もう一回
ありきたりなテーマになってしまいましたが、自分なりに創意工夫を試みた処女作です。アドバイス・感想など大歓迎なのでよろしくお願いします。
目覚めた時、僕は病院の中だった。
初めは状況がわからなくて、自分の名前すら上手く思い出せなくて、しかも全身チューブで繋がれていたので首だけ動かしてきょろきょろしてしまった。するとちょうど病室にいた看護師と目が合って、相手は十秒ほど硬直していた。たまりかねた僕が「あの・・・」と口を開いた瞬間、彼女は人間にできる極限まで目を大きく見開き、口を金魚みたいにパクパクさせながら病室を走り出て行った。
それからは大騒ぎだった。
看護師から連絡をもらったうちの家族がすっ飛んで来るわ、主治医の先生に精密検査を命じられるわ・・・僕はその頃には記憶が甦ってきて、嬉しさと感動のあまり号泣している母親の話と突き合わせ、やっとこの状況を理解した。
交通事故で一年の昏睡状態____。
大学四年生の夏、僕はバイクで交差点を走行中、信号無視して突っ込んできたトラックにはねられ、意識不明の重体になったのだ。一人息子の事故を聞いた両親は気が狂わんばかりに嘆き悲しんだが、僕がいつか目覚めることを信じて、大学には休学届けを出してくれていた。
僕へ一通の手紙が届いたのは、僕が半年のリハビリを終え、大学に次年度から復学できる見通しが立った、三月初めのことだった。何の変哲もない封筒の真ん中に「早川浩一様 本田武」と書いてあるのを見た時、僕はちょっとだけ、眉をひそめた。その様子を敏感に察知した母親が「どうしたの?」と尋ねてきたが、僕は「別に」と素っ気なく答え、自分の部屋にこもって鍵を掛けた。
2
武と僕は、大学のバスケ部に所属していた。運動部ということでサークルとは違って練習が多く、先輩も厳しかった。僕達を含め、部員全員が経験者だった。
しかし僕にはハンデがあった。僕がバスケをやっていたのは中学までだったのだ。高校でやっていなかった理由は、右膝の半月板損傷だった。中二の秋に怪我をして、中三夏の引退試合まで一応続けたものの、思うような成果は出せなかった。高校受験を機にそれまでの仲間とバラバラになってしまった後、怪我を押してまで高校でバスケをする気には、どうしてもなれなかった。
それでも僕は、バスケが好きだった。あのボールの手触りが、ドリブルする時の音が、ロングシュートがリングにストレートに入った時の爽快感が、そして何より、仲間と勝利の喜びや敗北の悔しさを分かち合うのが、本当に好きだった。きっと大学でバスケを再開するんだと誓いながら、僕は膝の治療に専念した。それでも切ない思いをした回数は数え切れない。目に毒だとわかっていながら、何度も何度も、バスケ部が校庭で練習をしているのを眺めてしまった。当たり前だけどそこにいる奴らは僕よりもずっと上手くて、パスもシュートも冴えてて、でもたまに、本当にごくたまに僕でもやらないようなミスをやらかして、その度に「バカだなあ、何やってんだよ」と嘲笑する____。情けない。わかってる。負け犬の遠吠え。わかってる。自分が一番よくわかってるから、自分で自分が嫌になった。
そんな切なさから逃げるように、僕は必死で勉強した。医学部に行くためだ。中学時代バスケに注ぎ込んでいたエネルギーを、僕は全部勉強に向けた。夢は整形外科医。僕みたいに切ない思いをする子供を、一人でも多く減らしたかったからだ。中学でろくに勉強しなかった分伸び代が豊富にあったのだろう、僕は基本的に努力した分だけ成績が上がり、目標にしていた大学の医学部に合格することができた。
大学に入学すると、僕は迷わずバスケ部へ入ることを決めた。その頃には膝がだいぶ良くなっていたし、何より僕が医学部を目指す原点になったものを、再開したいと思ったのだ。それでもまだ完治していない膝を抱えていることと、高校三年間のブランクが、ハンデになるであろうことはわかっていた。わかっていたけれど、多少ゆるいサークルではなく、厳しい部に入った。今から思えば、かなり努力をしたとはいえ医学部に割とあっさり入れた僕は、少し調子に乗っていた、のかもしれない。
現実はそう甘くなかった。高校三年間のブランクがこんなにも痛手とは思わなかった。更に僕は受験勉強で完全に運動不足の状態であり、スタミナが格段に落ちていた。ちょっとダッシュするだけですぐに息が切れ、パスを取りこぼし、シュートの成功率ときたら悲惨なものだった。監督や先輩に怒鳴られることもしょっちゅうで、言葉に出さずとも「早く辞めれば?」という雰囲気を、僕は入部してから一年間、特にひしひしと感じていた。それに医学部は一年からとても忙しく、部活に出られないことも時々あったので、ただでさえ下手な僕は上達するのも遅かった。実際に「辞めようかな」と僕は何度も思った。辞めてしまえば楽になる。もっと勉強に専念できる。その方が良い整形外科医になれるかもしれない。逃げ道だとわかっていても、僕の心は自然にそっちへと傾いて行った。
それでも、曲がりなりにも引退まで続けられたのは、武のおかげだった。
武はめちゃくちゃ上手かった。一時期はプロになろうとしていたというだけあって、入部当時からほとんどの先輩を凌駕していた。スリーポイントシューターだった武は、相手チームのコートに入りさえすればほとんどどのような体勢でもシュートを決めることができた。一年生から出た唯一のレギュラーだった。普通そういう奴は、先輩から嫉妬されていじめられそうだけれど、武は違った。よく冗談を言い、周りを笑わせて自分もよく笑っていた。同期だろうが先輩だろうが、失敗したチームメイトには「ドンマイドンマイ!」と明るく声をかけた。とにかく明るくて、人懐っこかったのだ。そういう奴にはよくあるように、彼は先輩からも同期からも、大学では珍しく下の名前で呼ばれていた。彼も、同期のことを全員下の名前で呼んだ。
