栗山侑と『--・--/・-・-・/----/・・/・・-/』
現実からかけ離れたボーイ・ミーツ・ガールを期待している方がいる。しかし、残念ながらそれは幻想に過ぎない。
僕、栗山侑の半生の中で、女の子が血まみれで倒れているのを発見したことや何かしらの抗争に巻き込まれたこともない。ましてや、異世界に行ったこともない。
現実はゲロまみれで寝ている中年男性に出会い、両親の喧嘩に巻き込まれ、三重県伊勢市に友人と旅行し、海鮮料理を食べただけである。
したがって、僕が衝撃的な出会いをすることを期待しない方が身のためだ。「期待はずれ」と言われても、勝手に期待した方が悪いとしか言えない。むしろ、僕に何を期待しているのか。勝手にショックを受けていろ、としか言いようがない。
人の心は刺激的なボーイ・ミーツ・ガールを望んでいる。理由は単なる現実逃避か。答えは分からないが、少なくともそれなのだろう。しかし、現実は残酷だ。そういう劇的な出会いはない。
しかし、感情が揺れ動く男女間の出会いは星の数ほどあるのは、あなたも分かっているはずだ。
*
5月14日午前10時10分。創造志学大学C棟二階322教室の扉を開ける。授業まで30分ほどの猶予があるからだろうか。教室の中には誰もいない。僕はすぐ近くにある電気のスイッチをオンにし、前から三番目の中央の席に座る。着席すると、手に持っていた手提げ袋を机の真下の床に置いた。
「なんだ? これは?」
ホワイトボードには、黒い線と点が規則正しく記されていた。線の太さや長さ、点の大きさ、点や線の間隔……。全てを機械が書いたと言ってもいいほど、丁寧に美しく描かれていた。
点と線がある程度、組み合わさると、青い斜線が点や線の間に挿入されていた。何かと何かを示すために使われた区切りであることを把握するのに、時間がかからなかった。これは手の込んだイタズラではない。何かを伝えるために、書かれたものだ。
「暗号か。でも、誰が書いたんだろう」
腕を組み、ホワイトボードに書いてある点と線を観察する。暗号は三行に分かれていた。
一行目は「・・・-/--・/・--/-・・-/-・・--/・・-/・」と記されている。
二行目は『--・--/・-・/-・/-・・・/--・--/・-・・・/・-/・・-・・/--・』と長めに記されている。一行目の冒頭に二行目の行頭が合わせられていた。
三行目は『・-・・・/・・-・・/-・-』と記されている。二行目の文末に三行目の文末を合わせていた。
英語でもなければ、言葉でもない。しかし、意味がある。首を傾げたり、顎を手に触れたりして、思慮にふける。考えれば考えるほど、謎は深まるばかりだ。
「分からないなぁ」
思わず呟いた。しかし、内心はよくできた暗号だ。作った人は誰なんだろう、と感心してしまっている。
時計の針が少しだけ進んだときだ。時計の針が進む音と同時に、耳をつんざく電子音が聞こえた。
「この音は?」
野太い音は僕に向かってまっすぐ飛んできた。点のようにすぐに途切れる音と線のように少しだけ長く響き続ける音がランダムに耳に届く。途中、途切れたかと思いきや、すぐさま似たような音が聞こえた。
これはただの音ではない。何かを暗示しているように思えた。
どこから聞こえるのだろうか。辺りを見渡すが、手かがりがない。
しばらくすると、暗号のような電子音が途切れた。
「音は止まったか……」
ほっと一息つく。その直後、目の前が真っ暗になった。
特殊能力が発動した。次に見る景色は自分自身の特殊能力によって、再現された過去となる。
少しすると、照明の電源がついたように周りが見えるようになる。同じ教室だが、ホワイトボードの前の様子が変わっていた。
同い年の女性が栗色のウェーブのかかった長髪を揺らし、ホワイトボードに何かを書いていた。身長は僕より10センチほど低い。
高嶺の華と言われそうなスレンダーな女性だと思ったが、どこかおかしい。
白い服に黒いズボンと、大人しそうな雰囲気を醸し出しているが、陽気な口笛を吹いていた。僕は彼女のギャップに対し、苦笑いしてしまう。見た目に反して、かなり可愛らしい部分はあるらしい。
