月の愛する枯れない華
神の愛したその花が、淡い蕾をつけ、大輪の枯れない花を咲かせる時。
希望の潰えた、その世界で。
神の代行者が、選ばれる__。
*†*
『地獄絵図』
その言葉はまさに、今こそが絶好の使い時、とでもいうのだろうか。
目の前に広がるのは、ごろごろと、まるでその辺に転がる石ころのように無造作に重なりあう屍の山。それに群がる数えきれないほどの漆黒の烏が、不気味な声で頻りに鳴いている。
山の上に降り立った烏は屍を嘴で乱雑に啄み、まるで食事をしているかのようだ。
夜の帳を下ろす空には、まるで滴る鮮血で染め込んだかのように、不気味なほど真っ赤に染まり色づいた孤高の満月。いつもは柔らかな優しい光で人々の心を落ち着かせてくれる星々も、今は一つも見つけられず、視界には全く映らない。
今は朝のはずなのに、いくら待てども太陽が廻らない。空に浮かぶ不気味な月も、本来在るべき白銀の美しい姿を失ってそこにある。その光景はまるで、廻り来る時が、ぴたりと止まってしまったかのようだ。
平安京と今上帝を守護する陰陽寮の要請で駆けつけたが、どうやら一歩遅かったらしい。
一夜にして異常なほど呆気なく、まるで激戦が繰り広げられた戦場跡のように様変わりしてしまった平安京の中心の朱雀大路に、ぽつんと、二人の少年が立っていた。
「ちくしょう……っ!! こんなの、陰陽寮や晴明様達が考えてた中でも最悪の結果だ……っ!」
異様な空間に取り残された少年のうちの一人が悔しげに地団駄を踏み、頭に被っていた烏帽子を乱雑に掴んで地面に叩きつける。
叫んだ声はもはや悲鳴に近く、どう足掻こうとも、自分ではどうにもならない腹立たしさが滲んでいた。
「俺がもう少し早くこの未来を予言出来ていれば……っ!」
引き千切れてしまうのではないかと思うくらいに前髪を掴んで、声にならない声を絞り出す。
今さらこんなことを言ったって、後の祭りだ。これは先を読んで動くはずの自分達陰陽師が、そう出来なかったことへの罰なのだろうか。もしそうであるのならば、あまりにも悲惨すぎる罰だ。
一瞬で太陽が堕ち、月が朽ち果てた。このままでは、近いうちに全ての神々が消えていく。そうなれば、この平安京は、人の住めない死地になってしまうだろう。
自分はそれを未然に防ぐため、確かに神託を太陽の女神と月の神より授かったはずなのに。それを実に呆気なく、無駄に終わらせてしまったのだ。
一度堕ちた神話で名高い神々をもう一度取り戻すなんてことが、たかが人でしかない自分達に出来るはずもない。それはあまりにも、この小さな体には荷が重すぎる。
「守道……」
そんな隣に立っていた、もう片方の少年は、長い刃が蒼白い月の光を弾く薙刀を腕に抱え、ぎゅっ、と拳が白くなるほどに強く握っている。しばらく叫んだ少年を言葉もなく見つめていたが、やはり今口に出せる最良の言葉を見つけられなかったのだろう。やがて俯いて、ただ悔しげに唇を噛み締めた。
「肝心な時に、俺達は……っ! 何の役にも立たないじゃないかっ!!」
赤い月から直に注がれるのは、少年らの足元すら覚束ない僅かな頼りない明かりだけ。
いつもならば、もっとよく手元が見えるようにと、明かりが欲しいと思うのだろう。 けれども、今はその逆だ。辺りを照らす光の少ない真夜中のような状態でよかったと、これほどに強く心の奥底から感じたことはない。
悪夢だ。
こんなこと、夢以外の何物でもあってほしくない。自分達は悪い夢を見ているのだと、誰でもいいから、否定して叩き起こして目覚めさせて欲しい。
「何なんだよ……、これはっ!!」
まるで獣の唸るような低い音をたてる風に乗りながら漂ってくるのは、思わず噎せかえるくらいに強烈な異臭。
今まで感じたことのないほどの強い生臭さに、一瞬意識が飛び、ふらりと体が揺らいだ。
「____っ」
それでも何とか正気を保ち地面を踏み締めた瞬間、ばしゃり、と水溜まりに足を踏み入れたような濡れた感覚が襲った。
ねっとりと、まるで足に絡み付くような粘りの強い、さらさらとした水とは全く異なる、妙に気持ちが悪い感覚。頼りない明かりの中で目を凝らすと、それは、ただの水溜まりではなかった。
赤い赤い、不気味な光沢を放つ血溜まり。
ごくりと、思わず息を飲みながら、緩慢に再び辺りに視線をさらに状況を詳しく確かめようと、じっくりと巡らせた。
重なりあう屍の周囲や朱雀大路の所々に、赤い月明かりを浴びながら光沢を帯びて輝いている無数の同じ血溜まりが存在する。
もはや、血溜まりなどという遠回しの優しい表現では生ぬるい。一面を染め上げ、無数の屍を潜ませた血の海、と表現するのが正しいだろうか。
風が運ぶ強烈な異臭は、この血と、血の海の中に沈んでいる屍が発するもの。
一体、どれほどのおびただしい血と罪もない命が流れたのだろうか。目の前に突き付けられる無情なことこの上ない現実だが、今は目を反らして耳を塞ぎ、考えることすらもしたくない。
「……くくく……。あぁ、おかしい……。弱いなぁ……脆いなぁ……」
狂ったように笑う若い男の低い声が、ふいに強く響き渡った。
「太陽も、月も……実に呆気ないなぁ……。さぁ、次は……何を狩ろうか……?」
次は、海か……?
