.5 幻想の生き物
……少年は幻想を信じない。少女は幻想を願う。
墓暴きのふたりの前に姿を現したのは、一匹の馬だった。
「馬だ。……それも白い」
少年は立ち上がり、娘の前へ出た。
腰の剣の感触を確かめた。彼の若いはずの手の甲には血管が浮き上がっており、剣に相応しい形相を湛えている。
「きれいなお馬さん……」
少女は立ち尽くし、王子の肩越しに白馬を見つめる。
白馬は絹のような滑らかな毛並みを持ち、黒真珠のような瞳でこちらを見据えている。
少年の敵意を感じ取ったのか、距離を詰めずに、ゆっくりと横腹を見せて歩く。
白馬は堂々と、わずかに金色がくすむ白銀のたてがみを揺らした。
神秘的な威厳は少年に剣を抜くことを禁じ、少女の身体を無抵抗に変えた。
白馬が横を向き、初めて気が付く。馬の額には「本来あるはずの無いもの」が生えていた。
「見て、アレブ。角が生えてるよ」
やっとのことで声を絞り出すメーニャ。
「違うよ、メーニャ。よく見て」
その角はシカなどが有するものとは違い、明らかに木の枝が絡まって形成されたものに見えた。
単に頭に刺さっているだけのようにも、中から生えているようにも見えたが、角は小さく枝分かれをし、ご丁寧に葉っぱまでつけている。
「本当だ。あれは木の枝かな?」
「頭をぶつけて刺さっちゃったのかな。間抜けな馬だな」
白馬の威厳を振り払う少年。ついでに剣から手を離す。
――ウサギの罠に掛かるあなたほど、間抜けではないわ。
どこからか、声。アレブは振りかえり、メーニャを睨んだ。
「わ、私じゃないよ!」
首を振る娘。
「ここには僕たちしかいないだろう!? メーニャが仕掛けた罠だったのに!」
少年は顔を真っ赤にした。
――また笑い声。
しかしそれは、彼の睨む娘の口とは別のところから発せられた。
「「えっ?」」
ふたりは白馬のほうを見た。白馬は歩きだし、距離を詰める。ゆっくりと、茂みをかき分け、枝の角をこちらへ進ませる。
――そうです。私は、あなたたちの前に居る馬です。
馬のほうから確かに声。しかし、その口は閉ざされたままだ。
「本当に、お馬さんがしゃべってるの?」
「でも、口は動いてないよ……」
――跳ねて見せましょうか?
声が響いたあと、白馬が跳ねた。葉の隙間から射す光が白銀の房を輝かせた。
「すごい。……本当にしゃべった!」
「ユニコーンよ! きっと!」
メーニャは駆け出し、無遠慮に白馬の首に抱き着いた。馬は半歩あとずさったが、彼女を振り払うようなことはしなかった。
アレブも白馬に近づいてみる。
「ユニコーン。本当に居たんだ……」
遠慮がちに手を伸ばし、そっと撫ぜる。
『私は、ユニコーンではありません。ただの白馬ですよ。ユニコーンとは、人間の創った想像上の生き物でしょう?』
さっきよりもはっきりと聞こえる声。ようやく彼らの頭が声の出どころを正常に認識したらしい。
「そうなの? でも、驚いた! あなた、名前は? 私はメーニャ。こっちはアレブよ!」
紹介を始めるメーニャ。
『私の名前はスケルス。あなたたちには、私の声が聞こえるのですね』
少し上擦った声。
「当り前さ。ずっと会話をしていたじゃないか」
アレブが答える。
『私はずっと、私の声が聞こえる者を探していました』
「そうなんだ。私たちにご用事? 何かしてほしいの?」
メーニャの問い。スケルスと名乗った白馬は地に視線を落とす。
『私の、仲間を探して欲しいのです』
「仲間? お友達? 家族?」
続けてメーニャが訊ねる。
『どれでもあるかもしれませんし、もうどれでもないのかもしれません』
白馬は声の調子も落として答えた。随伴する娘は馬を撫で、少年のほうに視線をやる。
「白馬の仲間か。僕も馬は何頭も見て来たけど、君みたいな色をした、それもこんな立派なのは初めて見たよ……」
アレブがため息をつく。
「もちろん、口を利く馬なんてのも見たことがない」
「そうよね、私も初めて見た……。ところで、スケルスさんは男? 女?」
娘が馬の腹を覗き込もうとする。少年が彼女の服をひっぱり、やめさせた。
