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君と蜜月、逃避行

 あぁ、そうだとも。僕は歓喜した。

 数年来変わることのないあいつの笑顔、つまりは僕の携帯の待ち受けに、ぽこんと浮かんだその通知。見るや否や、財布をひっ掴み家を出たのは言うまでもなく。月極駐車場で無駄金を貪るばかりだった軽自動車を走らせる。


 ◇◆◇


 思えば、あいつからの連絡はいつぶりだろう。数年かけてスマホの画面一つ埋められないトーク履歴には、僕のメッセージとその脇に添えられる既読の表示だけが羅列されていた。唯一色の違う彼女からのメッセージは、去年に貰った「送って」というたったの三文字。

 今はそれに、「会いたい」という四文字が増えている。何ものにも代えがたい四文字だ。その四文字があるだけで、僕の胸の内からはほくほくとした熱がこみ上げる。

 その熱に浮かされるように、コンビニに車を停めた僕は彼女の待つ安アパートへと走っていた。店の看板や車のヘッドライトのうるさい夜道、まばらな人影が僕を奇異の視線で捉えるも、すぐに背後へ流れて消える。


「着いた……」


 大通りから外れて薄暗い、しみったれた路地に、彼女のアパートはあった。普段は排気ガスに黒ずんで見えたはずなのだが、今はただ、まばらな窓の光が自己主張をするばかり。その中に、閉め切られた空色のカーテンが一つ。


 あいつの部屋だった。


「変わらないな」


 何故だかもう再会したような気になって、笑みが漏れる。その息の白さを見て、思わず身をぶるりと震わした。忘れていた十二月の寒さに背を押されるようにして、僕は外付けの階段を上っていく。


 かつん、かつんと鳴る足音。


 どくん、どくんと鳴る心音。


 彼女の部屋のドアの前、インターホンを押そうと手を上げて、止める。

 なんと言えばいいだろうか。我ながらしょうもないが、あいつの前では見栄を張りたい。気の利いた言葉を言いたいんだけど。


「どうせ、言わせちゃもらえないか」


 そして、インターホンを押すのでなく、ドアをノックする。


「菜月ー、来たぞー?」


 がちゃり。

 言った途端にドアが開く。おかげで、外開きの玄関ドアにビンタを食らうところだった。


「夜遅くにうるさい」

「相変わらず手厳しいな。むしろ、早いって褒めてくれるかと思ったのに」

「は?」


 玄関を開けてくれた『あいつ』は、菜月は、あからさまに眉間にしわを寄せて僕を迎える。剣呑とした態度とは裏腹に、肩にかかるしっとりと黒い髪、もこもことした部屋着が女の子らしい。贔屓目に見たって、久しぶりに会う菜月は可愛かった。


「とりあえず、入んなよ」

「それじゃ、お言葉に甘えて」


 半身を引く彼女にわざとらしく。彼女が今年の春にこっちに越してきてから、初めて部屋に上がる。玄関には、見覚えのないショートブーツ。


「こういうの、嫌いだったんじゃないのか?」

「別にいいでしょ。あたしももう、大学生ってだけ」

「成長が見えて嬉しいよ」

「あっそ」


 彼女は素っ気なく僕の横をすり抜けて、リビングへと入っていった。

 高校生であった去年などは、動きにくいからヒールのついた靴は履かないと言い張っていた、らしい。中高と陸上部で、お洒落など知らないといった様子のスポーツウーマン。それが過去の菜月。

 その経験で培われた、カモシカじみてしなやかな脚だったりは今でも変わってないのだろうが。ショートブーツを履く今の彼女は、その身長も相まって、きっとモデルか何かのように見えるに違いない。彼女の後ろについて入ったリビング、その片隅で確かに存在を主張する化粧台が、それを予感させた。

 外からも見えた、空色のカーテンを基調とする、さわやかでパステルな色合い。やけに掃除の行き届いているらしく、まるでドールハウスのようにも感じる。手狭な部屋であるのが拍車をかけていた。その真ん中、小さくちょこんとした丸机の向こうに彼女は座っていて、僕も座れと手で示す。


「いい部屋だな」

「うるさい。あんたに見せたかったんじゃない」


 言ってから、彼女はバツが悪そうに口を開いて、結局何も言わずそっぽを向いた。彼女が何も言わないならと、僕も何も言わずにどっかり座り込む。そして、話題を変えた。


「で、俺は何で呼ばれたんだ?」

「……」


 彼女はそっぽを向いたまま、髪先を弄っていた。けれどよく見れば、その視線はわずかに動き。向かう先は棚の上、伏せられた写真立て。


「お前は俺を嫌いなのかもしれないけど、流石にそこは話してくれよ」

「飲み物、取ってくる」


 菜月は、いやに乱暴に立ち上がった。僕の横をすっと抜けて、彼女はカウンターを一個挟んだだけのキッチンへと入っていく。壁に掛けられたフライパンの端がチラリと見えている。


