ポンコツホームズは解りたい
高校最初の夏休みだというのに、俺、刑部民人は、警察署なんぞに呼び出されていた。
「ミント! 来てくれたのね!」
留置所の面会室、分厚いアクリルガラスの向こうで、場に不釣り合いな屈託のない笑顔を浮かべる同い年の美少女──倉下和香を見て、思わず憂鬱になる。
こいつが絡むとロクなことがない。
それが俺の経験則だ。
和香が呼んだミントとは、幼馴染の彼女だけが使う俺の呼称であって、決して望んで呼んでもらっている訳じゃない。
しかし、こいつは何故そんなに笑顔でいられるんだ。留置所だぞ。面会室だぞ。
向こう側で長い髪を揺らしながら笑う和香をあらためて見て、頭痛を覚えた。
「呼ばれたから来た。それだけ」
「まあまあ、照れなくていいから」
照れてはいない。アクリルガラスの向こうの和香とこちら側では、明らかにテンションの差があった。和香はそれをまったく理解していない。いや、理解した上でやっているのかもしれないが。
「……来たくは無かったんだけどなぁ」
留置所なんて尚更ごめんだ、と内心でごちて、思わずしかめっ面になる。
「お前さ、何度目だよ」
「んー、三度めかなぁ」
「回数だけなら立派な常習犯だな、それ」
「へへ」
せめてもの文句に、厚いガラスの向こうの和香は、にへらっと緩く笑う。
この倉下和香、根っからのシャーロキアン(シャーロック・ホームズマニア)である。それが高じて、いやこじらせて、今では高校生探偵などと嘯いている、とっても痛い奴なのだ。
「──で、今度は誰をストーキングしたんだ?」
「んー、いかにも怪しいオジさま?」
質問に疑問形で答える和香は、くりんと可愛らしく顔を傾ける。
こいつは、正確にはストーカーではない。が、尾行癖がある。
怪しそうな人物を見つけると、色々と確かめずにはいられないらしい。
「そうしてりゃ、ちっとは可愛いのになぁ……」
「ん? 何かな何かな?」
「何でもない」
「えー、確かに今、可愛いって聞こえたんだけど。空耳かな?」
厚いアクリルガラスに空けられた小さな穴の群れに、口元を緩ませた和香は耳を寄せる。
──こいつ、調子に乗ってるな?
ちょいちょいと手招きしてさらに引き寄せて、俺もアクリルガラスに顔を寄せる。
すると、さらに顔を近づけた和香の口元の緩みも、俄然だらしなさを増した。
さて、お仕置き第一弾。
「──たぁっ!」
「わひゃっ!?」
ほとんどガラスに口をつけて叫んでやった。耳を寄せていた和香は弾かれるように仰け反り、がたたとパイプ椅子を鳴らす。
「も、もう……びっくりさせないでよっ」
「お前が調子に乗ってるからだ」
目の前にガラスの仕切りが無ければ、この腐れ縁の女子にデコピンのひとつでも食らわせていたのだが。
しかしその願望は、思わぬ形で実現する。
「何事かな?」
ガラスの向こう、和香がいる側の厚いドアが空き、制服姿の警察官が入ってきた。
俺の親父──刑部奉行。この柿田川署の署長にして、今回俺を呼び出した張本人である。
「おお、来たか民人」
「来たかじゃないよ。なんでこのアホは留置所にいるんだよ」
「和香くんたっての希望でね。犯人の気持ちを知りたいらしい」
留置所に入ったからって犯人の気持ちなんて解るかよ。せいぜい解るのは留置所の居心地くらいなものだ。
「親父、俺の代わりにデコピンしといて」
「分かった、三発でいいか?」
「え、三発……?」
あ。和香の顔が固まった。面白え。
言ってみるものだな。だが三発では生温い。
「五発」
「まあ、妥当な線だな。ということで和香くん」
「いやぁあああああ」
ガラス越しの親子のラリーを顔を振りながら聞いていた和香は、声を張り上げた。
「ちょ、ひどくない!? 五発は多くない!?」
小さな頃から和香を知っている親父は、胸元の月桂樹で囲まれた桜の代紋を光らせながら、和香へと歩み寄った。
小さい頃は、探偵ごっこと称して危ないことをしては、二人でよくデコピンを食らったものだ。
そのデコピンの痛さを知る和香はといえば、パイプ椅子を鳴らしながら、少しでも親父から遠ざかろうとしている。端正な顔は崩れ、既に涙目だ。
俺の親父、奉行は、じりじり距離を詰めながら、怯える和香に笑顔で諭す。
「和香くん。今回君がストーキングした人物、説明したはずだよな」
「は、はい……容疑者を尾行中の、私服警官さん……」
