1話 水鳥 創
水鳥 創は自分が嫌いだった。
自分を取り巻く自分自身が嫌い。自分を成り立たせる自分自身が嫌い。
自分という自分が、嫌い。
僕には何も無い。
色も無ければ形も無く、その由来やら根源というものも無い。
無。無、無。無無無無。
僕の周りには誰もいない。かといって、僕の中にいるわけでもない。自分すら、いない。
自分探しに、どこか知らない所へ行ってしまおうかと思う。実際したこともある。
もちろん得るものなどはなく、帰還して残るものすらなく、何も無い。
だったら僕がいる意味はなんだろう。いる意味があるのだろうか。
意味について考えてみたところで、何も無い僕には到底分かりえない。
存在する理由など分からない。
ならば生まれてきた理由はどうだろうか。と、まぁ考えるまでもなく分からない。判らず、解らない。
価値のある人間と、そうでない人間に境界線があるのなら、きっと僕ただ1人、その境界線を独占できてしまうことだろう。
その境界線を引いているのは僕だけで、見えているのも僕だけかもしれない。
そもそもそんな、人間に価値の有無を問うてる時点で僕は、人として欠けているかもしれない。
そんな僕は、人じゃないのかもしれない。
人じゃないなら、一体なんなのだろうか。
いっそのこと化け物にでもなって、周りの人間に追いやられたならば、どれほど楽だろうか。
そういう逃げれもしない、決して現実になり得ない、いや、現実に出来ない逃げ道を求めている僕が嫌いだ。
その嫌いで何も無い僕でも、世界の広さは、何となく知っていた。
広い世界に、変わった人間がいることも。
他人を信じられるか、なんて問を立てても僕には分からないけれど、少なくとも僕には出来ない。
他人を拒絶する勇気もないから、傍から見ればそれこそ信用している風に見えるだけで、その実態は周りに流されているつまらない生き物にすぎない。
でも、僕は知っている。知らない僕でも知っている。
世の中には、世界をまるごと信用しているような人間がいることを。
あるいは全て疑っていて、自分を絶対的に信用している人間がいることを。
僕は自分が嫌いだ。
それももう、昔の話。
5月1日。朝、アラームが鳴る。
目が覚めた。
カーテンの隙間から射した光が眩しくて、目がくらむ。
「あぁ、起きたか」
部屋の扉を開けて声をかけて来たのは、スーツ姿の父だった。
「おはよう父さん」
「お前、今日から学校あるの忘れてないよな?ちゃんと飯食っていけよ。父さんこれから仕事だから」
「大丈夫だよ父さん。忘れてない」
父は急いでいる様子では無かったが、無駄のない動作で支度を進めていた。
その支度も、僕がベッドから出る頃には終わっていたようで、着替えて廊下に出ると、父は玄関で靴を履いていた。
「父さん」
「何だ?」
父は手を止めて振り返る。
「行ってらっしゃい」
「行ってきます」
それ以上の会話はない。
別に不仲という訳ではないが、この歳になって2人で出かけるということもない。
たわいのない会話もするにはするが、やはり沈黙のほうが時間にしてみると長いかもしれない。
だけど、父から愛を感じないだとか、期待されていないだとか、そういうのは無いと思う。
ただ不器用なだけなんだと思う。お互いに。
母さんがいた頃はもっと明るかったと思うんだけど。
いや、僕や父さんがではなく、母さんが明るい人だったから、家族の雰囲気も何となく明るく見えていただけなのかもしれない。
それだけに父さんには、父さんの心にはぽっかり穴が空いているのかもしれない。
それは僕にも言えることか。
何にしても、父さんと上手くやれている自信はある。
この街に引っ越してきて、まだそんなに日数は経っていないけれど、生活が安定してきた今となってはもう大したイベントは残っていない。
僕は父さんが作った朝食をたべながら考えていた。
「僕も行くか」
戸締りはできたか。忘れ物はないか。
出掛ける最後の確認を済ませて、僕は玄関のドアを開く。
「行ってきます」
返事はない。
アパートの階段を降りて、道に出る。
塀に沿ってしばらく進むと、商店街にぶつかり、人気が増す。
商店街を抜け大きな信号、小さな信号と渡ると、学校に到着する。
徒歩10分ってとこか。
登校時間ギリギリに家を出ても遅刻はしなかったが、何せ初登校なので、早めに行って先生と待ち合わせをすることになっている。
昇降口から入ってくるよう言われたが、下駄箱の場所を聞きそびれた。
結構な数あるな。
この中から探すって?正気か?
