父の終わりの花となる
少女は追われていた。冷たい石畳の街で、少女の長い髪が月に映える。少女は路地裏に駆け込むと、ゴミ箱を倒しておく。そんなものが「彼ら」の足止めにならないことは、少女自身分かってはいたが。
少女の肩を銃弾が掠めた。深夜の街で発砲音を鳴らすなど、少女は想定していなかった。同時に、彼らが本気の殺意を向けているのだと悟り、唇を噛んだ。肩の痛みは少女を鈍らせ、やがて追い詰められた。
「鬼ごっこは終わりだ、精霊さんよ」
「…………」
「選ばせてやる。大人しく同行するか、大人しくなって同行するか」
少女は銃口を頭に突き付けられ、その場にぺたりと座り込む。深くため息を吐くと、指を折って何かを数え始める。数え終わるとこくこくと頷いて、もう一度数え直しては頷く。
「十一歳、かあ」
「……享年か? 遺言なら聞いてやろうじゃないか」
「あなたたちは二つ勘違いしてる」
「ほう? 聞かせてもらおうか」
ふっ、と鼻を鳴らす男に、少女はニコリと作り笑いを見せる。
「一つ、精霊は死なない。二つ、精霊は魔法が使える」
少女が銃口にちょん、と触れると、そこからビキバキと氷が張り始める。銃身を這うように広がる氷に、男たちが青ざめる。
「お、おい、なんだこれ、ウソだろ」
「兄貴、手を離せ! 早く!」
子分が言うも、既に引き金が指ごと凍り、離そうと振り回したところで離れなかった。氷は指から手へ、手首に肘を、そして片腕を呑み込んだ。
「やめろ、やめてくれ! 助けてくれ!」
肺まで凍り始め、男はひゅうひゅうと白い息ばかりを吐いている。やがて全身が凍り付いて、氷像となった。周りの者共はもう、怯えて何も言えなかった。
少女はよろよろと立ち上がると、それを押し倒した。ガラスの砕けるような音がして、彼の首が転がった。ぎょろりとした目が、彼らを見つめているようだった。
「ああごめん。もう一つ、精霊は優しくない。あなたたちも死にたくなければ帰りなさい」
「く、クソ! 化物……!」
追手が逃げるように去った後で、少女はほっと息を吐く。思い出したように肩に痛みが走り、少女はその場に倒れ込む。それは痛みのせいではなく、空腹の限界によるものだった。
もうどのくらい食べていないか、覚えてもいなかった。
***
少女は懐かしい夢を見ていた。綿のような大地に色とりどりの花々が咲き誇る世界。少女らはそこを精霊界と呼んでいた。
「ねえ、本当に行くの?」
「本当だよ。ずっと、決めてたから」
人間界の扉の前で、少女は強く言い切る。少女を止めようとしている精霊――ナデシコ――はその背に小さな羽を揺らしていた。
「シオン、まだ間に合うよ。今からでも一緒に天使界に……それかせめてイデア界に行こうよ。人間界になんて行ってシオンが死んじゃったら、私、私……」
少女はナデシコの涙を指で拭うと、静かに微笑んだ。
「平気。精霊は死なないわ。仮に年齢を使い果たしても、魂になってここに戻るだけだって、習ったじゃない」
「……違うわ。不安にさせたいわけじゃない、でも、聞いたことがあるの。人間に深入りすると、精霊は本当に死ぬんだって。シオンのお父さんだって、もしかしたら――」
少女が強く睨むと、ナデシコは、ごめん、とこぼす。
「お父さんは生きてる。どうせ人間と仲良くなって、帰ることを忘れてるだけ。見つけたらすぐ連れ戻すから、そんなに心配しないで」
少女は人間界への扉を押し開けて、あたたかな光に包まれる。
「絶対、ぜったい帰ってきてよ!」
「分かった、約束だよ」
少女は光の中に消え、扉は固く閉じられた。後に残ったナデシコは、一人その場に泣き崩れていた。
***
少女が目を覚ますと、そこは暖かな部屋だった。追手に捕まったのかと考えはしたが、体に掛けられた毛布を見て、そうではないと悟った。
「目が覚めたか」
「誰?」
聞き覚えのない声に体を起こそうとすると、少女は肩の痛みに悶える。
「おいおい動くんじゃねえ、傷口が開くぞ」
少女は肩を必死に押さえていると、そこに巻かれている包帯に気付く。動くなとは言われたものの、どうにか痛みのないように起き上がり、肩を撫でる。そして感謝と困惑の混ざった声で尋ねた。
「あなたは……誰?」
「俺はローダンス。この街の衛兵隊長をしている」
