決意
熱のせいで平時より弱って隙だらけのルカルディオ陛下は、大変かわいらしい。私は新しい発見に熱が出そうになった。
だって、普段は一を聞いて十を知るどころか零から百にたどり着きそうに頭脳明晰で、臣下への思いやりに満ちて優しくて、皇帝と言わんばかりの威厳に溢れ頼もしいルカルディオ陛下が、恥じらっている。
私に恋愛小説を読んでると知られたくらいで、翡翠のような緑の瞳を潤ませて上目遣いをしている。
完璧なルカルディオ陛下は、かわいらしさまで最高値である、と私は後世に伝えたくなった。歴史に残したい重大な事実だ。
だけど私の内面の爆発的な感情の動きを、表面に出すわけにいかなかった。陛下が女性に近付けない問題で悩んでるときに、かわいいだなんて言っちゃいけない。至って真面目な顔と声音を作って語りかける。
「陛下、何も憂うことはありません」
馬鹿にしていると勘違いされないように、私は微笑みさえ自分に禁じた。
「私だって、恋愛経験は一切ありませんがその小説を読み、胸をときめかせました」
「ほ、本当か?!サーシャも恋愛経験はないのか」
溺れる者は藁をも掴む的に、ルカルディオ陛下は私の服の袖を引っ張った。
「はい。女性が近くにいようがいまいが、そんなの関係ありません。私は誰かと手を繋いだことすらありません。自分を育て鍛える必要がありましたから、忙しくて、そのような時間はありませんでした。若くして皇帝になられた陛下だってそうでしょう。忙しかったから、仕方ないのです」
サーシャの恋愛話は知らないけど。そういうことにしておく。私は陛下の女性嫌い問題をその辺に投げ捨て、忙しいせいだったから仕方ないと論点をすり替えた。
「まあ忙しいというか、必死だった……」
「そうですよね。それに」
強引な論法の穴に気付かれないうちにと、私はぐいっと迫って畳み掛ける。これは、貿易業をしているお父様から習った交渉術だ。論点をすり替え、例え話をして、持っていきたい結論に繋ぐ。賢明な陛下が騙されるとは思わないけれど気休めにはなるだろう。
「人は変わるものです。陛下、何か幼少のみぎりには食べられなかった食べ物を克服されたのでは?」
「ああ、そういえばタマネギが嫌いだったが……割りと細かく刻まれてあちこちの料理に入っているから、取る訳にいかなくて我慢して食べているうちに平気になった」
「それです、まさに」
相手が乗って何か話をしてくれたときには、思いっきり肯定する。これも大事な要点だ。陛下は少々訝しげながら、私に耳を傾けた。
「女性とはタマネギのようなものです。今の陛下は少しずつ慣れて、克服する過渡期なのですよ。いつかきっと大丈夫になります」
――実際に今、女性である私がここにいる。勝手に混入しているが、ルカルディオ陛下は気づいていない。恐らく女性を視認したときに精神的外傷が刺激されるのだろう。
輝石の魔女がどういう思惑で私をここに送り込んだか知らないけれど、女性嫌いを克服するひとつのきっかけになってくれたらと思う。
「面白いな。良くわからないが、サーシャにそう言われると心強い。克服出来る気がしてきた」
「はい。絶対出来ます」
私はやっと微笑んだ。合わせるように陛下が笑ってくれた。
「なあサーシャ」
「何でしょう」
「手を繋いでくれないか?」
――私の組み立てた論理のどこが間違っていたんだろうか。陛下は思ってたのと全然違う結論に行ってる。どうしてそうなるの?
「あ、いや……練習としてだ。お互いに。将来のために」
「練習ですか。わかりました」
男性同士ってそういう練習とかするのかな?
