二十八歳とは思えない、どこかあどけない表情。
(あ……綺麗。海みたいな青)
深く透き通っていて、まるで何も映していないみたいだ。青い瞳の奥に、どこか虚しい感情を見つけてしまって苦しく思う。それを知ったって、私には手が届かない御方なのに。
「あの……殿下は何も悪くありません。むしろ家臣の一人として、お役に立てて嬉しい限りです」
「しかしだ。怖かったんじゃないか?」
すごく気遣わしげな顔をして、そんなことを言ってくる。思わずきょとんとしてしまった。
「ほら……私はあんな風になるともうだめだし」
「もうだめ……」
「どうも、ふらふらと出歩いてしまうというか……その、誰彼構わず迷惑をかけてしまう。それに、君の立場だ。断れなくて怖かったんじゃないか?」
アルフレッド殿下に、こんな風に気にかけて貰えるとは思わなくて、うっかり目が丸くなってしまった。戸惑って、「シャーロット嬢?」と聞いてくる。
「あ、ああ。申し訳ありません、殿下。大丈夫ですよ、私は。それよりも殿下は大丈夫でしょうか? その、昨日はかなりお疲れだったみたいで」
「ああ、だね。無理をしても、効率が悪いだけだって。そうきちんと理解している筈なんだけどね……」
窓の方を見つめながら、苦笑して腕を組む。あれ? 何となく噛み合ってないな。私は殿下のことを心配しているんだけど。
「あの、お腹とか痛くないですか?」
「お腹……!?」
「頭は? 頭痛とかありません? もふもふします? 私のこと」
また青い瞳を瞠って、腕を組んだまま黙り込む。どこか困った顔をしていた。くちびるも子供のように歪んでいる。
「殿下のことが心配なんです。あの、お会いしたばかりなんですけど。昨日もどこか、淋しそうなご様子でしたから」
「淋しそうなご様子……」
「殿下はご存知ないかもしれませんが、私のように、極上むちむちふわふわ毛皮を求めている方は、大抵疲れております! もちろん、私の毛皮は魅力的ですから、どんなに元気な方でもつい、ふらふらと血迷ってしまって、」
「っぶ、ふ、くくくく……!!」
何故かそこで、アルフレッド殿下が口元を押さえて笑う。ど、どうしたんだろう? そんなにおかしなことを言った覚えは……。
「も、申し訳ありません! カラスが自分の子を褒めているみたいですよね、これって」
「いいや? はーあ……おかしい、笑った」
浮かんだ涙を拭いながら、魅力的に笑う。一気にどくんと、心臓が跳ね上がった。頬に血が集まる。
「確かに君の毛皮は、どんな人間でも虜にすることだろう。っふ、ふふふ……!!」
「あ、あの、もうどうかそのへんで……!!」
「申し訳ない。つい、可愛くて」
「かわ、可愛くて……」
ウサギの姿になると、よく「可愛らしいわね」と褒めて貰えるのですが。どうも殿下の言う「可愛い」は、それとは少し違うような気がして。美しい指で口元を押さえ、ゆったりと色気のある微笑みを浮かべた。
「可愛い。顔が真っ赤だ」
「でん、殿下……!! その、もふもふはっ!?」
「ああ、君が嫌でなければ。是非したいところだが」
「い、嫌だなんて!」
「おっ?」
がしっと、殿下の冷たい両手を握り締める。逞しくて、甘く整った顔立ちをしているのに、女嫌いで有名の殿下は思ったよりも優しい人で。もっともっと、触れてみたいと思ってしまった。この人のことが知りたいって、獣人の子爵令嬢なのにそんなことを願ってしまった。
「私、殿下のテクニックの虜になってしまいました! 触れられるたびに、どんどん気持ちよくなっていって、」
「落ち着こうか、シャーロット嬢。誰が扉の外で聞いているか分からないからね?」
慌てて私の手をぎゅっと握り返し、扉の方を眺める。それから、ふうと溜め息を吐いた。
「君、婚約者は? 私のせいで変な噂が立ちでもしたら」
「いないです……婚約者なんて」
「何歳? 見たところ、十六か十七だけど……」
「じゅう、十九歳です!」
「も、申し訳ない……」
そう、十九歳で未婚となると、立派な嫁き遅れ。なにせ社交界にはどんどん、若い女の子が入ってくる。十五か十六で社交界デビューしたあとは、必死に結婚相手を探さねばならない。十八歳になるまでには婚約して、結婚する予定だったのに……。元婚約者の顔がよぎって、胸がちくりと痛んだ。
「……私、一度婚約破棄されているんです。その上、獣人で子爵家の娘。むしろ、殿下にご迷惑がかかるんじゃないかって」
「婚約破棄? それならなおのこと、好都合だ。素晴らしい」
「へっ……?」
「君を振るような男なんて、君に相応しくないと思うが」
さっきまでどこか虚ろだった青い瞳が、じわりと熱を帯びる。その熱っぽい眼差しに、どんどん頬が熱くなってゆく。握り締められた手から、この緊張が全部伝わってしまうような気がした。
「あ、あの、私……」
「これから毎週、私の執務室に来てくれないか? 癒しが欲しいんだ!」
「癒し……」
「ああ、毎回お茶も用意しよう。ドレスをいちいち着替えるのが面倒ならば、魔術仕掛けのドレスもこちらで用意しよう。ウサギに変身するたび、ドレスが脱げるということもなくなる」
ああ、恥ずかしい!
(私ったら、つい! こん、婚約者として求められているのかと!)
これは神様が私に与えた罰なのかもしれない。すっかり浮かれていた。もしかしたら殿下も先日、運命的なものを感じてだとか何とか────……。
「うぐ、限界れふ……!!」
「わぁ!? これ、もしかして熱があるんじゃないのか!? す、すまない! 体調不良だとは気付かず! てっきり私は、君が照れているのかと思って!」
いいえ、照れていたんです。そしてたぶん、ちょっとだけ不器用な貴方に恋をしてしまった。身分違いで、身の程知らずで。でも。ぎゅうっと、私の体を支えてくれた、殿下の腕を握り締める。
「殿下……私、これから癒し要員として頑張りますね!」
「へっ? あ、ああ。そんなことよりも大丈夫か? 今すぐ横になった方がいいんじゃ……」
こうして、私は毎週呼ばれるようになった。殿下が心配して、ウサギ姿の私を沢山もふもふして、「早くよくなるといいんだけどなぁ」と言ってくださったので、お熱は収まりました。
(でも、恋の熱は増した気がするっ……)