.7 深い森
城を再び出てからというもの、アレブはずっと黙り通しだった。
彼は自分の心を持て余していた。
疑いながらも「スケルスの身の潔白を証明する」と先王へ勢いよく啖呵を切った自分へと、幻想的な話が現実と結びつき始めたことへの戸惑いが、心を夏の嵐のように激しく揺さぶっていた。
何が自分にあのようなことを言わせたのだろう。
王子であるならルーシーンの言に従うべきだったろう。自身の言ったように、友人、つまりは友情や愛情のたぐいにほだされたということか。
彼は王子だ。多くのものごとを己の意のままにする力があった。
此度の不思議の話も、ルーシーンの先王としての拒絶の発言も、自分の力でどうにかなるものだと疑いもしていない。
たとえ具体的な手段を持っていなくとも。王者は若かった。
「ねえ、アレブ。アレブったら」
少年の初めての友人が背中から呼びかける。
「ごめん。メーニャ。ちょっと考え事をしていたんだ」
手綱を握ったまま呆けていたアレブ。
「スケルスの潔白を証明するための方法を? 何か良い考えが浮かんだ?」
訊ねるメーニャ。
「いや。さっぱりだね。僕には良い考えがひとつもない」
あっさりと白状する少年。
「もう! さっきはあんなに格好良かったのに!」
少年の背中が叩かれる。
『怒らないで、メーニャ。私はこれだけでも充分感謝していますよ』
スケルスが宥めた。
「ねえ、スケルス。アレブのおばあさまが言ってた話。やっぱりあの鳥も神樹も、なんとかって人も、あなたのお知り合いなの?」
『はい。鳥には会ったことはありませんが、本当のことを言うと、私は神樹にも祭司長にも会ったことがあるのです。
彼らはかつて一緒に旅をしてこの大地に辿り着いた仲間でした。
もう百年以上昔の話ですが、神樹と会って話をしたとき、彼らは私の連れ合いを探すことを約束してくれました。
見つかれば国に引き留めておくと言ってくれたのです。
ここに戻ってきてみたら、国はすっかり変わり、神樹も祭司長も消えてしまっていて、途方に暮れていたのです。たった百年のあいだに……』
森を進む白馬の声は暗く湿っていた。
「百年といえば、人間ではすごく長い時間だ。よっぽどの長生きじゃないと生まれてから死ぬまでの丸々ある。孫の孫が居たって不思議じゃない。国が変わってしまうには、充分な時間だよ」
王子が言う。
『そうでしたね。私たちと人間では生きる時間の長さが違うのでしたね。彼がここに来ていたというのなら、百年くらいなら待っていれば良かった……』
深い嘆き。森の薄暗さと相まって、身体を芯から冷やすようだった。
「メーニャ。君には何か良い考えがないかい?」
「ある」
自信満々の返答。
「あるんだ。具体的にはどんな? 僕はどうすればいい?」
「アレブというか、私たちがどうするということじゃないかも。スケルスの身の証も、彼女の恋人の場所も知ってるかもしれない人が居るの!」
メーニャの声は弾んでいる。
「へえ、そんな人が。でも、うちのおばあさまも知っていたんだ。この国に伝わる話が本当なのだとしたら、他の年寄りにも信じている人がいても不思議じゃないな。その人は、メーニャの知り合い?」
「うーん。知り合いではないかも。でも、アレブも聞いたことのある人よ」
「僕も? 誰だろう。君のおばあちゃん?」
「おばあちゃんはお墓の下だよ! 掘り起こして聞いてもしょうがないよ! もしもしおばあちゃんー? って骨じゃん!」
ひとり芝居をするメーニャ。白馬が笑った。
「共通の知ってる人なんて、そういないからさ。それで、誰なの?」
少年の問いかけ。
娘は笑いをぴたりとやめて、おどろおどろしい口調でこう言った。
