満月の夜
翌日、私は翡翠宮殿の出入口近くでルカルディオ陛下を待っていた。
この翡翠宮殿はルカルディオ陛下が夜を過ごす、その名の通り翡翠色を基本色として装飾された場所だ。ステンドグラスの色合いやタイル、化粧漆喰などは青から緑の濃淡で彩られていて、爽やかで落ち着いた気持ちになれる。似た色彩の瞳を持つルカルディオ陛下と、異母弟のジルが住むにはぴったりの場所だ。
優しい陛下がここの一室を私に使わせてくれているので、ここから政務を行う主宮殿まで3人で一緒に行くのが恒例になっていた。
「おはようございます。良い朝ですね」
歩いてきた陛下とジルの足音に、私は駆け寄って挨拶をした。が、ルカルディオ陛下は何も言わずにすごい勢いで顔を背ける。ジルは暗い顔でため息をついた。
「えっ?」
まさか天下のルカルディオ陛下にぷいってされるとは思わなかったので、私は間抜けな声をあげる。怒らせるようなことはした覚えがないし、お戯れの一種かもしれない。
「もう、どうされたんですか?」
私は何とか顔を見ようと回り込むけれど、陛下の首は信じられないくらい後ろを向く。こんなに首が柔らかい人とは知らなかった。
でもそっぽを向かれる意味がわからない。だって昨夜は、サーシャ演じる私に会って、長年の女性嫌いを克服した。私のおかげだって、馬車の中ですごく優しい感じで言ってくれた。その後はもう遅いのでお休みなさいとそれぞれの部屋に別れた。一晩で何があったんだろう。私がもっと回り込むと陛下は存外に素早い動きでターンした。
「こういう遊びなんですか? あれ? 陛下、顔が赤くなってきてますけどまた熱がぶり返したんですか?」
「あー……やめてあげて」
ジルが面倒そうに自身のこめかみをおさえる。
「ジル、陛下はどうしたんですか?」
「言っていいの? ルカ?」
まだ翡翠宮殿の中だからなのか、ジルは気さくな口調のまま、兄であるルカルディオ陛下に問いかけた。いつの間にか遮音の魔法を使ってるのかもしれない。
「だめだ……いや、でも……」
「このままじゃかわいそうだよ、サーシャくん泣きそうになってるよ」
私は泣きそうにはなっていないが、絶対に私の顔を見ようとしないルカルディオ陛下を脅すようにジルは揺さぶりをかける。この兄弟って本当に仲良い。
「……私は今日は無理だ。悪いがジル、あとは頼む」
「了解。あっちに着いたら説明するよ」
「はい」
よくわからないまま、それでも3人揃って主宮殿まで中庭や外廊下を歩く。だけど陛下は絶対に私を見ず、ろくに口さえ聞いてくれなかった。
「面倒なことになったんだよね」
ルカルディオ陛下の執務室に移動してから、私はジルに連れられて、隣にある陛下専用の図書室にこもった。陛下は黙々とバレッタ卿と政務を始めている。
「……陛下はどうしちゃったんですか?」
無視されるのが一番つらい。私は精神は早くもへこんで地中に埋まりそうだ。ジルは本棚にもたれ、再びため息をついた。
「ルカはさ、夢を見たんだって。君がほんとは女性である夢を……」
私の心臓が早鐘を打つ。
「ま、待って。陛下って夢のお告げとかそういう能力もお持ちなの?」
あらゆる呪いを見破る『聖顕の瞳』をルカルディオ陛下は持っているが、夢に関しての能力まであるとは聞いたことはなかった。
「いや、そういう能力はないはず。だけど昨日、サーシャくん演じるサーラの姿を見て、ルカは何か無意識のうちに答えにたどり着いたみたい」
「す、鋭すぎる」
「そうだよ、ルカは天才だからね。とりあえずただの夢だって言い聞かせたけど、これからは更に気をつけなきゃいけない。ルカにぶつかったり触れたりしないでよ」
私は何度も頷く。私がサーシャに見えるのは、幻覚魔法によるものだ。ほんの少しの身体接触でも避ける必要がある。