武がとりわけよく話しかけてきたのは、何故か僕だった。早く上手くならなきゃと焦っていた僕が、休憩時間にもろくに休まずシュート練習をしていると、「浩一、スリーは腕の力だけでうつんじゃねぇよ、全身を使うんだよ」などと助言してくれ、実際に自分でやって見せてくれた。僕も、何故か武の後に続いてやるとよく入った。それを見ると武は、顔をくしゃくしゃにして笑った。僕もつられて、よく笑った。
僕が一人でいると嫌味を言ってくる先輩も、武が一緒だと何も言わなかった。誰かが一緒にいれば言わなかったのかもしれないけれど、部の中で明らかに足を引っ張っている僕と親しくしてくれる同期は武以外にいなかった。同期でバスケが一番上手い武と、一番下手な僕が仲良くしているのを見て、きっと他の同期は首を捻っていただろう。僕自身でさえ、首を捻っていた。
そんな武のおかげで、僕は徐々にバスケが上手くなり、一年の終わり頃には、部の足を引っ張るようなことはなくなった。二年生になって、後輩が入ってくると、彼らも武によく懐いた。ほとんどの後輩は僕より上手くて、さすがに少しだけ落ち込んだが、運動部で先輩より後輩が上手いなんてよくあることだし、と何でもない、ふりをしていた。中二で怪我するまでは、僕も武と同じようなポジションだったという事実から、目を背けて。
事件が起きたのは、二年生の冬のことだった。その時期に毎年開かれる大会で、僕らの大学はベスト十六まで勝ち進んでいた。そんなに強豪ではないうちの大学にしては、結構良い成績だ。次勝てば、十数年ぶりのベスト八だった。僕はその頃好調で、試合の後半から出場することになっていた。前半に後輩が活躍してくれ、五点くらい勝っていた。
僕が、その流れを変えてしまったのだ。
ベンチに待機していた時から、何となく右膝に違和感を感じてはいた。だが、プレーに支障をきたすとは思えなかったし、何より、今までチームの足を引っ張ってきた分、ここで活躍して名誉挽回をしたかった。
後半が始まってすぐ、僕にボールが回ってきた。僕はドリブルで相手チームの選手を抜き、スリーポイントシュートの体勢に入った。全身のバネを使ってシュートしようとした瞬間、右膝に鋭い痛みが走った。思わず手元が狂い、ボールはリングから大きく外れて、相手にボールが渡った。
それからも、僕のミスで相手にボールが渡ることが何度かあった。点も入れられた。僕がフリースローを外した時、見かねた監督がメンバーチェンジをした。三点差がついていた。その後も僕らのチームは悪い流れを変えられず、そのまま負けてしまった。
帰り道は、気まずい空気が漂っていた。誰も僕のことを責めなかったが、皆が僕のせいだと思っていることは明白だった。気まずい雰囲気をどうにかしようと、武だけが明るい口調で他の部員に話しかけていたが、その会話も長くは続かなかった。
いつも試合の後は大半の部員がご飯を食べに行くのだけれど、今日はとてもそんな気分じゃなかったので、僕は駅前で解散した後、改札へ通じるエスカレーターに乗った。改札へ向かっていると後ろから「浩一ー」と呼ばれた。僕のことを下の名前で呼ぶ奴は一人しかいない。
「何だよ武、お前飯食いに行かなかったのか?」僕は振り向いて訊いた。
「いやー俺だってあんな気まずい空気の中食べるのは嫌だしさぁ」
「お前でもそう思うのか・・・で、何か用か?」
「なあ浩一、気分転換にさ、ちょっとその辺散歩しねえか? 他の奴らはみんな飯食いに行っちゃったからもういねえよ」
「えー嫌だよ、せっかくエスカレーター上ったのに」
「大した手間じゃねえだろ、さ、行こうぜ」
本当は、僕は一人になりたかった。しかしいつものことながら、多少強引に誘ってくる武を振り払うことはできなかった。
「お前、膝が痛かったんだろ?」駅前から歩き出すと、武は単刀直入に僕に尋ねた。試合中にベンチに下がった後、僕は監督をはじめ色々な人から膝のことを訊かれたが、「大丈夫です」の一点張りで押し通していた。
「何言ってんだよ、別に痛くねえよ」本当は歩いているだけでも鈍い痛みが走るのだが、僕は普通に歩きながら、武に笑ってみせた。自分でも、笑顔が引きつっていることがわかった。
「嘘つけ」武はそう言うと、突然僕に軽くタックルしてきた。武は同期にふざけてタックルするのが好きで、それは僕相手でも例外ではなかった。普段なら余裕でそのまま踏みとどまれるのだが、その時は思わず右膝にグッと力を入れてしまい、鋭い痛みが走った。僕は大きくよろめいた。うっと呻いて思わず右膝を押さえた僕を、武はただ黙って見ていた。
「何すんだよ」僕は低い声で言った。
「痛いんだろ?」
「何でわかっててそういうことするんだよ!」
「こうしないとお前が認めないからだろ」
普段剽軽な武は、バスケの話になるといつも別人のように真剣になった。黙り込んだ僕に、武は更に続けた。
「膝が痛いんだったら、試合なんか出るなよ。無理してまで試合に出ようとか、そういうこと考えてんじゃねえよ。お前一回中学で怪我して、高校三年間バスケ休んで頑張って治したんだろ。今無理して試合に出て悪化したら、その三年間を棒に振ることになるんだぞ。怪我隠して試合に出て、何でもないふりして『大丈夫だから』とか言って笑うのが、かっこいいとでも思ってるのか? そういうのはかっこいいんじゃない、かっこつけって言うんだよ」