身を縮こまらせて俯き加減で答える和香に、思わず天井を仰ぐ。
「うわぁ、一番ダメなやつだ」
「だ、だって……怪しかったんだもん」
和香の目から怪しく見えたなら、その私服警官の尾行が下手なのだが、今の論点はそこには無い。
「しかし、やったことは立派な捜査妨害なんだよ。それに、ものすごく危険な行為でもある」
「……はい」
「だから、五発だ」
親父の右手が、影絵のキツネのように形作られた。が、これから行われる行為は、そんな可愛らしいものではない。
れっきとした、罰だ。
和香の叫びは、留置所内に響き渡った──
──西日に照らされて歩く帰り道。未だ涙目の和香は、自身のおでこをさすっている。
「うう、ひどいよぉ」
「ひどいのはどっちだ。お前のしたことは、公務執行妨害だぞ」
「だぁってさ、明らかに怪しいスーツの男が、電柱から電柱へ走ってたんだよ」
和香は不可抗力だと訴えかけるが、そんな台詞は聞き飽きている。
というか、明らかに怪しい男なら、まず関わらなければいいのだ。それを何故追い掛ける。何故わざわざ危険に近づくのだ。
さっぱり分からない。
隣を歩く和香は、コンパクトを取り出して前髪を上げ、しきりに額を確かめる。
「おでこ、割れてないかな」
「デコピンで割れるかよ」
「わかんないよー、ほら、ピスタチオみたいにさ、パカって割れて、中から脳みそ──へげっ!?」
側頭部に軽い手刀を食らわせると、和香は美少女らしからぬ啼き声を発した。
「はいストップ。街中でスプラッタな話はやめてください」
「ぶーぶー」
「ぶーぶーいうな」
「ぎゃーきゃー」
「ぎゃーきゃーいうなっ」
明らかな不満顔の和香は、頬を膨らませて唇を尖らせる。その幾度見たことか分からない顔に辟易する。
「とにかくだ。警察は税金で動いてるんだ。それを邪魔するってことは、税金を無駄遣いさせてるのと同じだぞ」
「わ、わかってるわよ」
「いーや、わかってない」
意図的に足を速めると、遅れまいと和香も追随してくる。歩くペースを気にしないのは、本気で俺が怒っている証拠だということを、和香は知っている。
実際は怒りよりも心配が大きいのは、内緒にしておくとして。
「な、なによ。今日はやけに厳しいわね……」
「ああ、今日という今日は、呆れ果てた。もう金輪際、面倒事を持ち込まないでくれ」
さらに説教を続けながら歩を速める。
「だいたいだな、お前は危なっかしいんだよ。この前だってトラック……あれ、和香?」
横に和香がいない事に気づいて振り返った、その視線の先。
和香は、街路樹を見上げていた。
「はあ、今度は何だ」
「ネコがいる、木の上に」
「いても不思議じゃないだろ」
「でも、ほら」
和香が指差す方向に眼を凝らす。ああ、そういうことか。
「仔猫だな。しかも、まだ生まれて間もない仔猫が三匹、か」
「これ、明らかに誰かが仔猫を木の上に置いたんだよ、わざと」
まあ、それは見れば分かる。だが。
「何のために──あ」
気づいた時には手遅れだった。
何処から取り出したのか、和香はキャスケットを被っていた。
これは、こいつが推理する時のスタイルだ。以前、理由を聞いた時、
──探偵にはホームズみたいな帽子が必要でしょ?
と言われた時には、形から入るタイプの和香らしい答えだと妙に納得してしまった。
「仔猫を木の上にあげる理由……むむむ」
むむむは言わなくていい、と突っ込みたいのをじっと我慢して、和香の思考の終わりを待つ。
推理?
こいつのはそんなに上等なものじゃない。
なんなら雑考、愚考でもいいくらいだ。
まあ、考える横顔は、それなりに様になっているけど。
おっと、俺も考えてみよう。
仔猫を街路樹の上にあげて、得する人。
いや。そもそもなぜ仔猫なんだ。なぜ街路樹なんだ。
地上から木の枝までの高さは、およそ二メートル。大人なら手が届く。
視線を下に向ける。
ああ、そういうこ──
「わかったよ!」
まるで、頭の上に電球でも見えそうなくらい、ヒラメキ顔の和香。ヒラメキ顔ってなんだ。
「では、探偵、倉下和香が、この事件を解き明かしてご覧にいれましょう」
和香は高らかに宣言する。てかおい、向こうのサラリーマンがこっち見てるぞ。あっちのカップルは指差して笑ってるし。
恥ずかしい。だが、一応聞いてやるか。
──絶対に違うけどな。