雲は千切れる
私はすっかりサーシャのふりをした生活に慣れてしまっていた。
「髪が伸びてきたけど……王宮内に切ってくれる人っているのかしら?」
簡単な朝の身支度を終え、鏡を覗き込んで私は呟く。偽装生活の始めは、信頼できる侍女にサーシャと同じ髪型に切ってもらった。以前は腰まで伸ばしていたけれど、もうあれには戻れない気がする。頭が軽くていい。
部屋を出て、翡翠宮の扉前でしばらく待っていると、ルカルディオ陛下とジルがやってくる。今朝のジルは何か決意したみたいに、大股でずんずんと歩いていた。
「どうしたんですか?」
「あのさ! もうフォレスティ邸にいるサーラさんの体調は治ると思うから!」
「えっ?! もう?!」
「うん。明日には治る。今日最後の魔法薬を渡してくる。そういうことだから」
突然楽しい日々の終わりを告げられ、私は陛下の顔をそっと伺い見る。陛下は私と目が合って微笑んだ。とてもきれいな微笑みだけど、私の胸は痛んだ。陛下からしたら婚約するつもりのサーラが治るのは単純に良いことなんだろう。私はその限りじゃない。
それに、幻覚魔法を解除したからって、ある日いきなりサーシャと入れ替われない気がする。だってサーシャと私の間での情報の共有は、全然されてない。
「……そうしたら、ですね。体調が治るとはいえ、まだサーラが心配なのです。私は明日から、しばらくお休みを頂いてもよろしいでしょうか?」
こうなったら、しばらく休みをもらうしかない。休み明けに、何か雰囲気が変わってる人くらい世の中に往々にして存在する。そう考え、私は陛下に許可をもらうことにした。
「ああそうだな、そうするといい」
陛下は思ったより気安く許可をくれ、私は寂しくなった。
折角、陛下と親しくなったのにサーラに戻ったらいちからやり直しだ。婚約の口約束はあるけど、私はサーラとしてうまく陛下とお話出来るか不安もある。本当の私ってどんなだったのか――もう忘れてしまった。思春期はとっくに過ぎているのに、私って何?という思いが頭を占める。
◆
残酷なほど時間は早く過ぎて、お昼休みになった。バレッタ卿と剣術の手合わせをするのも、騎士用の食堂でお昼を食べるのも今日で最後かと思うと涙が出そうになる。
「さっきから目が赤いが、痒いのか? フォレスティ卿?」
「……はい、そうなんです。今日は風が強いせいでしょう」
執務室へと戻る道中、私は涙を誤魔化すためにわざと目を擦っていた。
「目を擦るのはよくないぞ」
バレッタ卿がハンカチを差し出してくれるが、私は礼だけ言って自分のハンカチを使った。今借りても返せない。サーシャに返してもらうのも違う気がした。
「そのまま戻ると、まるで私がいじめたようではないか……フォレスティ卿、少しこちらへ」
「すみません」
半泣きの私にバレッタ卿はため息をつき、ゆっくり歩き出す。やがて人気のない庭園のはずれ、長く伸びた糸杉の陰に着いた。
「フォレスティ卿は明日からしばらく休むんだったな」
「うっ……そうです」
そして近衛騎士ではなくなり、ただのサーラになる。バレッタ卿ともほとんど話せなくなるし、剣術を教えてもらうなんて絶対にない。そう思うとつらかった。
「この話を今するかどうか迷っていたんだが。フォレスティ卿に以前借りたハンカチ、覚えているか?」
「そんなのありましたか……あっ、ベラノヴァ団長との決闘のときですか?」
「うむ、まだ返していなかったな」
「別にいいですよ」
あのときは、バレッタ卿が泣いてたから私はハンカチを渡したのだった。でもあれは何でもない無地のハンカチだし、返してくれなくても問題ない。忘れていたくらいだ。
「私は約束を破らないぞ。ちゃんと新しいものを買ってあるんだ」
声が怒っていたので私は顔を上げる。バレッタ卿の切れ長の瞳がいつものように私を睨み付けていた。じゃあ何で早くそれを渡してくれないのか、首をひねって手まで広げ、私は無言の抗議をした。
「フォレスティ卿が、いや、あなたがここに戻ってきたら渡す。だからそんなに悲しむことはない」
「……っ?!」
私は嫌な予感に呼吸を詰まらせる。あなた?