「ざけんな!」
僕は我慢できずに怒鳴った。彼が正しいことを言っているのはわかっていた。しかしこんなに容赦なく言われるのは、たとえ武でも、いや武だからこそ、我慢できなかった。
「お前に何がわかる。バスケがめちゃくちゃ上手くて、先輩にも同期にも後輩にも人望のあるお前に何がわかる。俺みたいにバスケが下手で、嫌味ばっか言われるような人間はなあ、そういうところでかっこつけるしかねえんだよ!」
理不尽なことを言っているのはわかっていた。だが、言い返そうとする武を制して、僕の口は次から次へと言葉を吐き出した。
「お前みたいに挫折を知らない人間に、あれこれ偉そうなこと言われる筋合いはねえよ! お前だって本当はかっこつけてんだろ? 俺に話しかけるのだって、『人気者なのに、ダメな奴にも分け隔てなく接する良い奴』って周りに思わせて、株を上げようとしてたんじゃねえのか?」
違う。武はそんな奴じゃない。言い過ぎだ。わかってるのに、まだ止まらない。
「俺だって、怪我するまではお前みたいに人気者だったよ! チームで一番上手くて、みんなに好かれてた。怪我で何もかも変わっちまったんだ。大学でバスケ部に入ったら、どいつもこいつも俺のことをバカにしやがって。今だって、俺より上手い後輩はいっぱいいるし。今日だって俺のせいで負けたんだしな。どうせ俺は一番下手だよ。ここぞという試合で失敗するダメ人間だよ!」
「違う」
喉の奥から絞り出すように、武は言った。
「みんなお前をバカになんかしてないよ。確かにそういう先輩はいたけど、同期はみんなお前と仲良くなろうとしてたよ。誰だって長い間バスケしてたら、怪我の一つや二つくらい経験するよ。その辛さをわかってるから、お前が今日試合を途中でやめたって、誰も責めなかったよ。お前がそうやって変に僻むから、同期にバカにされてるように思うんだろ」
僕は何より最後のセリフにカチンときてしまった。
「お前は大怪我なんかしたことないだろ! 競技人生が危機に瀕するような大怪我なんて一度もないだろ! お前みたいに人生が順風満帆な奴に、俺の気持ちなんてわからねえよ!」
そう言った瞬間、僕は武の目が一瞬鋭くなるのを見た。激怒したのかと思った。僕もその時は頭に血が上っていたから、武がもし殴りかかってきても迎え撃つ覚悟だった。来るなら来い。僕は身構えた。
しかし予想に反して、武は動かなかった。代わりに、彼の唇は何かを言おうとして震えた。それから、彼は何かに怯えるような表情を見せた。でもこれは気のせいだったのかもしれない。彼が恐れるようなことなど、何もないのだから。
最後に、彼はとても寂しそうな顔になった。そして僕から顔を背けると、黙って駅の方へ走り去って行った。
「何だよあいつ」と僕は思った。言いたいことがあるならはっきり言えばいいのに。でも何にせよ、こんな別れ方をするのはとても後味が悪かった。むしゃくしゃして、僕はたまたま見つけた通り沿いのゲーセンに入り、二十分くらい時間を潰した。どのゲームも失敗続きだった。
家に帰ってから、僕は気づいた。入部当初から、他の同期は僕に、不愛想ながらも話しかけようとしていたことに。今日だって監督に半ば強制的にメンバーチェンジされた時、ベンチに控えていた一人の同期が、黙ってスポーツドリンクを手渡してくれた。僕はその時、そいつが憐憫から親切にしているんだと思って、その手を振り払ったのだった。
確かに僕は僻んでいたのだ。同期が親切にしてくれても、きっと何か裏があると思って信用していなかった。武以外の同期に馴染めなかったのは、彼らの性格が悪かったからじゃない。僕が僻んで、馴染もうとしてなかっただけなんだ。
僕は、武から言われた一言一言を噛み締めた。多少毒舌だったとは言え、彼の言ったことはことごとく真実だった。それに対して僕は、何とひどいことを彼に言ったのだろう。同期の中で唯一、僕と仲良くしてくれた人間だというのに。
でもどうして武は最後、僕に言い返さなかったのだろう。僕は彼に、人生が順風満帆な奴などと言ってしまった。でもそんなはずはない。プロを目指せるくらいまで上手くなるには、それなりに挫折の経験があったはずなのだ。
思えば、彼は自分の話をあまりしない男だった。大人数ではもちろん、何かの拍子に二人きりで話すことになった時も、武は僕の話を聞くばかりで、自分の話をほとんどしなかった。あまりにも彼が聞き上手なので、今まで気づかなかったのだ。プロを目指していたという話も、たまたまバスケ部ではない彼の知り合いから聞いただけだった。僕が「何でプロにならなかったんだ?」と訊いたら、武はいつものようにへへっと笑って「俺でもなれないくらいプロは厳しいんだよお」と言っていたっけ。
とにかく、彼に謝ろう。僕はそう思った。
次の日、周りの人間が聞いていない時を見計らって、僕は武に謝った。「昨日はごめん」と言うと、彼は「別にいいよ、気にしてねえから」と言っていつものようにくしゃっと笑ってみせた。僕にしても、許してくれるとは思っていたが、それでもやはり安心した。