知らないけど、ベッドに横になっている陛下が片手を上げているので、私はその手を勢いで握った。握手的な握り方になってしまったが、陛下の手は芯から燃えるような熱さだった。
「陛下、やっぱりまだ熱がありますね」
「サーシャも熱があるようだが……それに、何だか手が見た目より小さくないか? 痩せたのを誤魔化す魔法がかかってるとはいえ、手のサイズがこうも変わるのか?」
「あ、それは……」
手が触れていることでさっきから心臓が震えるように脈打っているが、手のひらを撫でられてドクンと跳ね上がった気がした。
「陛下が高熱を出しているせいでしょう。人間、高熱が出ると物の大小の感覚が歪むのですよ。つまり熱のせいです」
「熱のせいか」
今の陛下は、深く考えるのをやめているのだろう。納得していないようだけどとりあえず頷いてくれた。
「そうだな。一瞬、サーシャが女性ではないかと思ってしまったがちゃんと手のひらが硬い。相当剣術で鍛えているな」
「騎士ですから当然ですよ」
私は乾いた笑い声をあげた。やっぱりルカルディオ陛下は熱があっても鋭かった。令嬢としてあるまじきくらいに剣術やってて良かった。ルカルディオ陛下は半身を起こし、私の手を表にしたり裏にしたりして調べ始めた。このタイミングで手を引けないので、私は黙って好きにしてもらう。私の中指に触れたとき、陛下の指先が止まる。
「な、何かありましたか?」
「ここにペンだこがある」
「うっ……! 私は書かないと覚えられないから仕方ないんです!」
指摘されて恥ずかしくなって、私は手を引っ込めようとした。しかしそれは失敗に終わる。手首を掴まれた。
「サーシャは教養が高く外国語に詳しいと思っていたが、努力したんだな」
「文官になりたいとも思っていましたから」
文官は、サーシャではなく私自身の目標だ。女では騎士になれないが、文官の女性登用はルカルディオ陛下が皇帝に即位してから数年後に始まったからだ。
女性を苦手とする陛下は、先帝陛下付きの侍女たちを引き継げなかった。それでも、ただ離宮に押しやるのではなく一年の教育の後、文官として再雇用したのだ。彼女たちは家柄の良い賢い女性だったので、それは上手くいった。
その先例を元に文官の採用試験は男女を問わなくなった。最初こそ批判や軋轢も多かったが、10年以上が経って皆、慣れた。良い形になったと思う。
ただ私のお父様は、私の自ら火中に飛び込むような性格を重く見て、皇宮勤めを今でも許して下さらない。それで家庭教師などをしていた訳だが、結局お父様の言うとおりに私は火中に飛び込んだ。今回の件で、私の文官になる夢は潰えただろう。
私の手を、ルカルディオ陛下は両手で包むように持った。
「そうか。努力家の手だ。私はこの手が好きだよ」
褒められて体が熱くなるくらい嬉しかったけど、同時に複雑な思いがいくつも浮かび上がった。
「……陛下には及びません。私より陛下の方が努力家です。だって、陛下は11歳から国を治められているのですから」
どんな苦労があっただろう。心細い思いを幾度しただろう。子供だった私は陛下に何も出来なくて、謁見すら出来なかった。
私の努力を認めて褒めてくれるのは、陛下自身がたゆまぬ努力をしてきたからだ。だからこそわかってくれるのだろう。
「本当に、陛下はこんなに熱が出るくらい、良くがんばっていらっしゃいます。これからは、私に少しでも仕事を振って下さい」
「頼もしいな」
私が思い切って言った失礼な言い回しにも、ルカルディオ陛下は笑うだけだった。だけどあまりにきれいな笑顔なのでドキドキしてる場合じゃないのに、心臓が暴れだす。純粋で、心が洗われるようで、絶対に守らなくてはいけない笑顔だ。
普段は足音が極小のジルが、わざとらしく床を踏み鳴らして歩いてくる音が聞こえた。私にもう出ろと言っているのだろう。
「ジルが戻ってきましたね。私は仕事に戻ります」
私は名残惜しいけれど、陛下の手を離した。
「サーシャは耳がいいんだな」
「聴覚も鍛えてますから。陛下をお守りするために」
筋力不足を補うため、体の感覚を私は鍛えてきた。すなわち聴覚や、視覚などだ。これらに男女差はない。
戦いに赴くような気持ちで私はひとつ息を吐く。今夜、ベラノヴァ騎士団長と話くらいはしてみてもいいだろう。