「魔女よ」
「魔女。あの国中で噂になってる? 樹や鳥や馬がしゃべったから、魔女も本当に居るって?」
アレブは馬鹿にしたような声をあげた。
「魔女はね。本当に居るの。
ええとね、本当に“魔女”なのかは分からないんだけど、街には会ったことがある人がたくさんいるんだよ。
魔女は森の中に棲んでるの。私は魔女の家を見たことがある。被り物をしていて顔は見えなかったけど、すっごく妖しい人が居たの!」
「ふうん。それで、魔女にどうしてもらうの? 魔女って危ない奴なんだろう?」
「魔女はね……」
メーニャは語り始めた。この国で噂される魔女について。
魔女。妖しい魔術や薬物をもちいり、ふつうの人間にはできないことをする者。
この国で魔女と呼ばれる女は、「かつてこの国の神樹を滅ぼした」と言われていた。そのため街から追いやられ、森に居を構え、ひっそりと暮らしているのだ。
それでも人々は、魔女の不思議な力を頼りに彼女のところを訪れているらしい。
「都合が良いな。大罪を犯したとはいえ、追い出したのは街の人だろう?」
苦々しく言うアレブ。
「そうね。でも魔女は、お金さえ払えば助けてくれるって話だよ」
魔女は多少の対価を支払えば人々の願いを叶えるという。
魔術や占いによって。そういった不思議に通じる者だ、この国の伝説や人の言葉を話す人外についても知っているかもしれない。知らなくとも占ってもらえば良い。
「占いか。占星術以外はほとんど廃れてしまってるけど」
「占いがだめでも、魔法でちょちょいのちょいとしてもらえばいいよ!」
アレブの首に唾が飛んだ。うしろではメーニャが激しく身振りを交えて熱弁を続ける。
「そんな。占いはともかく、魔法なんてないよ。魔術だって形だけのものさ」
「魔女は樹を大きくしたり、空まで届くほどの火柱を出したり、地震を起こしたりできるのよ! 魔女はすごいの! 大自然の使いなのよ! 私、憧れてるんだ!」
娘は引き続き風を立てている。
「それはもう嘘じゃないの。本当にそんなことができたら……」
ため息をつくアレブ。
「できたら?」
「おっかないよ。だいたい、そんな力、何に使うんだよ」
「それもそうだね。……ねえ、スケルスは何か魔法は使えないの?」
白馬に訊ねる少女。
『魔法……というものがどういうものか分かりませんが、
この大地のことわりから大きく外れたことはいくつかできるかもしれません。
私は長生きですし、人でないのに人の言葉が分かりますから。これは魔法みたいなものではありませんか?
それと、樹を大きくするのも、場合によってはできるかもしれません。かつての神樹ほど立派にはできませんが』
自信なさげな回答だったが、幻想好きの少女は嬉しそうな声をあげた。
「本当!? じゃあ今度、うちにアンズの樹を生やしてもらおうかしら! 毎日おいしいアンズが食べられたら、私、幸せだなあ……」
涎をすする湿った音。
「メーニャは食い意地が張ってるなあ。魔法って、もっとこう厳粛で、便利だけど恐ろしくって……心に響くものじゃないと」
少年が文句を言う。
「だったらいいじゃん。アンズは心に響くよ。ケーキもジャムも作れるし、飲み物だって作れて便利。食べ過ぎてお腹を壊すから恐ろしいし!」
「厳粛は?」
「私は厳粛にアンズを頂きます」
メーニャは声を低く、静かに言った。
「なんだよそれ」
少年が笑う。白馬も笑った。
話をしているうちに、メーニャの小屋がある広場に着いた。
「ちょっと、荷物取ってくるね!」
そういうとメーニャは小屋へと駆けて行き、しばらくしてから戻って来た。麻のカバンを下げている。
