開戦
いよいよ明日は開戦となった前夜、ルカルディオ陛下は時間を作って紫水晶宮の私の部屋に来てくれていた。流石に緊張してるのか、言葉数は少ない。
ソファに並んで座り、手を繋いで明日の計画を確認しあった。陛下は人前では見せつけるように大胆に触れてくるのに、二人きりになると逆に控えめになる。
「サーラ、明日は決して私の傍を離れるなよ」
「はい」
念を押すように陛下は言った。異論は全くない。陛下の傍が一番警備が厚く安全だし、傍にいられたら心の安心感が違う。
むしろ今もこの部屋に泊まっていってくれたらいい。私は分離不安の子供のようにそう考えていた。大人の女として常識はあるので、そんなはしたないことは口に出せないけど。
「サーラはもう寝ないとな。私はそろそろ行くよ」
「陛下、待って下さい」
立ち上がろうと、離れかけた陛下の手を私は強く握る。
「うん?」
「……や、やっぱりいいです、何でもないです」
私に顔を向けた陛下があまりに純粋に見えて、私は言葉を引っ込めた。陛下はまだまだ忙しいらしい。二人の時間を作ってくれただけで感謝しよう。
「本当に何でもないのか?」
「はい、大丈夫です」
「ふうん……」
なぜか陛下はくすくす笑い出して、余裕を見せる。
「二人きりのときはルカと呼べと言ってるのに中々呼んでくれないな。敬語もやめていいのに」
「それは……難しいんです」
言い訳は良くないけど、ルカと呼ぶのは困難を極めた。「陛下」と呼称していれば、あり得ないほど溢れる魅力も、まあ陛下だしと自分を律することが出来てきた。
だけど「ルカ」なんてその辺にいそうな呼び方にしちゃうと、顔が良くて背が高くて魔力も高くて優しい完璧人間の超自然の神秘に気付かされ、心臓がバクバクし出す。こんな人が私を好きだと言ってくれるなんて奇跡すぎて耐えられない。
「ふう、寂しいことだな。婚約者に名前も呼んでもらえないなんて。明日何かあったら死んでも死にきれない」
「やめて下さい、そんな言い方」
「じゃあ名前を呼んでくれ」
「……ルカ」
「もう一度」
「ルカ」
いっそ野生的と言える色気を漂わせて、陛下――ルカが顔を近付けてきた。熱に浮かされるように私は名前を呼ぶ。なぜ私はこんな簡単に転がされてしまうのか、やっぱり陛下だから?
ルカは眼前で微笑んだ。
「サーラ。私はただの男だ。そんなに誘惑しないでくれ」
「ふえっ?!」
名前を呼べと言ったのはルカなのに。もう正解は知らない。陛下はふわっと軽く私を抱きよせ、すぐに離れた。
「お休みサーラ。せめて良い夢を」
「はい、陛下……ルカも、良い夢を」
私が密かに持っていた不安な心を吹き飛ばして、ルカは去っていった。私は今の幸せな記憶を抱えたまま、ベッドに倒れこむ。頭まで布団を被り、自分の心臓の音を聞いていた。
翌朝は雨の音で目が覚める。天気に詳しい者の予想では曇りのはずだったのに、窓を叩く雨粒は大きかった。魔物避けに火を焚くのが難しくなってしまう。
しっかり防具と雨具を着込み、私は部屋を出た。
予定通りにベラノヴァ団長、サーシャと合流して陛下たちとも合流する。帝都を囲む城壁上へと繋がる狭い階段を上り、正門前へと到着する。
城壁の外には5万の兵が集結していた。雨の中、ややくぐもった金管楽器の音が響く。楽器隊による開戦の知らせだ。
ルカルディオ陛下が、本来は大聖堂で使う王笏を振り、地上にいる隊列に向けて、加護の魔法をかけた。魔力の鎧のようなもので、攻撃を食らっても軽減する効果がある。
また楽器が吹かれて、隊列は移動した。陛下は約5万の兵全部に加護をかける予定だ。陛下の魔力は無尽蔵かと思う。常人とは桁がふたつみっつ違う。
遠くカルタローネ領でも今頃、戦闘が始まっているだろう。私は顔に当たる雨に顔をしかめながら、上空の黒く厚い雲を見透かそうとした。
「あ……」