 あぁ、やはり菜月は変わってしまったのだと、食器棚に向かう彼女の背中を見て思う。


「彼氏、作ったんだな」


 ティーカップに伸ばされた手が、ぴくりと止まる。


「そうよ、いちゃいけない?」

「いや……いや、いけなくないよな」

「でしょ」


 彼女の言葉が震えたのは、その一瞬だけだった。

 手早くカップとティーバッグを用意して、電気ケトルに沸かしてあったらしいお湯を注ぐ。かちゃんと音を立てて、僕の前に温かな紅茶が置かれた。ソーサーに紅茶が少し溢れた。

 ありがとう、そう言って紅茶をすする。特に返事もなく。そのまま僕の向かいに座りなおすかと思われた菜月は、自分の分の紅茶だけ机に置いて、あの写真立ての伏せられた棚へ。


「ほら、これが私の彼氏」


 そう言って、彼女は写真立てを立てた。でも、その彼氏とかいう人間は僕の目には入らなかった。

 だって、僕にとって重要なのは、しばらく見ていない彼女の表情。滅多に笑って見せない菜月が、控えめに、でも幸せそうに微笑んでいること。

 写真越しにしかそれを見れない自分が情けなくて、恨めしかった。


「ん、あぁ、かっこいいんじゃないか?」


 紅茶の温もりに気が緩んでいたのか、僕は気づけば本音で、どうでもいいような口調で答えていた。

 ……しまった。

 恐る恐る彼女の顔を伺う。その時。


 ぶぶぶっ、ぶぶぶっ――


「携帯……!」

「携帯?」


 あぁ、そうか。スマホのバイブレーションか。

 しかし、どこで鳴っているのだろう。何故か焦った様子の菜月の視線をたどる。

 机の上には置かれていない。コンセントに刺さっているわけでもない。音が鳴っているのは、くずかごの中だった。何となしに手を伸ばす。


「待って!」


 菜月の制止の声。だからこそ、僕はくずかごを引き寄せて、スマホを取った。

 くずかごにはスマホだけが入っていて、液晶には『明人あきと』という名前。


「彼氏、なんて言うんだ」

「……あきと」

「電話、出るか?」

「いい、切ってよ」


 今度こそ菜月の言葉に従って、僕は電話を切った。切ると、明人からのたくさんの通知が見えた。さも見なかったかのように、菜月に放る。

 菜月はそれを受け取るなり、くずかごに投げ入れようとして。結局やめた。僕のそばまで来て、くずかごの底にそっと戻す。


「今時のスマホケースはおっきいんだな」

「そんなわけないでしょ。ゴミ箱はゴミ箱」

「じゃあ、ゴミなのか?」


 彼女の目をまっすぐに捉えて問いかける。視線はすぐに外された。


「……ねぇ、兄貴」

「なんだ?」

「ひとつだけ、お願い聞いて……?」

「いいぞ、妹の頼みを聞くのがお兄ちゃんだ」


 猫なで声。いつか一度だけ見た僕の妹が、そこにいた。

 ぺたんと僕の隣に腰を下ろして、床についていた僕の腕、その手首に両手を添える。さっきまで紅茶のカップを持っていたとは思えないほど冷たい。


「私、別れたの。……笑ってよ、振られちゃった」

「そうか」

「だからね。付き合おう? 漫画やドラマみたいに私を連れ去ってほしい。忘れさせてほしい」

「……実家じゃダメなのか」

「ダメ。お母さんに会いたくない」

「ただ連れ出すんじゃダメなのか」

「私、クリスマスまで、二週間くらいはここに帰りたくないの。二週間も彼氏じゃない男といるなんてムリ」


 彼女の瞳が、真っ直ぐに僕の瞳を覗き込んでいた。そのままこの心の中まで見透かされるのではないかと思うと、焦る。うじうじとしたせめぎ合いを見透かされるのではと。


「でも俺たちは、兄妹じゃないか」

「それがどうしたの?」


 ぴしゃりと食い気味に返ってきた菜月の言葉に、僕は言葉を失った。

 まるで、僕の返事を知っていたとばかり。僕がそれ以外、否定を持たないことを。むしろ、僕が――


「それがどうしたの、治樹はるき


 心臓が跳ねる。肩に置かれる手。彼女の髪が頬をくすぐり、フローラルな香り。耳元で菜月が囁く。


「私のことを愛してるなら、それでいいでしょ」


 決定的だった。彼女は僕の気持ちを知っている。知っていた。

 僕を置き去りに、彼女は僕の耳に寄せていた顔を離す。


「だから、さ。私を素敵なハネムーンに、連れてってよ」


 菜月の頰を一筋の涙が伝う。きっと、自分ですら気づいていない。控えめで、そして薄皮一枚のほほ笑みの上。だからこそ、嫌でも僕は気づいてしまう。


 これは甘やかな蜜月の誘いなんかじゃない。押しつぶされた彼女の逃避行、その入り口なのだと。

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