「お弁当とか持ってきた。ここからは歩きが良いな。私、道案内できるけど、スケルスに乗ってるといつもと景色が違って、迷子になっちゃいそうで」
ふたりは白馬から降りた。
メーニャを先頭に、一行は再び森へと足を踏み入れる。
「楽しみだなあ。魔女に会うの。ひとりだとおっかなくって、お話できなかったんだ!」
「そんなに魔女が好きなのか」
少年は森の奥を見る。魔女が棲むとされる森。
深い森。枝が方々に伸び、低いものは通行者の顔を叩こうとし、草は足を絡めとろうとした。
遠くのほうで、あるいは近く頭上で、名前も知らない鳥がぎいぎいと声を立てる。
「ずいぶん険しいな。僕が迷ったときより酷い。歩きづらくってしょうがない」
「私も、危ないからあまりこっちには来ないの」
「もしかして、獣のたぐいもでるの?」
――ガサリと物音。
少年は剣の柄に手を掛ける。
「大丈夫だよ。狩りをする動物は音を立てない。きっとウサギが驚いて逃げただけじゃないかな」
娘が振り返り、小声で言った。
「そうか。ならいいんだけど。まあ、オオカミなら群れるか」
少年は柄から手を離す。
「うん。それにそういうのはこのあたりには少ないから。私が危ないって言ってるのは、動物じゃなくって、黒いおばけのこと」
先を歩く娘が、身震いひとつ。
「おばけ? そんなもの……」
「きゃーーっ!」
娘の悲鳴。王子の手が剣をすらりと抜く。
「どうした!? オオカミか!? はぐれがでたか!?」
あたりを見回すアレブ。へたり込む娘の前に出る。
鼻を鳴らすが、特に獣のにおいはしない。何かが動く物音も。
「あ、あれ……」
娘の指さす土の上には「ひも状の物体」があった。
枝色の身体に、草の蔓とは違った滑らかさ。動いている様子もなく、顔は草むらに突っ込んでいて見えない。
「なんだヘビか。メーニャはヘビが怖いの? お城にだってたまに入ってくるよ。森に住んでいたら毎日見るんじゃないの?」
「毒があるよ! 噛まれると死んじゃうかも!」
「それもそうか。危ないから刺しておこう」
やいばを下に向けるアレブ。
「あっ、待って。殺さないであげて。食べるわけでもないのに殺すのは、いけないよ」
腰を抜かしたままの娘が言う。
「でも、ヘビは見境なく人を襲うやつも多いからな。跨ぐときにがぶりとやられちゃ、かなわないよ」
柄を握り直す。
「だめ! やめてあげて!」
下のほうから威勢の良い声。
「分かったよ。追っ払うから、少し離れてて」
アレブはため息をつくと、剣の切っ先でヘビを何度か突っついた。
ヘビはそれまで微動だにしていなかったが、急な鋭い刺激に驚き、草を鳴らして茂みの奥へと飲まれて行った。
『メーニャは優しいのですね』
スケルスが言う。
「でしょ。でも驚いた。最近寒くなったし、もうみんな冬眠したものだと思ってたから」
「そんなことじゃ、森では暮らしていけないと思うけど」
アレブはメーニャに手を貸し、立たせてやった。
彼女は相当驚いていたようで、生まれたての子馬のような頼りない足つきだった。罠に掛かったウサギを躊躇なく殺した娘と同じ人物とは思えない。
「ヘビは苦手なの。おかあさんも、おばあちゃんもだめだったし!」
「ふうん。ま、いいや、行こう」
歩き出す一行。
しかし程なくしてまた娘が悲鳴をあげた。
「今度は何?」
アレブが前に進み出る。今度は剣に手を掛けていない。
「で、でたわ! 黒いおばけ! おばけだよ! 恐ろしい! この森は魔の森よ!」
震えて指さすメーニャ。その先には黒くぼやけた物体が揺れている。
アレブはそれを凝視した。彼は鼻と耳に自信があったが、目はそれほどではなかった。