だが、その事件があって以来、武は少しよそよそしくなったように僕は感じた。前ほど話しかけてこなくなったし、練習中に助言をくれることも少なくなった。やっぱり僕は彼に何か取り返しのつかないことを言ってしまったのだろう。ほとぼりが冷めるのを待つしかない。僕はそう思って諦めた。それに僕は武に叱責されてから、他の同期とも仲良くすることを心がけており、実際それは成功していた。一度心の壁を取り払ってしまえば、みんな良い奴だとわかるまでにそう時間はかからなかった。
そうこうしているうちに、三年生の春休みになり、僕らは引退した。僕みたいに医学部に行っている人だけじゃないから、四年生になると就活に忙しくなってもう部活には出られない。バスケ部だけでなく、ほとんどの運動部はこの時期に引退するのだった。最後まで武とはほとんど喋らないままで、引退してからは一度も会っていない。
僕が昏睡状態から覚めた時、バスケ部の仲間は何人かお見舞いに来てくれた。親しかったある同期は、満面の笑みで僕に軽くタックルをかましてきた。大半の同期は大学を卒業して社会人になっていて、僕は彼らの話(多くは職場での愚痴だったが)に耳を傾けた。文学部だった武も社会人になっているはずだが、彼は一度も見舞いに来なかった。見舞いに来てくれた同期に彼のことを尋ねてみたが、誰も知らなかった。みんな「そういえば知らないな」という感じで、武の現在を知らないことに自分でも驚いているように見えた。
3
久しぶりだな、浩一。
お前はきっと、俺のことを怒ってるよな。俺があの日からお前を避けるようになったことに、気づいてたよな。
悪いことをしたと思ってる。でも、当時の俺はそうするしかなかった。今から書くことは全部弁解だ。出来れば全部読んでほしい。
まず、俺の過去の話をしよう。
俺は小学生の頃からミニバスをやっていて、自分で言うのも何だけど、バスケの神童と呼ばれていた。毎日毎日バスケに明け暮れて、高校はスポーツ推薦で、バスケの強豪校に入った。強豪校だけあって、周りの奴らはみんな上手かった。でも俺も負けてはいなかった。その頃の俺は、大学のバスケ部の奴らは信じられないと思うけど、とても無口で、愛想がなかった。用がない限り誰とも喋らなかった。
そんな俺だったが、親友が一人いた。中学からの付き合いだったんだ。そいつは大学時代の俺みたいに、明るくて人懐こかった。俺達は何でも語り合った。俺とそいつはうちの代の双璧と呼ばれてた。「一緒にプロを目指そうぜ」と、俺達はこっそり言い合ったものだ。
でも、俺は他の同期には全然好かれちゃいなかった。確かにバスケは上手かったけど、まるで愛想がない。みんなが休憩していても、俺は黙々と練習を続けてた。休日に遊びに誘われても、断っていた。そんな暇があるなら、近所のバスケットコートでシュート練習をしたかったからだ。きっと奴らからしてみると、俺はとっつきにくかったんだろう。そのうち誰からも誘われなくなった。親友の方は他の奴らとも仲が良く、一緒に遊びに行っていたらしい。不思議なことに、俺の方が練習してるはずなのに、俺達のバスケの実力はいつまで経っても互角だった。
入部した年の夏あたりに、俺は左膝を痛めた。と言っても大したことはなく、走ったりジャンプしたりする時に少し痛みが走る程度だったから、俺はサポーターをつけただけで猛練習を続けた。どうしても親友に勝ちたかったからだ。そして、プロになりたかったからだ。
そしてその年の秋、俺は大怪我をした。左膝の前十字靱帯断裂だ。試合中に相手チームのパスをカットしてドリブルしようとした瞬間、左膝が嫌な音を立てて、俺は倒れた。歩くこともままならず、親友の肩を借りて行った病院で、絶対安静を命じられた。もう、プロになるのは無理だと言われた。高校在学中は部活禁止。大学でも、部活として楽しむのがせいぜいだと。今度猛練習したら歩けなくなるとまで言われた。
信じられなかった。信じたくなかった。俺からバスケを取ったら何も残らない。今まで人生をかけてきたものがたった一回の怪我で奪われるなんて納得が行かなかった。夏に痛めた時、無理をせずに整形外科に行っていればこんなことにはならなかっただろう。激しく後悔した。でもどれだけ後悔してももう手遅れだった。俺は親友に全て打ち明け、恥も外聞もなく号泣した。あいつはただ黙って隣にいてくれた。慰めの言葉なんてなかったし、俺もそんなもの聞きたくなかった。
俺は松葉杖をついてリハビリしながら、マネージャーの手伝いをした。自分がプレーするのが無理なら、せめて部員の手助けをしたかったのだ。今までは自分の練習で精一杯だったが、この時初めて人のプレーをじっくり見た。助言が上手くなったのは、この時の経験による。同期とあまり親しくしてなかったから、彼らは初め戸惑っていたようだが、俺の助言は大体的確だったから、結構素直に聞いてくれるようになった。バスケをプレー出来ないのは悲しかったが、こういう関わり方もあると知って、俺は少し心が慰められた。
怪我から半年ほど経った高一の春休みのある日、俺はコートの片付けを終えて、更衣室へ向かった。他の部員は先に行って着替えていた。その頃俺は松葉杖をついてはいたが、ほぼ自力で歩けるようになっていた。更衣室のドアを開けようとすると、中から「本田さぁ」という声が聞こえてきたので、俺は開けるのをやめ、外で耳を澄ませた。
「あいつ、まだやめねぇのかな?」
「俺らもやりづらいよな、怪我して動けないやつがいると」
「あいつの目、見たか? 全てを失ったような目してやがるぜ」
「今まで話しかけてこなかったくせに、今じゃ一丁前に助言なんかしてきてやんの」
「惨めだよなー、もう自分はプロになれねえってのに」