「おーい、こっちこっち」
佇む僕に声をかけたのは、僕の新しいクラスの担任である沖合先生だ。
「おはようございます。先生」
「ん、おはよう。どう?真っ直ぐ来られた?」
「まぁ、すぐそこなので迷うようなことは無かったですね」
迷ったとしたらこの下駄箱くらいだ。
「そりゃよかった。そしたら職員室行って、渡すもん渡して、んで教室ね」
「分かりました」
先生のざっくりとした説明に何とか食らいつきながらも、慌てずに応答する。
「あの先生、靴はどこにしまえば」
「あれ、出席番号言ってなかったっけ」
「番号は分かるんですが、その番号がどこにあるのかが」
「そっか、えっとね、一年生の下駄箱は入って右側。並びは右上から下に、順に並んでるから、とりあえず一番最後の棚にいれておいて」
「はい」
先生はゆったりとした雰囲気だが、1つ1つ丁寧に説明してくれている。
分からないことをその場ですぐに聞くというのは、意外と難しかったりするけれど、この先生にだったら気兼ねなく聞ける気がする。
ペースが合うというか、この先生の、教師としての資質なのかもしれない。
これだったら、たとえ友達が出来なかったとしてもやっていけるかな。
悲観的過ぎるかもしれないけど、こうまで考えないとやってられない。どうにかなりそうだ。
「校舎は2つに分かれていて、東校舎は君たち生徒が使用する校舎、西校舎には理科室とか、被服室とか音楽室、いわゆる特別教室が集まってる。他には部室なんかも西校舎に寄ってたりするな」
職員室へと向かうついでに校舎案内が始まった。
時間もあるとのことで、中々余裕をもったゆっくりとした案内だ。
僕も急いでいるわけではないし、急いだって目的がないし。
転入生なんてこんなものか。
「先生おはよー!」
「おう、おはよう。ずいぶん早いな」
元気な女子生徒が駆け寄ってきて、先生と話し始めた。
「高崎先生に入部届けを出したいんだけど全然見つけられなくて」
「高崎先生……。たしかバスケ部の顧問だったよな。それなら体育館にいるかもな。最近力を入れているみたいで、もしかしたら朝練してるかもだから」
「あー、そうなんだ。分かった!体育館行ってみまーす」
そういうと女子生徒は走りだして、あっという間に消えていった。
「水鳥、廊下は走っちゃだめだぞ」
「なんで僕に言うんですか」
「うーん、立場」
そういうことなら仕方がないと理解しつつも、やっぱり納得するのは難しい。
あのバスケ部入部希望だと思われる女子生徒には、今後も注意が必要らしい。
でもやっぱりあの女子生徒の性格的な部分もあるだろうけど、それでも沖合先生とは話しやすそうに話していたから、この先生の教師としての資質、その裏付けが出来ただけ良しとしよう。しておこう。
でもあの女子生徒、僕に一瞥もくれなかったな。
そんなに影薄いか僕。それとも単に興味がないだけ?
