フタリ
「セミナーをやめたいって、本当なの?」
「ええ、まあ……。」
「何か新しい悩みがあったの?良ければ聞くけど…。」
「でも、他人の畑に何とやら、ですよね?」
「うっ…。でも、私も関係してるんでしょ?それ。」
帰り際だった。瑠花さんは地獄耳というか、第六感と言うべきか、僕の心中を見透かしてくる。
「一つ聞きたいんですけど、」
僕は思いきって切り出した。
「瑠花さんはどうして僕に優しくするんですか?」
「えっ?」
「僕を助けてくれた時から、ずっと!もし、その慈愛が信仰心なら、謝ります。でも、本当にそれだけなのか知りたい。僕はあなたにとって''良き隣人''なだけなんですか?」
静寂の中、冷たい風が吹き抜けた。
心臓が激しく鳴る。もう後には戻れない。
「丸子くん、やっぱりバイブルを読み込んでないのね。第372章は覚えていない?」
「72章……。汝の見えうる…」
「それは52章よ。今すぐ家に帰って復習しなくちゃ。72章。私は買い物あるから、それじゃあ。」
瑠花さんは風のように去っていった。
72章、72章、72章………
僕は心の中で呟きながら、足早に家に駆け込み、バイブルをめくった。
「72章 汝が異物に与えようとするものは、同時に汝が欲するものなのである。」
僕は衝動的にスマホを掴み、瑠花さんに電話をかけた。
「る、瑠花さん!あの………。」
「いいの。いいの。私のせい。本能のままに、丸子くんに慈愛をあげて、貰おうとしていたのかもしれない。背徳的だと分かっていたのに。」
電話の相手は、まるで瑠花さんじゃないような、かすれた小さな声だった。
「私も、日常の辛さや、苦しさをセミナーで晴らそうとしたの。そこでバイブルや神父の言葉、そして丸子くんに私は救われた。なのに、裏切りだよね。私は、無意識のうちに丸子くんを誑かしてしまった。新しい苦悩を与えてしまった。」
「もう、十分です。」
僕は続きをさえぎった。電話の向こうからすすり泣く声が漏れ聞こえる。
「瑠花さんは、僕にたくさんのものを与えてくれました。正直、嬉しかったです。悩んだのも、僕が……僕自身が人間として瑠花さんが好きだから。それだけなんです。」
「そう………。」
細い、しかし吹っ切れたような声。少しの沈黙。
「私、どこか遠くに行こうと思う。しがらみも、何もかも捨てて、バイブルを携えて。そしたら、一緒に異物をやめてくれる?」