「お前と本田って実力同じくらいだったろ。張り合えなくなって残念じゃね?」
親友に話が振られた。俺はドアに耳をはりつけた。
「いや、せいせいしたよ」
俺は耳を疑った。
「大体あいつがいると部活しづらかったんだよ。他の奴と打ち解けようとしないしさ、俺は中学からの付き合いだから知らん顔する訳にもいかねえし、すげえめんどくさかったの。俺より練習してるくせに全然上手くならないしさ、あいつ別に怪我しなくてもプロにはなれなかったんじゃね?」
「まあ、バカみたいに練習してる割には進歩してねーよな」
「あいつさ、何勘違いしてんのか、もうプロにはなれないって医者に言われた話を俺にしてきて、目の前でわんわん泣いてやんの」
「うわーっ、かっこわりーっ」
「プライドとかないのかね」
「でもあいつさ、お前のこと絶対親友だって思ってるよ、ちょっとかわいそーっ」
「そんなんあいつが勝手に思ってるだけだろ、俺は迷惑だよ」
更衣室から爆笑が聞こえてきた。俺は頭にカッと血が上った。
爆笑がやまないうちに、俺は力任せにドアを開けた。大笑いしていた同期たちは、こっちを見て凍りついた。が、親友だけは薄笑いを浮かべてこっちを見ていた。
「何、聞いてたの? だったら手間が省けていいや。そろそろお前にうざいって言おうと思ってたんだよ」
皆まで聞かないうちに、俺は松葉杖を振り上げ、自分がずっと親友だと思い込んでいた男の頭を思い切り殴りつけた。まさか俺が暴力を振るうとは思わなかったらしく、奴は呆気なく倒れた。少し血が出ていたが、俺が心に負った傷に比べれば軽いものだろうと、俺は奴を見下ろしながら考えた。
奴は全治二週間の怪我を負い、俺は停学処分になったが、自主退学した。バスケが出来なくなり、親友に裏切られた今、高校に未練などなかった。俺が大学に行けたのは、この事件を忘れようと勉強に励み、大検をとったからだ。
俺はこの事件から、大事なことを学んだ。
絶対に、人を信用してはならない。心を打ち明けてはならない。
他の同期にどう思われようと、俺は構わなかった。大勢と仲良くならなくても、心を許せる友達が一人いれば十分だった。でもそいつに裏切られた時の心の傷は半端じゃなかった。親友を作ることがどれだけ危険か、俺は身をもって知ったのだ。
大学に入ってから、俺はバスケ部に入るかどうかめちゃくちゃ悩んだ。怪我をして以来ほぼバスケをしていなかったので、膝はかなり回復していた。大学の部活くらいなら出来る状態にあった。でもバスケをやれば嫌でもあの時のことを思い出す。
本当に悩みに悩んだが、結局、バスケ部に入ることに決めた。あの時の部員とはもう縁を切ってるけど、バスケ自体はずっと大好きだから。例えプロにはなれなくても、俺はバスケがしたかった。それに、過去に引きずられてバスケをやめてしまうのは、自分を裏切った奴に負けたことになる気がして癪でもあった。
ただ、また一から人間関係を築くのは、正直怖かった。素の自分を出せば、また嫌われるだろうと思った。それで、誰からも好かれていた、かつての親友の態度を真似ることにしたんだ。面白いくらいに上手くいった。みんなに下の名前で呼ばれるなんて、かつての俺には考えられないことだった。こんなに簡単に他人を欺けるとは思わなかった。常に笑顔でいれば、容易に信用されるらしい。
俺は大学に入ってから一度も、誰にも心を許さなかった。周りの人間全員に好かれているのを自覚してはいたが、雑談ではもっぱら聞き役になるよう心がけた。自分に話が振られそうになると、俺は適当なことを言ってごまかし、あんまり喋ってない奴にすぐ話を振った。常に明るくて、裏表のない奴だと思われていたおかげで、俺のこういう部分は誰にも気づかれてなかった、と思う。
お前は、初めて会った時から、かつての俺みたいなオーラを放ってた。挫折から立ち直ってない人間の目をしてた。だから俺はほっとけなかった。お前が過去の話をしてきた時、俺はやっぱりなと思ったよ。その挫折経験から整形外科医になろうとしてるなんて、ほんとにすげえと思った。俺はまだ、あの時の経験をプラスのエネルギーに変えられてはいないから。
でもそれと同時に、同期の中で浮いてたお前と仲良くしてみたら、俺の好感度が上がるかもしれないと考えたことも事実だ。そういう意味じゃ、お前があの日に俺に言ったことは間違ってなかった。だけど、言い訳に聞こえるとは思うけど、それは話しかけるきっかけに過ぎなかった。俺は、自分と似たような境遇にあるお前の話を、いつしか熱心に聞くようになってた。そしてあろうことか、俺はかつて痛い目に遭ったにも関わらず、お前に心を許したいと思うようになってきた。自制心でずっと押しとどめてたけどな。
お前に「何でプロにならなかったんだ?」と訊かれた時、俺は仰天した。誰だかわからなかったけど、お前の耳にその話を入れた奴を恨んだ。その時、よっぽど俺の過去を話そうかと思った。お前なら黙って聞いてくれそうだったから。でも、怖かった。親友に裏切られたあの日のことがフラッシュバックして、苦しかった。幸い、俺は大学に入ってから、何か嫌なことや苦しいことがあった時は反射的に笑顔と冗談でごまかす術を身につけていた。確かお前のこともそうやってごまかした気がする。
で、俺とお前は、喧嘩したよな。