「声の調子からして女性みたいだけど」
『そうですね、人間でいえばそうなるでしょう。動物でいえば雌。私が探しているのは雄のほうなのです。私のつがいとなるはずだった片割れ。もうずっと昔に、この地に足を踏んだ時に、離れ離れになってしまった……』
森に佇む馬は、まるで海の底に沈んで行くかのように声をあげた。
「恋人なのね。かわいそう……。ねえ、アレブ。私たちで、彼女の恋人を見つけてあげようよ!」
娘は馬を引き上げるように撫でた。弾む声。
だが、王子にはすべきことがある。これは王道には関係ないだろう。完全に寄り道だ。
「うーん。探すって言ってもなあ。何か手掛かりがないと」
渋った返事。王子アレブは、白馬が人の言葉を話すのには驚いた。
幻想の世界の事のようだ。幻想を信じないとはいえ、耳と目で知った事実は事実として認める。
だが、彼のいちばんの関心は政治であり、父や祖母へ答えを返すことであるのには変わりがなかった。
「スケルス。あなたの恋人は、どんな毛並みをした馬なの? あなたのように、頭に枝が刺さっていたりするのかな?」
メーニャが訊ねる。
『私の探すものは、馬であるとは限りません。
人かもしれませんし、鳥かもしれません。あるいは樹木かもしれません。それに、雄か雌かも分からないのです。
ただ、身体のどこかに、この馬のように植物の枝か蔓か、あるいは種のようなものが見られるはずです』
「雄って言ってなかった? なんでもありうるとなると、なおさら厄介じゃないか。人の足より自分で駆けて見て周ったほうが早くないかい?」
アレブは匙を投げるかのように言った。白馬は尾をひと振りすると、うなだれてしまった。
「酷いよアレブ。大切なひとなんだよ。私たちに頼らなきゃいけないくらい、たくさん探したに決まってる。きっと朝も夜も走り回って、もうくたくたなんだよ!」
乙女が怒った。夕食を盗られても諦めた彼女が見せた、初めての表情。掴みかからんばかりだ。
「お、落ち着いてよメーニャ。僕はただ事実を言っただけじゃないか」
王子はたじろぐ。父や祖母以外からこのような態度を示されたのは初めてだ。
「アレブにはがっかりだよ! お話の王子様はもっと親切だったし、かっこいいし、私の晩御飯を盗ったりもしないのに!」
そう言うとメーニャは腕を組んで目を瞑り、あっちを向いてしまった。
「知るかよそんなの! 僕だってメーニャにはがっかりだ! ……えーっと」
王子は真っ赤になって娘の行動を思い返した。しかし彼女に感謝はすれども、非難するだけの材料は見当たらない。
「えーっと……」
二の句を継げないアレブを片目を空けてちらと見やるメーニャ。
しばしの沈黙、馬のほうから笑い声。
『ふたりとも、ケンカをしないで。……でも、あなたたちはなんだか楽しそうね。良い人間みたいで安心したわ』
白馬はもう一度笑うと、息をついて語った。
『私も長いあいだ、多くの人や動物を当たってきました。私よりも小さな動物には逃げられ、草花は何も答えてくれず、人間たちは私の姿を見ると捕らえようと縄や武器を持って追いすがって来るばかりで……』
「確かに、これだけきれいな馬だ。手に入れたがる人は多いだろうな。それでろくすっぽ人と話ができなかったわけか」
助け船を出してくれたスケルスへ王子が理解を示す。
『朝も夜も無く、西も東も無く。何度月が太陽を覆うのを見たか。いくつの森や川を越えたのかも分かりません。私は、遥か数百年前から、あのひとのことを探し続けているのです』
「そんなに昔から? おとぎ話みたい!」
目を輝かせるメーニャ。
『だからもう、生きているかどうかも分からないのです。
私たちの寿命はとても長いものなのですが、不慮の事故ということもあります。
きっと、探し出すのは無理だということも、解っているのです。でも、それでも諦めきれなくて。
いよいよ疲れて森の中をさまよっていたら、何やら子供のにぎやかな声が聞こえたものですから……』
スケルスがこうべを垂れる。メーニャはもう一度アレブを見た。