「だけど陛下は女性が平気になったはずなのに、私と目も合わせてくれないのは寂しいわ」
「ああそれは多分、夢の内容が刺激的だったんじゃないかな? まあ夢ってそういうこともあるよね。望むと望まざるを問わずにさ」
「刺激的……」
その内容を想像してしまって私は口元に手を当てる。顔が熱く感じた。まさか、陛下がそんな夢を――
「サーラが考えてるようなことじゃないよ。ルカはとっても純情だから」
「べ、別にそんなことは考えてないわよ」
久しぶりに見透かすような目付きになってジルは笑う。こういうとき、ジルは私を見ているようで私じゃないところを見ていて、それが不思議だった。
「とにかく、あと少しなんだから。サーラはもっと気を引き締めてバレないように過ごして」
「わかったわ」
「本当に?僕は今夜、魔法薬の材料を探しに行くから夜は不在だけど、二人きりだからっていい雰囲気になっちゃダメだよ」
「この感じじゃあ、ジルがいないと今夜はないでしょ……」
ルカルディオ陛下と寝る前のミルクを飲む習慣は昨夜を除き続いている。最近はジルを含めて3人でおしゃべりをして和やかに過ごしていたが、今日の陛下は私を見もしないのだから。
「私もジルと一緒に行ったらダメなの? 人手が多い方がいいんじゃない?」
しかしジルは私の提案に首を振った。
「来なくていい。探したいのは満月草なんだけど、あれは人の魔力に似た気配がするからひとりじゃないと探知できない」
「そうなの。わかったわ。私は大人しくしてるから、魔物に気をつけてね」
「ふん、魔物なんて」
ジルは自信ありげに胸を張る。鼻息で金色の猫っ毛が揺れた。
「僕がこんな身軽な立場にいられるのはね、自分の身は自分で守れるくらいに強いからだよ」
「確かに」
ジルが優れた魔法使いであることは疑いようがない。私はジルに助けられてばかりだ。
いつか、こんな表に出ない仕事ばかりじゃなくてジルが称賛されたらいいのに、ルカルディオ陛下の異母弟と皆に認められて、どこでも堂々と仲良く過ごせるようになったらいいのにと考えてしまう。
◆
夜になって、私は手早くお風呂を済ませてもう寝ようとしていた。陛下側からは何のお知らせもないし、今はそっとしておくしかない。
しかし寝る前のストレッチをしているとき、部屋のドアがノックされた。
「はい、何でしょう」
「ルカルディオ陛下が部屋に来るようにとおおせです」
ドアを開けると、栗色の髪の侍従が慎ましく用件を告げてきた。
「私が陛下の部屋に?」
「そうです。お呼びです。ジルのことで話があるそうです」
基本的に陛下に呼ばれてしまうと断るにはそれなりの理由がいるが、ジルのことで話があるだなんて言われるともう断れない。
意外な展開に驚きつつ私は部屋を出た。廊下を歩いてすぐそこではある。
「陛下……サーシャです。参りました」
「入っていい」
今日は一度も会話をしていないので、気まずさを感じながら入室する。陛下はバルコニーを少し開けて、私には背中を向けたままで立っていた。風が陛下のガウンを泳がせていた。
「今日は、すまなかったな」
「お気になさらなくて結構です」
陛下はこちらを向き、やっと正面から顔を見せてくれた。唇にずいぶん力が入っているけれどいつ見てもきれいな顔だ。眉毛が完璧な左右対称で、中心から伸びる鼻筋は鋭角で整っている。
「サーシャ、そんな目で見ないでくれるか」
見る間に陛下の顔が赤らんで、夜だというのに眩しそうな表情になる。
「ごめんなさい、かっこいいなと思って見てました。睨んでないです」
「……まあいい。ジルが帰ってくる前に話を済ませないといけないんだ」
陛下は耳まで赤くしながらバルコニーの扉を閉め、遮音の魔法を使った。かなり秘密の話らしい。ジルが居ない間に私に話したいジルの話って何だろう。