バレッタ卿が私にあなたなんて言う?
「本当のお姿で会える日を心待ちにしているからな」
「な、何を言ってるんですか?」
「私を騙せはしない。私は実力で、陛下のお側を許されている。あなたはサーラ・フォレスティだろう」
低い声でバレッタ卿は囁くが、私は驚いて涙が止まった。
「ごめんなさい、お願いですから黙っていて下さい!」
「もちろん、誰にも言わない。つき出すつもりなら、とっくにそうしている」
「見逃してくれていたのですか? どうして?」
「フォレスティ家はバレッタ家と同じくらい、皇室に対して忠誠心の高い家門だ。陛下に危害を加えることはあるまいと思った」
バレッタ卿は少し笑顔を見せる。だけどそんなに早く個人の特定をしたのかと目眩がした。
「聞いていいですか。いつから私がサーラだと……」
「初日からだな。私の背中にぶつかったとき、体重が乗ってなかったし、あとは会話で絞りこんだ」
「そんな、早すぎますよ!」
「陛下に近づく不審な人物を見抜けないで側仕えは務まらんよ」
私は、今度は恥ずかしさがこみ上げて歯噛みする。冷静に観察されてたんだなと思うとあらゆる場面が恥ずかしい。バレッタ卿との思い出が全然美しいものじゃなくなった。いいけど、悪いのは私だし。
「バレッタ卿は本当に有能ですよね……能ある鷹は爪を隠すといいますけど、その通りだと思います。もう悲しくないです」
「まあな。今後は節度を保つ必要はあるが、初対面から関係を始めることもない。安心して宮殿にあがってくるといい。しかし……」
顎をさすって、バレッタ卿は言い淀んだ。
「何ですか?」
「私の見る限り、ルカルディオ陛下もあなたの正体に気づいておいでだ。なぜ知らないふりをしていらっしゃるんだろうな?」
「陛下が?」
今日は驚くことばかりだけど、一番強く心臓が脈打った。ルカルディオ陛下が私の正体を知っている?
「やはり、何も言われてないようだな」
「陛下は、私にはそんなこと何も言ってくれていません」
でも私も何となくおかしいなとは思ってた。最近、陛下とは変な会話ばっかりだった。それに陛下とジルが揃ってニヤニヤしてるときもあった。なのにどうして陛下は知らないふりをしてるのか、理由がわからない。
「そんなに深刻になることはないぞ、うむ。陛下にはきっと、我らには思いもつかない深謀遠慮があるのだろう。この帝国の為政者である以上、罪を見逃す上である種のけじめをつけたいのかもしれぬ」
「そうですよね」
何とか笑みを作り、私とバレッタ卿は陛下の執務室へと戻った。話をしていたら遅れてしまっていて、室内には既に昼食を終えた陛下と副団長、それからジルがいた。みんなの視線が集中する。
「サーシャくん! 遅いよ!」
「ごめんなさい、どうしましたか?」
蒼白い顔のジルが駆け寄ってくる。ジルは最後の魔法薬をサーシャに渡しにフォレスティ邸に行っていたはずだけど、ひどく取り乱していた。
「サーラさんが想定外のことになって、その、とりあえずフォレスティ邸に一緒に行こう。ごめん……」
「体調に異変があったんですか?!」
「いや命には別状はないし、元気だけど早く会った方がいい」
私は訳がわからず、ルカルディオ陛下の方へ視線を動かした。
「サーシャ、すぐに帰ってやれ」
「あ、ありがとうございます!申し訳ありませんが、これで失礼いたします。後ほど連絡いたしますので」
ルカルディオ陛下が心配そうに私に声をかけてくれたので、私は慌ただしく部屋を辞去した。