「ローダンセ? 良い名前ね!」
少女はぱあっと目を輝かせるが、ローダンスだ、と訂正される。
彼は四十代半ばほどの男で、少女の警戒心を抑えるためか、一切の武装はしていなかった。目の前の椅子に腰を掛けると、ゆっくりと話し始める。
「昨夜妙な発砲音があってな。近くにいたうちの兵が君を拾った。彼は現場を見ていたそうでな、君の正体も聞いている」
少女がキッと睨むと彼は両手を挙げて無害を示す。
「責めないでくれ。彼一人で突っ込むには相手が多すぎた。それに、銃も所持していたとなれば、情報収集に徹した判断は正解だっただろう」
「違う。私の正体を知ったなら、どうして私を助けたの。私が化物だって知ってるでしょう!?」
大きな声を上げた反動で、体が空腹を思い出す。ぎゅるぎゅるとお腹を鳴らしているのを見て、ローダンスは、食事にしよう、と切り出した。
くるみのパンとオニオンスープが置かれるが、少女はそれに手を付けようとしない。
「毒なんか入ってないし、入ってても死なないんだろう?」
「死ななくても苦しむし、痛いのよ」
少女は思い出すように脇腹に触れる。ローダンスも何も鈍いわけではない。一口ずつ毒見をしてみせると、ようやく少女は安心する。パンを食んでは嬉しさに鼻を鳴らす。
「それで、なんで私を助けたの」
「何も特別なことはねえよ。民を守るのが俺達の仕事だ」
「嘘。いつから人間は慈善事業を始めたのよ」
ローダンスはやれやれといった様子で、苦笑する。
「俺の独断だ。隊の中でも意見は割れたさ。ただ、な」
「ただ、何?」
「俺にも娘がいたんだ」
いた、という言い方で、少女は察した。そして、人間はどうにも簡単に死ぬものだと欠伸をした。
「……正しくは逆なんだがな。死んだのは俺の方だ」
「…………?」
彼は自嘲気味に目を伏せる。
「この街の衛兵は、皆死んだことになっている。隣国との境界の街だ。いつ攻め落とされるか、いつ死ぬかなんて分かったもんじゃねえ。そんな街の衛兵に志願するんだ、事前に死は覚悟している。俺の墓も既に立ってるし、家族は花でも添えてるだろうさ」
少女は手を固く握り締めた。残された娘がどういう気持ちでいるのか、他の誰よりも知っているからだ。まるで自分の父を見ているかのようで、許せなかった。
「あなたは、自分が何をしているか……! 家族がどんな思いでいるのか、分かってるんですか!? 生きてるか死んでるかも分からないまま、ただ帰りを待ち続けるのがどんなに辛いか、あなたは、あなたは……!!」
彼は動じる様子もなく、ただ長い息を吐いて語り出す。
「精霊は死なない、だったな。羨ましいよ。俺達人間はな、自分の家族がいつ死ぬかも分からねえんだ。愛する家族が殺されるくらいなら、家族を守って死ぬのが人間の美学ってやつなんだよ」
少女にその、人間の美学などというものは分からなかった。つい言い返そうとしたところでナデシコの言葉を思い出す。『人間に深入りすると、精霊は本当に死ぬんだって』。頭に上っていた血が胸に降りてきて、少女の中でひとつの答えが見つかった。
「そう、そっか、そういうこと。あなたは自分が死ぬのが怖いから、死なない私を味方に付けたかったんだ。これまで色んな人間に会ってきたけど、あなたほど賢い人間は初めてよ」
ローダンスは何を言うこともなく、少女も何も思うことはなく、ただ「美味しかったわ、ありがとう」と言って立ち去った。
ドアを開けた先で、少女は妙な違和感に包まれる。真昼間だというのに大通りに人もなく、猫の一匹も見当たらなかった。民家から一切の音がせず、まるで街から人が消えたかのようだった。そこはかとなく不安になって、街中を歩いてみるが、どこも同じだった。
「精霊シオン、同行を願いたい」
路地裏から不意に現れた男に、少女は既視感を覚えた。紛れもなく、昨夜の追手だった。
「どこで私の名前を聞いたのか知らないけど、お断りよ」
「魔法は使うな。人質が死ぬぞ」
少女が手のひらを向けると、男が制止する。
ぞろぞろと現れ少女を包囲する男達が、縄に縛り付けられたそれを見せつける。色白の肌に真っ白な服。そして、背中から生えた大きな羽が力なく垂れ下がっていた。
それは少女らが「天使」と呼ぶ存在だった。
「天使……!? どうして、天使が人間界に」
少女は息を呑んだ。