実に楽しげ値踏みしながら、次の獲物を探している。
そんな狂った存在を、血の滲む掌を更に強く握りしめ、歯を食い縛りながら睨み付けた。
頼りない明かりで見えてくるのは、空にある赤い月の色を溶かし込んだかのような、不気味なほどに赤い長髪と切れ長の瞳。闇の中でも鮮やかすぎるそれは、もはや現世とはかけ離れた異物以外の何物でもない。
すらりと長身の身体には、彼の狂気には欠片も似合わない白の袿を羽織っている。ひらりと動くたびに靡くそれには、全身に浴びたのだろう、おびただしい量の血がべったりと柄を作り出していた。
見た目は、二十歳前後。人間離れした美しい面持ちだが、狂気に歪んだそこからは、元の面影を見ることは出来ない。
「なぁ……、幼き賀茂と安倍の陰陽師達よ。たかがか弱き人の子よ……。この私と、最後の晩餐を賭けた、勝負をしようじゃないか」
その男はうっそりと笑み、目の前に立つ少年達に問いかけた。
『最後の晩餐』
それはつまり、命を賭けた勝負、ということか。今この場所、この悲惨な状況下で勝負を、か。正直、全く笑えない。
神話に名を連ねるはずの神々が敵わない相手に、一体どう抗うというのだ。
勝負の行く末など、深く考えずとも、はっきりと目に見えている。誰がどう考えても、次にあの屍の山に連なるのはあの狂った男よりも、自分達であろうに。それほどまでに、血に飢えているというのか、あれは。
「私を追い詰め、致命傷を負わせられたならば……。私は、お前達に大人しく封じられてやろう」
やれるものなら、やってみるがいい。
男は高らかに笑い、地面の血溜まりを蹴り飛ばす。ばしゃり、と同時に血飛沫が跳ね上がり、少年達の顔や衣を赤く濡らした。
ぱたりと、今浴びた血が頬を伝う。拭いもしないそれは、やがて少年の下にある血溜まりへと吸い込まれていった。
「恐ろしいか……、うん? くくく……っ、もっとその身に恐怖を植え付けるがいい……!」
それを見て、男はやはり楽しげに笑っている。これは、完全に挑発だ。どうせ、未熟なお前達には、到底自分を倒すどころか、傷一つ付けられまいと。自分が賭けに勝つことを確信し、嘲笑っているのだ。
「そら、どうする人の子よ……? このまま大人しく、お前達もあの山に仲良く連なってみるか?」
男は笑みを崩さず、ゆっくりと屍の山に指を差した。
あの屍の山は、あの男がたった一人で、この一夜で組み上げてしまったもの。まるで虫を殺すかのように、一瞬にして簡単に成し得たのだ。
そこに慈悲など、欠片もない。ただただ、逃げる人々を素手で引き裂き叩きつけ、殺戮していくのを、見ていることしか出来なかった。
力の差は、歴然だろう。それでも、自分達とて簡単には死ねない。
沢山の守りたいものがある。たとえ、まだ子どもだ、頼りないと言われようとも、賀茂光栄と安倍晴明を筆頭にする我が家の陰陽師としての矜持がある。自分達それぞれの一族の誇りも、長くこの平安京で繋いできた血筋と絆とて捨てられない。
はいそうですか、と誰一人守りもせず、簡単に諦め、まんまと逃げるなんて卑怯なこと、出来るはずもないのだ。
少年は自然と震える身体を叱咤して、地面を踏み締める足に残る全ての力を込めた。 けして、目の前に差し迫る恐怖に呑まれないように。
「……いいだろう。お望み通り、やってやろうじゃん。慎んで招かれてやるよ、お前の催す終焉の宴に」
「あぁ、やはり面白い。いいなぁ……大好きだよ、お前達みたいな命知らず」
もっともっと、私を楽しませておくれ。
無数の烏の鳴き声に混じった男の声が、やけに大きく耳に響いてくる 耳に届いてくるその声がひどく耳障りで仕方なく、少年は顔を歪めた。
無性に、腹が立つ。誰のせいで、そうならないといけないと思っているのか。自分達とて、好きで命知らずなことをやらされているわけではないのに。
ぎゅっと、強く拳が白くなるほどに握り締め、少年は目の前の男を睨み付けた。
「俺達が必ず、お前を封じてやるからな! 大禍津日神っ!!」
どうせ賭けるのなら、今ある自分の全てを賭けてやる。
この禍いを呼び、蔓延させる日本神話に名を連ねる神の手のひらに踊らされて、何もかも終わるくらいなら。
最悪、どんなに怪我をしようとも、相討ちでもいい。
あの神を討ち、封じれるならば、たとえそうなろうとも、もはや構わない。
手段など、選んでいる時間も余裕もない。
残された選ぶべき道は、あと僅か。
しかし、それも危うい橋渡りだろう。
それでも。
こんな異常なほど狂ってしまった今を終わらせる。
(必ず、帰る)
何があっても、必ず帰ると決めている。
神々が朽ちて、その代わりとして力を使うことを許された、唯一無二の存在としてではなく。
ただ純粋に、ひたむきに。
自分の帰りを信じて、離れたくないと胸に飛びついて泣きじゃくりながらも、ちゃんと送り出してくれて。
ずっと、「ただいま」の一言を待ってくれている。
月の神より与えられた、美しい純白の月の華。
愛しいそのひとが、いるのだから____。