朝早く教師とワンツーマンでいる生徒なんて目立つと思うんだけど。
そういえば入部届けを出したいといってたな。ということは僕と同じ一年生か。
あまり同じクラスにはなりたくないな。
あれは人の話をよく聞かず思い込みの激しい猪突猛進元気っ子タイプとみた。
「そうそう、部活動な。水鳥も何入るか決めておけよ。この学校は基本的に全員参加だから」
部活か……、ただでさえ5月という中途半端な時期の転入なのに、部活まで入るとなればコミュニティの複雑化がえらいことになってしまうな。
いやでもさっきの女子生徒を見る限り、部活に関して言えば別に遅くもないのか。
「中学の頃は何をしてたんだ?」
「中学では水泳部に入ってました。そんな優秀ではありませんでしたけど」
「継続していたってのが大事なんだよ。でも悪いな、本来なら1か月の仮入部期間があるんだけど、ちょうど先週までだったんだ」
ああそれで、入部届けね。じゃあ遅いことはないどころか、ベストタイミングと言えるのか。
なんだろ、別に嬉しくないな。
そうこうしているうちに職員室へとたどり着いた。
「失礼しまーす」
朝早いとはいえ、それは所詮生徒にとってである。
先生たちからすれば、1日のスタートに向けての準備中といったところだろうか。忙しそうな様子が見受けられた。
沖合先生は先生で、僕に渡すと思われるプリントをまとめている。
「おまたせ。ちょっと多いかもだけど、まあ最初だから気にしないでね」
そこから各用紙について説明を受けた。
他の1年生達ももらっているでろう入学案内、時間割り、その他の連絡事項をまとめたプリント、そして白紙の入部希望届け。
期限は今週中ということになっているが、そんなもの僕にとっては猶予でもなんでもない。
できれば入りたくない。
「今日は初日で疲れると思うし、ゆっくりでいいから。だけど一応目は通しておいてね」
「分かりました」
たしかに先生の言う通りだ。
初日から思いつめすぎていたかもしれないな。
何事も最初から手ごたえを感じるというのは、難しい。
こういうのは、こういうことこそ、時間をかけるべきなんだろう。
焦りは禁物だな。
そう、焦りだ。僕は焦っているのだ。
この緊張感、いつからこんなに感じるようになってしまった のだろう。
覚悟は決めていたはず、それがここにきて揺らいできたのはおそらく、先ほどの女子生徒のガン無視が響いてるな。ちくしょう。
あんな、たかだか女子生徒1人にここまで振り回されるなんて、これじゃまるで僕が女子耐性のない冴えない野郎みたいじゃないか。
まあ実際冴えてはいないだろうけど。
落ち着け、水鳥創。お前は一体今まで何人の女子と接してきたと思っている。
宿題やプリントの受け渡し、体育祭での男女混合リレー、修学旅行じゃ昼間とはいえ半日を共に過ごした。
数々の山場を乗り越えた僕が、自己紹介なんぞに臆していられるかあああああああ!
「水鳥創です。よろしくお願いします」
「はい。じゃ水鳥の席はそこね」
うん。あっさり終わった。
そんで何で僕の席が真ん中の列一番前なんだよ!
こういうのって大抵窓際の一番後ろじゃないの?
なんかあらゆる方向から視線を感じるんですけど!
先生は構わずホームルームを続ける。
「じゃとりあえずホームルームはこれで終わりにするけど、水鳥が困ってたら色々教えたり、助けたりしてやってな」
そう言うと沖合先生は颯爽と職員室へと帰って行くのでした。
じゃないわ。
え?放ったらかし?もう説明無し?
信じられない。僕が思ってた以上に、僕はあの先生に依存してしまっていたらしい。
いやどうすりゃいいんだよ。
周りは皆話しかけてこないし、転入生って実はそんなに珍しくないのか?
そうか。
皆も皆で入学して1か月しか経っていない。
つまり、今まさに人間関係の構築の最中なのだ。
1か月経ってようやく固まり始めた人間関係に、いきなり単騎で送り込まれても困るってもんだ。
その単騎も困ってます。
どうする。
教室を出るか?
いや、ここで逃げてしまっては更に声なんてかけずらくなる一方だし、教室を出ても向かう場所が無い。
せいぜい廊下を徘徊するのが関の山だ。
そうして机の上で思考を巡らせていると、1人の男子生徒が話しかけてきた。
実にありがたい。
「よう水鳥君。部活はもう決まってるの?」
なんて自然でナチュラルでフランクな声のかけ方だ。
きっとこの人は日頃から太陽の下に生きる人間に違いない。
でもごめんな。そんな君も1つ下手を打ったと言わざるをえないようだ。
僕に話しかける話題を、部活にしたというのが良くなかったな。
いや、話題そのものは何も悪くないが、やはり話し合いをするのは人間なだけあって、相性というものがある。
あいにく僕と部活の相性占いは今日も0%を記録してるぜ。
なんて陽気な独り言を心の内で囁いていると、続々と生徒が集まり始めた。
「え?何?部活決まってないの?じゃあ映研なんでどう?色んな映像をまとめてあって楽しそうだったよ」
「いやいや、時代は運動だよ体を動かす機会なんて今のうちしかないんだからさ。一緒にサッカーやろう」
「茶道部にくればお茶飲み放題」
以外と積極的なクラスメイト達に動揺する。
いやいやいや、急に推しすぎでは?