見間違いであってと目を擦る。鳥の大群のようなものな雲の波間に見えた気がした。鳥にしては大きすぎる。もしニヴェスリアがあんな魔物を操ってるなら大変なことだ。
「南西の方角、何か見えませんか?」
望遠鏡を持っている近衛騎士が慌ててそちらを覗く。
「……黒被竜です!!」
伝令役の人が走り出し、城壁の上は騒がしくなった。北側の門の上にはジルと輝石の魔女、エメラルダス親子が待機している。
すぐに洗脳解除の魔法が黒被竜の大群に向かって撃ち込まれ、黒い影は散り散りになった。おまけとばかりに大きな雷が光り、耳を劈くような大音量が鳴り渡った。
地上では、馬の魔物の大群が恐ろしい速さで軍隊に迫っていた。
「あれは……雷脚馬か?!」
誰かが叫んでいた。その名の通り、雷のように脚が速い魔物だ。本当に雷とまでは行かないけど、さっきまで姿が見えなかったのに忽然と現れて兵士を蹴散らしている。
ただ、あまりに足が速いので足元が見えないのだろう。先に掘っておいた穴に落ちている雷脚馬も多かった。雨天なので、魔法部隊は炎ではなく氷魔法を使って氷漬けにしていく。
雷脚馬の群れは止まることなく穴に向かい、雷脚馬の含まれる氷壁は縦横に肥大化する一方だ。かなりの地獄絵図といえる。
「こんな魔物の大群を操るには、遠方にいるニヴェスリアだけでは不可能なはずだ」
陛下が戦況を見渡しながらそう言った。今のところ優勢だが、魔物の群れには終わりが見えない。
「私もそう思います」
ニヴェスリアは確かに瞳が青く、魔力が多い人だろう。だけどこの状況は異常だ。陛下くらい魔力が多い人が魔物を操っている。
「どこかにランベルトが隠れている」
「ランベルト公爵閣下が?」
「もう閣下などと、つけるな。あいつの首を取らねばならない」
ルカルディオ陛下の翡翠の瞳は、静かな怒りに燃えていた。ランベルト公爵は、陛下から見て叔父だ。正統な皇族なので魔力はとてつもない。
「早くランベルトを見つけないと、最悪帝都まで魔物が侵入してしまう」
「でも、この中からたったひとりを見つける方法なんて……」
陛下の意見に反対じゃないけど、眼下に広がるのは5万の兵、魔物の大群、雨で煙る視界と最悪である。ランベルト公爵の顔は一応知ってるけど、どうやって見つけたらいいのか私にはその糸口すら掴めそうもない。
「あまり頼りたくはないが、魔女に訊くしかないか。私とサーラは北側門に行ってくるが、ここは頼む」
私の手を取り、陛下は一度下に降りる階段に向かって歩き出した。背後にベラノヴァ団長やバレッタ卿の返事が聞こえた。
帝都を取り囲む城壁の上は、すでに弓兵などでいっぱいなので、私たちは駆け足で階段を降り、暗い地下通路を進んでまた階段を上る。
「ジル!」
「あっルカ! どうしたの?」
輝石の魔女エメラルダスには話しかけづらかったのか、陛下は扉を開けるなりジルの名前を呼んだ。魔法を使いすぎたのか、ジルは既にうっすら疲れが見える。
エメラルダスはジルの横にしっかりと立ち、こちらを見て微笑んでいた。雨で黒髪が額に張り付いているが、彼女は相変わらず年齢不詳の美人という感じで、ジルと並んでても親子には見えない。
陛下とエメラルダスは一度挨拶を交わしたけれど、なかなか距離は縮まっていなかった。こういう時くらいなら、私が役に立てると口を開く。
「エメラルダス、魔物を操っているランベルト公爵を見つけたいんです。この近くに潜伏してるはずですが、方法はありますか?」
「それは無理よ」
「そんなあ」
食い気味にエメラルダスに否定されて、私は肩を落とす。陛下も小さく唸った。
「でも戦局をひっくり返せるかもしれないわ。サーラとサーシャなら」
「え?私とサーシャが?」
「うーん、でもあなた方のためには言わない方がいいかしら。知らない方が幸せというか」
「教えて下さい!!」
この期に及んでエメラルダスはふざけてるのか、ごちゃごちゃと勿体をつける。私は彼女の深い緑色の瞳を見つめた。