「確かに何かいる……でも、生き物だ」
アレブは鼻を鳴らして言った。獣のにおいだ。
「おばけは生き物なの? 私たち、食べられちゃうよ!」
黒い物体は森の闇に溶け込み小刻みに揺れているのがかろうじて分かった。
輪郭ははっきりしないものの、身体はそれほど大きくない。襲われたとしても、犬猫のほうがまだ危ない気がする。
「うーん。あんな生き物は見たことがないな。スケルス、あれが何か分かるかい?」
長生きの白馬に訊ねる少年。
『……あれはウサギですね』
「ウサギ!? ウサギのおばけなんだ! 私がいっぱい獲って食べたから怒ってる! 昨日、欲張って二匹も食べたのがいけなかったんだ!」
天を仰ぐメーニャ。白馬が娘の頭に鼻先をこすりつける。
騒ぐ娘をよそに、アレブはウサギらしき物体へと近づいた。黒い毛玉は逃げる様子もなく、熱心に木の根をかじっている。
「近づいても逃げないなんて、ずぶとい奴だな。ウサギにしちゃ身体も大きいし」
アレブは毛玉に手を伸ばす。黒い毛の先端に指が触れる。
するとウサギはぱっと振り返り、彼の手をがぶりとやった。
「痛って! 何すんだこの!」
黒ウサギの頭を叩くアレブ。ウサギは手から離れると威嚇のつもりか、「ぶう」と大きな声をあげて走り去って行った。
「大変! ウサギおばけに噛まれたわ! ウサギ毒よ! アレブが死んじゃう!」
メーニャはウサギに噛まれた少年の身体を激しく揺する。
「何? ウサギ毒って。大丈夫だよ。ほら、血もでてないから」
噛まれた手を見せるアレブ。
「良かった……。てっきりアレブが呪いのウサギのウサギ毒で死んじゃうものかと」
胸を押さえ息を吐くメーニャ。
「ウサギに毒なんてあるの?」
「知らない。今思いついたの」
「なんだよそれ、適当だなあ。そんなだから黒いウサギをおばけと見間違うんだよ」
呆れ声のアレブ。
「だって、いつも罠に掛かるウサギはもっと毛が短くて、白か茶色だったもの。冬でもあんなに毛むくじゃらにならないよ!」
メーニャはウサギの消えた闇に向かって抗議した。
『そういう種類のウサギなのでしょう。それでなくともこの国は最近とても寒いですから、ウサギも毛を伸ばしたのかもしれませんよ』
「いちいち騒いでたらいつまで経っても魔女の棲みかにつかないよ。遠いんだろう?」
「ごめんなさい。道は私が教えるから、アレブが先に歩いて」
少年の背中を押しながら言う。
「わかったよ」
苦笑いの返事をするアレブ。
賑やかな一行は、暗い森をかき分け進む。右へ左へ、少年の剣がやぶをかき分け、ヘビを追っ払い、道を拓いた。
陽が沈み始めた頃、目的の場所へとたどり着いた。
「ほら、見て、あの小屋よ」
鬱蒼と茂る草木の中、質素な小屋が立てられている。メーニャの木こり小屋とは違い、小屋の周りは拓かれていないようだ。
まだ陽は沈み切っていなかったが、小屋の外に立てられた松明はすでに煌々とゆらめいていた。扉が見えないあたり、こちらは正面ではないらしい。
「あそこに魔女が棲んでるの?」
声を潜めるアレブ。
「うん」
「なるほど。じゃあさっさと会いに行こう」
アレブが茂みから身を乗り出す。慌ててメーニャが手を引っ張る。
「待って! 相手は魔女だよ! カエルにされたり、丸焼きにされたりするかもしれないよ!」
「何言ってるんだよメーニャ。魔法なんてないって。それに、もうすぐ暗くなる。今さら引き返すなんてできないし、野宿なんてしたらヘビに噛まれるかオオカミの餌だよ」
「うう……」
アレブは唸る娘の手をほどき、茂みから出て小屋へと近づく。
……つんのめる少年。
あたりの茂みが立て続けに大きな音を立てた。
***