あの日の試合で、お前が右膝を気にしていたことは、お前が試合に出る前から気づいてた。俺は高校で痛い目に遭って以来、観察眼を磨くようにしてたから。でもそこまで深刻そうではなかったから、俺も気づかないふりをしてた。けど、後半でスリーポイントシュートを外すのを見た時、ちょっとやばいなとは思った。よっぽど休んでろと言おうかと思ったが、お前はかえって意固地になりそうだからやめておいた。いや、正直に言えば、お前と喧嘩したくなかったんだろうな。監督がメンバーチェンジした時は、マジでほっとした。
でもお前が、試合終了後に必死で怪我を隠してるのを見て、ほっとけなくなった。そのまま無理してバスケを続ければ、お前は間違いなく引退前に膝を壊してプレーができなくなる。就職したら、ましてお前みたいに医者になったら、バスケはそうそうできなくなるんだから、せめて部活は最後まで楽しんでほしかった。今から思えば、監督だって怪我に気づいてたはずだから、あの日にあんなこと言わなくて良かったんだろうと思う。言っちゃったけどな。
お前にあんなに強い口調で詰問した理由は、俺も同じことをしてプロになる道を閉ざされたからだ。過去の俺にそっくりなお前に、俺と同じ辛い思いをしてほしくなかった。まあでも口調がきつ過ぎたんだろう、お前は逆上したよな。
「お前みたいに人生が順風満帆な奴に何がわかる!」と言われた時には、正直さすがにキレそうになった。多分売り言葉に買い言葉なんだろうと理解してはいたが、それを差し引いてもその言葉は俺にとってあまりにも的外れで無神経だったから。「俺のことを何も知らないくせに」と内心で俺は思った。でもそれは当たり前なのだ。だって俺は周りに自分のことを何も話してないのだから。知られたくなくて、必死に隠してきたのだから。
自分を偽ると、こういう辛いことがあるんだと、俺は初めて知った。お前らみんなにとって、俺はただの明るくて裏表のないお調子者に過ぎないのだ。それは俺が望んで周りに植え付けたイメージだとはいえ、こういう形で自分に跳ね返ってくるのはなかなか辛いものがあった。
俺はよっぽどお前に、自分の過去を打ち明けようかと思った。お前ならきっとわかってくれるだろうとも思った。そうしたら怪我のことも納得してくれるはずだ。俺とお前は割と似たような境遇だから、親近感も抱いてくれるかもしれない。俺は口を開きかけた。
でも最後の最後に、恐怖心が勝った。過去のことを話したら、お前は笑うかもしれない。明日にも、部員に言いふらして嘲笑するかもしれない。お前の顔と、かつての親友の顔が重なった。誰かに心を許すのが、怖くて、怖くて、俺にはもうできなかった。俺は最も気が合いそうな奴とさえ、もう心の壁を隔てた会話しかできないのだ。たまらなく寂しくなって、気づいたら駆け出していた。
そしてお前も多分気づいてたと思うけど、俺はお前のことを避けるようになった。次あの時のような喧嘩になったら最後、俺はお前に自分のことを全て話してしまうだろうと思ったからだ。そうしたら仲良くなれるかもしれないが、バカにされるかもしれない。俺はそんな危険を冒したくなかった。否、そんな危険を冒す勇気がなかった。それに俺は最後の一年間、部長として雑事に追われ、一つのことにくよくよ悩んでいる暇もなかった。お前から何度も物問いたげな視線を浴びるのを感じたが、俺は目をそらし続けた。引退する時は少しほっとしたのを覚えている。
だけど引退した年の夏、お前は事故に遭った。
同期から知らせを聞いた時、俺は就職面接の帰りで、喫茶店でコーヒーを飲んでいた。お前が多分一番親しくしていた同期だったと思うが、そいつがただならぬ口調で、お前が昏睡状態になったと告げた時、俺は後頭部を思い切り殴られたような気がした。
「それで、あいつは目を覚ますのか?」
「医師によると、何とも言えないそうだ。いつ目を覚ましてもおかしくないが、確かなことは言えない・・・と」
俺はその同期を罵倒したくなったが、どうにかこらえた。実際、俺は彼がそのことを知らせてくれたことに感謝すべきだった。あまりにも衝撃を受けたので、電話を切ってから二時間くらいその場で呆然としていた。とてもコーヒーの残りを飲む気はしなかった。
それから俺は、また激しい葛藤と後悔に苛まれることになった。もちろん就活に忙殺されてたから、四六時中考えてた訳ではないが、それでも電車に乗っている時にふと思い出したり。風呂に入っている時に考え込んだりしてしまった。
俺は、やっぱりお前に心を許すべきではなかったのか。過去に引きずられて、親友を作る大事な機会を失ってしまったのではないのか。当たり前だがお前はあの男とは違う。お前はもっと誠実だったかもしれないのだ。それに、たとえ俺は欺かれていたにしろ、元親友と話したり、バスケをしたりした時間は楽しく、かけがえのないものだった。俺にあと少し勇気があれば、大学の部活ももっと素晴らしいものになったかもしれないのだ。
しかし、高校時代の思い出を美化できるのは、それだけ時間が経ったからだ、と反論するもう一人の俺がいた。俺はあの時、尋常ではない心の傷を負った。もしお前に自分の過去を話して笑われたら、俺はまた傷を負うことになる。もうそんな危険を冒すことはないではないか。この前の傷からようやく立ち直ったというのに、お前はまた好んで新たな傷を負う気か?
こんな考え方をしていたら、俺は一生誰とも打ち解けられないままだろう。それはあまりにも寂しいことであった。だが、それでいいじゃないか、という考えもあった。そうすれば、俺は二度と生身を引き裂かれるような思いをしなくて済むのだ。自分が信用していない人間に裏切られたところで、一体どれほどのダメージがあろう?