華奢な左手にはペンを持っていた。彼女はそのペンを滑らせ、点と線を描いた。狂いのないように、ゆっくりと書いているようだ。
三行目まで書き終えると、黒いペンを青いペンに持ち変える。点と線のまとまりごとに斜線を引いた。
全て引き終わると、青いペンをペン受けに置いた。
彼女は数回ほど、深呼吸をした。それに連動するように肩が上下する。呼吸が整うと、絹のような綺麗な髪をふわりと浮かしこちらに向こうとした。
しかし、音も光も出さずに、一瞬で女性の姿が消える。同時に、身体が少し暖かくなった。
「侑君。後ろを向いて」
透き通った声が背後から聞こえた。
「うわっ! なんだ!?」
部屋に響くほどの大声を出し、振り向く。
後ろの机の向こう側に、特殊能力で視た過去と同じ女性が一枚の小さな紙を持っていた。白い紙には、マジックで能力遮断と書いてあった。
まさか、特殊能力で視た過去に出てきた少女に早くから出会えるとは。
最初は驚いたが、だんだんそれが疑問に変わってくる。なぜ彼女は僕を栗山君ではなく、侑君と呼んだのだろうか。
「君は?」
疑問を解決したい。その一心で、名前を尋ねた。恥ずかしさといった感情はなかった。
「私は音羽詩生」
僕は詩生のことを知っているようで知らない。名前の響きはどこかで聞いたことがある。しかし、本当にこの名前なのか、それとも、別の名前かはわからない。しかし、記憶の片隅にある。
「もしかして、この暗号を書いたのも、僕の能力を封じたのも君なのか?」
「正解。全部、私がやった」
あっさり、認めるとは。これで「誰が」と「何を」が判明した。しかし、これが僕に向けたものとは限らない。
「あの暗号は誰に解いてもらいたい?」
「侑君に解いてほしい」
「どうして、僕に?」
僕の能力は事実を視ることはできるが、その意図は視ることができない。ゆえに、根掘り深く尋ねる必要がある。少なくとも、僕と詩生は何かしらの関係があると思われる。おそらく、過去にどこかで出会ったかもしれない。
「ホワイトボードに書いてある暗号を解読すれば分かる」
そう言うと、詩生は僕の右横を通り抜ける。彼女の身体から薄荷の香りが漂っていた。その匂いは僕の身体をほのかに暖かくするのに、十分なインパクトだった。これが恋の芽生えだろうか。
暗号が書いてあるホワイトボードの中央に立つ。
「一体、何を?」
僕の問いかけを詩生は無視した。黙ったまま、彼女はペンを持ち、暗号文を黒い四角形で囲った。その中を左手の薬指で2回ほど叩くと、白い紙がひらりと床に落ちた。どうやら、彼女は書いたものを現実にできる能力を持っているらしい。
詩生は膝を曲げる。彼女の姿は教卓の中に消えた。しばらくすると、太陽が昇るように少女が現れ、白い紙を教卓の上に置いた。
ホワイトボード消しを掴み、大きく手を振りながら暗号文を消す。
ペンに持ち替え、白いキャンパスに細長い封筒を描く。その中に『茶』という文字を書いた。そして、封筒の絵を左の薬指で2回ほど叩くと、茶色の封筒が床に向かって落下する。
詩生はそれを右手で受け止めると、教卓に置いた。再び、ホワイトボードに描かれた絵を消した。
その後、卓上に置かれていた白い紙を三つ折りにし、茶封筒に大事そうに入れた。そして、丁寧に口を閉じる。さらに、黒いズボンのポケットに挟んであった黒いボールペンを取り出した。ペンのノックパーツを押し、ペンの芯を出す。
封筒を裏返し、何かを書く。そして、ペンを元の状態に戻し、ズボンのポケットに挟んだ。
完成した封筒を両手に持ち、詩生は僕に近づく。
詩生との距離が数十センチになると、心臓がドクンと音を立てた。そして、鼓動が細かく刻まれていく。僕は彼女に惹かれてしまいそうになる。
「二週間後、午前十時にこの教室で」
彼女は封筒を僕の胸に突き出した。封筒の右上には、「暗号文 於創造志学大学322教室」、中央には、「封じ手」と記されていた。
僕は一回、うなずいてから受け取る。詩生は太陽のような笑みを浮かべたあと、この教室から出て行った。一体、彼女はなぜ、あのようなことをしたのだろうか。
この教室にいるのは僕だけだ。二週間後の午前十時。詩生の問いにどんな答えを出すのだろうか。




