.8 黄昏の魔女
……勇敢な少年アレブは逆さ吊りになっていた。
魔女の小屋の裏手には罠が仕掛けてあったのだ。頑丈な蔓にひっかけた足を取られ、しなった枝の力で彼は宙に持ち上げられていた。
「ああもう、まぬけ! 僕は罠に掛かり過ぎだ! ウサギじゃあるまいに!」
アレブは自身に対して文句を言った。
「蔓のおばけ!? それとも、ヘビのおばけ!?」
メーニャは茂みから出てこない。
「だから罠だって! メーニャ。僕の剣をそっちに落とすから、それで蔓を切ってくれ!」
宙でもがく王子様。
メーニャがおっかなびっくり茂みから出てくる。アレブは腰から剣を落とす。
「さあ、メーニャ。お願いだよ。頭に血が上ってしまいそうだ」
地面に落ちた剣に手を伸ばすメーニャ。
「誰かしら? あなたたちは」
メーニャの手が止まる。舌を巻くような奇妙な声色。
ふたりは声のしたほうを見た。ぼろで頭から身体をすっぽり覆い隠した人物。
「魔女だ……」
宙吊りの少年のうしろへ隠れるメーニャ。
「メーニャ!」
少年が小声で促す。娘は慌てて蔓を切る。少年の靴が確かな感触を取り戻した。
「何をしに来たの? あなたたちは誰?」
魔女が再び訊ねる。
「あ、あの。魔女さん。私たちは教えて欲しい事があって来ました」
メーニャが前へ出ようとするも、アレブがそれを阻む。彼は何故か剣を構えていた。
「ちょっと、アレブ! 占ってもらうんでしょ。武器なんて構えたら喧嘩になっちゃうよ!」
「彼女、服の下に何か持っている。多分、武器だ」
アレブは魔女を見据える。
「鋭いわねえ」
そういうと魔女は服の下からナイフを見せた。
「僕たちをどうするつもりだ?」
少年の問いかけ。
「質問していたのはこっちのほうなんだけど。私はただ、罠に掛かった獣にとどめ刺そうと思って出て来ただけ。でも、なんだか人の声がするから、押し込みか何かだと思ったのよ」
魔女は服をまくり上げると、腿に巻いた革のナイフ入れに刃物を戻して見せた。
「……僕はアレブ。こっちはメーニャ。彼女の言う通り、魔女に占って欲しいことがあって来たんだ」
アレブも剣を納めて言った。
「あら、お客さんなのね。それだったら、正面から訪ねて来なさいよ。わざわざ小屋の裏からやって来るなんて、それこそ獣や盗賊だと間違われても仕方がないと思うけど」
魔女は呆れ声で明後日の方角を指さす。そちらのほうは木が少なく、森が拓けている様子だった。
「すぐそこ、街道なのよ。どうして危ない森なんて通って来たのかしら」
アレブは振り返り娘を睨んだ。
「わ、私知らなかったんだよ! 自分で見つけたときの通りに進んだだけだもの!」
メーニャが弁解する。
「……賑やかなのは結構だけど、火も持たずに森をうろつくのは感心しないね。森に呑まれたら、あなたたちみたいな子供は、死ぬわよ」
零度の諫言。ぼろの中から少年と少女を見つめる魔女の黒い瞳。
オオカミの遠吠えが空を駆ける。
「子供か。言ってくれるな。あなたも、僕たちとそれほど変わらないように思えるけど」
魔女のぼろが揺れた。
「え? 何を言ってるのアレブ。魔女だよ。おばあさんに決まってるじゃない!」
「大根だな。アナグマの死んだふりでも、もう少しましな演技だ。声は若いし、さっきナイフをしまって見せたときに脚が見えた。あれは年寄りのものなんかじゃなかった」
アレブが指摘する。
「……やっぱり鋭いわね。それでいて、すけべね」
魔女はため息をつき、頭に被ったぼろ頭巾に手を掛けた。
アレブは息を呑んだ。
冬口の夕日に照らされ現れたのは、若い女性の顔だった。
整った目鼻に、陰影の映えた小麦色の肌。そして、茜をたっぷりとと受けて輝く、白銀の髪。
「美人さんだ……」
メーニャが声をあげる。
正体を現した魔女。黄昏の森に佇む女は、ふたりに妖しい薄笑いを向けた。
しばしの沈黙。刻々と陽が沈む。
「あなたは、魔女では、無いのですか?」
少年は、肺に忍び込んだ闇を吐き出すように言った。
「私は、あなたたちの思うような魔女ではないわ。でも、街の人たちが言ってる魔女は、私のこと」
彼女の地の声は、まるで木々が静かに揺れるようだ。
「でも、神樹が無くなったときから居たんだから、もうおばあさんのはずだよ!」
メーニャが疑いの声をあげる。
「そうよ。私は……七十歳に近いんじゃないかしら。いちいち数えていないけど」
女性はふたりを残して小屋のほうへ歩いて行く。
「もう暗いし、とりあえず中へ入りなさい。それと、連れてる馬も小屋に寄せておくと良いわ。火に近ければ獣は寄ってこないから」
そういうと女性は小屋の中へ入って行ってしまった。
魔女が去ると、場の空気が心もち軽くなった。
深く息をつくふたり。
「どうしよう。アレブ……」
「あの人、“魔女”には見えないな。でも、もう陽も落ちてしまったし、今晩は彼女の所に厄介になったほうが無難そうだ」
見回せば闇。森は赤を経て黒となり。街道のほうも青さを漂わせている。
「スケルス、火は大丈夫かい?」
アレブが白馬に訊ねる。
『ええ……』
スケルスは松明のそばへ寄った。
「休んでても平気じゃない?」
立ったままの白馬にメーニャが言う。
「馬は立ったままでも平気なんだよ。行こう」
街道のそば、森の中にたたずむ人の気配。
ふたりは魔女の小屋へと招かれる。
『あの人が、怖い』
残された白馬が呟いた。
***