そんなある日、かつての親友からメールが来た。
「色々と思うところはあるだろうし、お前が俺のことを憎んでいるのは重々承知している。だが、五分だけでいいので直接会って話がしたい」とのことだった。
言うまでもないことだが、俺が奴の頭を殴打してから、俺らは口を利いていなかったし、連絡も取り合っていなかった。そしてもっと言うまでもないことだが、俺は奴に会いたくなどなかった。きっと今頃はプロになって、NBAかどこかで活躍しているだろうし、そんなあいつを見たくはなかった。しかし、今更何故連絡が来たのか知りたい気持ちはあった。それに、あれから六年という決して短くない歳月が経っていたからでもあるのだろう、俺は奴と会うことを了承した。
俺達は、俺の家の近所の公園で待ち合わせた。俺が着いた時には奴はもう座っていて、こちらに気づいて片手を上げた。俺は奴を見て息を呑んだ。高校時代の逞しかった体が見る影もなく痩せ細っており、頰もげっそりとこけていたからだ。もう自分に関係ないこととはいえ、かなり驚いてしまった。
奴はそんな俺の反応に気づかないふりをしていた。そして当然のことながら、喜ばしい再会ではなかった。
「久しぶりだな」奴は言った。
「どういう用件なのか手短に言ってくれ」と俺は素っ気なく言った。
すると奴はさっと姿勢を正し、「本当に済まなかった」と頭を下げた。
「謝って済むことじゃないのはわかってる。俺はお前に対して取り返しのつかないことをした。お前の信頼を裏切った。言い訳はしない。お前が赦してくれるとも思ってない。だけど、一度謝りたかったんだ」
俺はしばらく、頭を下げる元親友を眺めていた。それから「顔を上げろよ」と言った。奴が顔を上げると、俺は言った。
「二つ質問がある。何故、今頃になって謝ってきたのか。そして、何故あんなことをしたのかだ」
「俺はもうバスケをやっていない」奴は言った。
窶れた姿を見た後なので、そんなに驚きはしなかった。そしてもちろんそれは俺のどちらの質問に対する答えにもなっていなかったので、俺は続きを待った。
「俺は高校時代にNBLにスカウトされて、卒業してすぐそこと契約を結んだ」
もちろんNBLは知っている。ナショナルバスケットボールリーグの略だ。俺だって怪我さえしなければそこに行くはずだったのだ。なるほど、こいつは希望通りプロになれた訳だ。
「でもあそこでは常に嫉妬と陰謀が渦巻いていた。誰もが年俸を上げようと必死なんだ。自分が活躍するためなら手段を選ばない。殺伐とした雰囲気が漂っていた。
お前も知っての通り、俺は誰にでも好かれる人間だった。明るくて、愛想が良かったからな。だが、その性格は、あそこではかえって嫌われる元になった。明るくて目立つ人間が、苛めの標的になることもあるんだ」
苛められたんだ、と奴は言った。
「俺だって戦おうとした。何しろプロになるのは子供の頃からの夢だったからな。だけど俺は喧嘩の仕方なんか知らなかった。知ってたとしても大勢が敵なら敵わないだろうな」
「監督に相談しなかったのか?」俺は尋ねた。
「監督は保身のことしか頭にない。しかも、苛めの主犯格の奴はチームのエースだった。俺が苛めを訴えても信用しない。主犯の奴は監督のお気に入りだったから、事情を聞かれても『すみません作戦会議で揉めてしまいました』とか言って笑みを浮かべれば簡単に騙される。そして俺はその後そいつに目立たない所を殴られるんだ。
俺は三年耐えた。我ながらよく耐えたと思うよ。最後の方は食欲がほとんどなかったし、ほとんど眠ることもできなかった。それでも力を振り絞って練習してたんだ。でもある日、とうとう体育館に入れなくなった。足がどうしても動かないんだ。無理に足を動かそうとしたら、眩暈がして座り込んでしまった。病院に行ったら、急性ストレス障害だと言われた。早急にストレスの原因を取り除かないと、命に関わることにもなりかねないとね。それで俺はバスケを辞めた。これからどうするかはまだ決めてないよ。
辞めて、一人になってから俺は思ったんだ。これは天罰だってね。親友だったお前にした仕打ちが自分に返って来たんだ。これで良かったんだと思う。このまま順調にプロの仕事を続けてたら、俺はお前に謝ろうなんて微塵も考えなかっただろうから。俺は仕事を失った代わりに。人間として大事なものを取り戻したんだと思うよ」
奴は笑った。寂しそうな笑いだったが、幾分か清々しさを含んでいるようにも見えた。
「まだ俺の質問に答えていないぞ」
「何故今頃謝ってきたのか、だな。それは簡単だ。俺がバスケを辞めて、じっくり考え、お前に謝罪する決心をしたのが最近だったからだ」
「もう一つある」
そう言うと、奴は視線をふっとそらした。
「羨ましかったんだよ」
「馬鹿を言え」俺は言った。「お前は俺より少ない努力で俺と互角に張り合ってた。俺がお前を羨むことがあっても、その逆はないはずだろう?」
「一見したら、そうだ。でもお前にあって、俺に足りないものが一つだけあった」
奴はそう言って、少し黙った。俺は考えたが、どうも思い浮かばなかった。
「わからないな」
「努力するという才能だよ」
俺はよほど怪訝な顔をしたのだろう。奴は言った。
「努力できるってのは才能なんだ。お前はいつも、ストイックすぎるくらい練習してただろ。俺はそれをバカにしてたけど、内心怖くてたまらなかったんだ。今は互角に張り合ってても、いつか必ずお前に抜かされることが俺にはわかっていた。お前があんなに早い段階で怪我をしてなければ、俺は間違いなくお前に敵わなくなっていただろう。