「いや、ごめんまだ部活全然分からなくて、もうしばらく考えるつもり」
「ゆっくり考えなよ。これから3年間やるんだから」
3年か。長いな。
それを聞いてとてもじゃないけど、やる気なんて起きるどころか、むしろ下がるって話だ。
やっぱり大人しめの部活に入って、余生を慎ましく楽しんだ方が良さそうな気がする。
後は目立った事もなく、初日を終えた。
「先生さよならー」
「はいさようなら」
皆ばらばらと下校し始める。
先生の言っていた通り、なんだかどっと疲れたな。
今日は帰ったらすぐに寝ちゃいそうだ。
一息つき、荷物をまとめていると、先生が近づいてきた。
「水鳥。どうだった学校」
さすがは資質溢れる沖合先生だ。アフターケアも欠かさない。
「クラスの皆が優しかったので、何とかなりました」
「そうか。なら良かった。早く転入生じゃ無くなるといいな」
僕は転入生だ。その事は揺るがない。
一瞬何を言っているんだこの先生はと思ったが、この先生なりの優しさなのだと思うと、素直に感謝しておいた方がいいな。
「ありがとうございます。明日からもよろしくお願いします」
もちろんこれからの挨拶も欠かさない。
「じゃ先生、さようなら」
「おう、さようなら」
校門を出ると急に解放された気分になって身が軽くなる。
朝から続く緊張の事を思うと尚更。
すると突然、ポケットが微かに揺れる。
「ん、父さんか?」
ポケットからスマホを取り出し電話に出る。
「もしもし、父さん?」
『創もう家にいるのか?』
「いや、今さっき学校が終わって下校中」
『そうか、それならちょうど良かったな。悪いけどお使いを頼まれてくれないか?』
「うん。それは大丈夫だけど、まだそんなにこの辺の事詳しくないから、余程遠くとかじゃなければ問題ないよ」
『商店街で電池を買ってきてほしいんだ』
「分かった。単三?それとも単四?」
『全部』
「全部!?」
『お金あるか?』
「うん。お金は、多分ある」
『父さん仕事もう少しかかりそうだから、よろしく頼むぞ』
「はーい」
切れた。
いつも父さんとの電話はドキドキするんだよな。
急に終わるし。
それにしても電池全種って、何に使うんだ?
割と大きめの商店街だったから電化製品くらい置いてあると思うけど。
あるよな?
商店街に入り周りを見渡しながら進む。
夕方ということだけあって人が多い。
お店の人達も張り切っているように見える。
しばらく進むと、なにやら小さな騒ぎが、起こっていた。
商店街は盛り上がっていて、近づくまできが付かなかった。
どうやら中年の男性と青年が言い争いをしているようだ。
青年とはいえ、見るからに荒っぽそうな男だ。
正直関わり合いになりたくない。
「だーかーらぁ!これは俺の自転車だっていってんだろ!」
「そんなはずない!これは私の自転車だ!私が店を覗いている間に君が盗もうとしたんだろ」
「いやそもそも俺はここを通りかかっただけだから!自転車から降りてすらねぇから!」
どちらも譲る気がない。
言い方を変えれば、どちらも堂々としている。
どちらも悪意がない。
偏見かもしれないが、こういう場合、どちらが悪いのかというのは、雰囲気で大体分かるけれど、今回の場合それが無い。
周りの人達もそれを察してどちらが正しいのか分からなくなっているみたいだ。
ん?待てよ?よく見たらあの自転車……。
「あの、すみません」
思わず出しゃばってしまった。
「何だお前」
「君からも言ってやってくれ。私の自転車を返せと」
何だお前。
本当にその通りだよ。
急に出てきて。
話をややこしくしないで欲しいって感じだよな。
分かるよ。
でもさ、気づいちゃったんだよ。
そんなにおおごとじゃないんだよ。
そんな言い争いをするような話じゃないんだよ。
「やっぱりその自転車はその人のだと思います」
「ほら!だから言っているだろう!それは私の自転車だ!早く返しなさい!」
中年の男性が、まるでとどめを刺すかのように青年に問い詰める。
でもそうじゃない。
僕が言いたいのは。
「いえ、違います。僕が言いたいのは、この自転車は正真正銘、この人の物だということです」
僕は青年を指さし、そう答えた。
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