だったら頑張ればいいってお前は思うよな。でも俺はそういうことがどうしてもできないんだ。昔から俺には努力するという習慣がなかった。頑張らなくても人より良い結果が出せてしまうんだ。だから少しでもキツいことをするのには耐えられないんだ。それに、努力して報われる保証はない。俺は、努力しても結果が出ないということには耐えられそうになかった。自分の限界を知るのが怖かったんだ。俺はいずれ自分がお前に負けることを知ってた。知ってても、何もできなかったんだ。だから当たり前のように努力し続けるお前が妬ましかった。それが、お前を裏切った理由だ。これを言っても自分の罪がいささかも軽くなるとは思わないが、今は自分が人として卑劣なことをしたと思っている」
「もう一度訊くが、お前はもし苛めに遭わなかったら、今でも俺に謝罪してないと思うんだな?」
「そうだ。まあ、他に何かきっかけが生まれたかもしれないが」
「それがとても自分勝手なことだと、お前は認めるか?」
「認める」
俺は暫く奴の目を見つめた。奴は見返してきた。互いに一度も目をそらさなかった。
やがて俺は、片手を差し出した。奴は、俺とおずおずと握手をしながら尋ねた。
「赦してくれるのか?」
俺が言うべき言葉は一つしかなかった。
「あの時、お前の頭を殴ったことを赦してくれ」
ことによると、俺はかなりのお人好しなのかもしれない。お前は、そう思うかもしれない。
でも、あいつは俺に大事なことを教えてくれた。俺達はみんなどうしようもなく不完全だけど、自分の犯した過ちに気づくこともあるってこと。そして、余程のことがない限り、過ちを犯してもやり直せるってこと。あいつに裏切られたことは深い傷となったけど、仲直りした時の嬉しさはその傷すら相殺するほどのものだった。俺だって知らず知らずのうちに誰かを傷つけていたかもしれない。程度の差こそあれ、過ちを犯したことは何度もある。それでも今まで色々な人に赦されて生きてきた。今度は俺があいつを赦す番だろう、と思ったんだ。
そして、やっと自分の殻に閉じこもるのをやめる気になった。
すると、お前と色々な話がしたくなった。この時ほど、お前が昏睡状態であることを辛く思ったことはない。そして思った。
俺達は、自分や周りの人がいつ死んでも後悔しないように、周りと接していくべきなんだ。
今回交通事故に遭ったのはお前だったが、もしかしたら俺だったかもしれない。あの親友だったかもしれない。人生何が起きるかわからない。明日、いや数時間、数分後さえ何が起きるかわからない。一時間後に俺は通り魔に遭って死んでるかもしれないなんて考えたら、つまらないことで他人と喧嘩するなんて絶対にできないはずだ。こういうことを肝に銘じて、俺達は生きていくべきなんじゃないかな。
お前がもし昏睡状態のまま死んじまったら、俺は一生、お前と打ち解けようとしなかったことを後悔するだろう。どうか目を覚ましてくれ。お願いだ。俺はずっとそう願ってた。お前の事故を知らせてくれた同期に俺から電話をかけて、お前の目が覚めたら教えてくれるよう頼んだ。お前がいつか目を覚ますことを信じてた、なんて言いたいところだけど、もしこのまま死んじまったら・・・って思ったことも正直何度もあった。
俺は大学を卒業して、公務員になった。不景気のこのご時世、安定した職が一番だと思ってな。お前みたく何か資格を取っている訳でもないし。新たな環境に慣れるのに精一杯で、正直あんまりお前のことを思い出したりはしなかった。
でもそんなある日、同期から電話がかかってきた。俺は仕事中で出られなかったけど、着信履歴があったので、急いで折り返した。まさか、とは思った。
そしたら、やっぱりお前が目を覚ました知らせだった! 俺は信じられなかった。奇跡だと思った。もちろんとても嬉しかった。もう二度と後悔しないようにしようと俺は決心した。
それで仕事の合間や休日に、これを書いた。過去の記憶を思い出すのに時間がかかって、書き上げた時はもう春になってた。お前はもうリハビリが終わりかけてるんだってな。お前は俺のことを怒ってるかもしれないし、まだ人と親しく話すのは怖いけど(職場の人間とは当たり障りのない会話しかしない。みんなそうかもしれないけど)、お前さえ良ければ、今度大学の近くで会いたい。色々話したいんだ。
お前が回復して、俺は本当に嬉しいよ。
エピローグ
その日はいかにも春らしい、雲一つない快晴だった。
僕は約束の時間の一時間前に校門に着いた。あまりにも懐かしかったので、少しキャンパス内を散歩したかったのだ。僕は明日から、途中で中断した四年生をやり直すことになる。
校門を入ってすぐ、大きな建物が目の前に現れた。大講堂だ。見上げると、時計がかかってるのが見えた。いつも最初に目に入る景色だ。僕は思わず微笑んだ。
僕はそれから、バスケ部が練習していた体育館の方へ足を向けた。途中で桜並木を通った。折しも桜は満開で、時々風が吹くと花びらが散った。道は桜の花びらで覆われていた。僕の髪にも、桜の花びらがついた。
体育館の前に着くと、中からバスケ部の掛け声が響いてきた。コーチにでも志願しない限り、もう練習に加わることはできない。多忙な僕にはとても無理だろう。でも。後輩達が僕らの後を引き継いで練習に励んでいることがわかっただけで十分だった。僕は体育館の前にしばらく佇んだ後、歩き出した。
一時間じっくりかけてキャンパスを散歩した後、僕は校門に戻った。すると向こうから、見慣れた人影が歩いて来るのが見えた。目が合った。相手はあのくしゃくしゃの笑顔を見せた。
僕達は、お互いに向かって走り出した。