「なあに、状況は変わったんだ。だったら、もう少し探してみてもいいかもね。街のほうならずっと昔を記録した本だって手に入る。物知りの老人だって居るだろう」
「でも、追いかけられたりしないかな?」
不安げな視線。
「聞いて回るのは彼女で無くてもいいだろう。見聞を広めるついでだ。それと、“うち”には隠れ家にちょうど良い場所がある。そこなら見つかる心配もない。もし見つかっても、手出しをしようとする不届きものなんて居ないだろうし」
王子は得意げに言った。
「さすが! 見直したよアレブ! 王子様なだけはある!」
メーニャは大喜びでアレブへと抱き着いた。王子は鼻を鳴らす。にんにくのにおいが鼻を衝き、咳き込む。
『アレブ、あなたは王子なのですか?』
スケルスが訊ねる。
「……ああ。私はこの国――翼の国と呼ばれるこの国の王子、アレブ・エポーナだ。友人メーニャの頼みだ。あなたの恋人を見つける手伝いをしよう」
王子は咳ばらいをし、顔を引き締めると口上を述べ、白馬に向かって手を差し出した。
『ありがとう。人の子よ』
スケルスは握手代わりに頭の枝角を向けた。……が枝ではなく、鼻先を彼の指に付けた。
幻想の生物。冬のはじまり。白銀のたてがみと雪色の身体を持った白馬との邂逅。
少年たちは白馬の勧めに従い、彼女の背に乗せてもらうための手綱づくりを始めた。
森の娘は器用に蔓を編み、王子は城の馬に付けられた手綱の形を思い出し指南した。
若いふたりは昼食も忘れて作業に没頭し、手綱の取り付けが完了する頃にはもう陽はすっかり沈み、腹の音がふたりに時を教えた。
「待ってね、すぐにシチューを作るから」
ウサギの肉を捌くメーニャ。
「シチューか。それはいい。あの焼いた肉も美味しかったけど、少しにおいがきつかったからな。あれを毎日食べてるとくさくなりそうだ」
王子は腹をさすりながら言った。
「……」
娘の手がしばし止まる。
「僕も何か手伝いをするよ」
アレブはメーニャに言った。
「それじゃあ、棚にあるパンをふたつ取って、砕いて」
「パンを砕く?」
「そうだよ? 硬くなってるから。新しいのは焼いている時間が無いもの」
アレブは娘の指し示した棚から円盤状の物体を取り出した。指で触れてみると、確かに硬くなっている。
「本当にカチコチだ。パンってこんなになっちゃうのか。こんなのを食べたら歯が折れると思うけど……」
王子が叩くと、パンは気味の良い音を響かせた。
「アレブは王子様だから、白パン食べてたんでしょ? 白パンはそこまでは固くならないもんね。小さく砕いてシチューに入れればちゃんと柔らかくなるよ」
「本当かなあ」
パンをこつこつと鳴らす少年。
「本当だよ。柔らかいし、それに美味しいんだから。その辺にある木槌で叩いてあげてね」
アレブは鍋に向かう娘の背中を眺めた。材料を切ったり、鍋の中身を弄ったり、忙しそうだ。何かをするたびに彼女の長い黒髪が揺れている。
やたらと堅いパンを疑ってはみたものの、これまで彼女が作った食事には間違いはなかった。
肉もスープも旨かった。今晩の食事も、まだできていないというのに口の中が潤って仕方がない。
アレブは黙ってパンを砕き始めた。
かまどで温められた小屋に漂うシチューの香り。
幸せな空気の中、ふたりは昼の埋め合わせをするかのように、たっぷりのウサギを腹に詰めこんだ。
「スケルスはお腹を空かせていないかな。うっかり全部食べちゃったけど」
空の椀を前にだらしなく椅子に座るメーニャ。
「彼女は馬だろう? ウサギのシチューは食べないよ」
「じゃあ、あとでパースニップでも持って行こうかな」
娘の足が揺らしながら言う。
「片づけを手伝うよ。水はある?」
王子が立ち上がる。
「お水? そこの桶に入っているよ。私はもうお腹いっぱいでお水も入らない」
メーニャが部屋の隅の水桶を指さす。
「そうでなくて、片づけに使うぶんさ」
首を傾げる王子。
「そんな、もったいないよ!」
娘が椅子から立ち上がり、声をあげた。
「ここには井戸もないし、小川も遠いんだよ。片づけに水を使うなんて! それに、アレブはもっときれいにシチューを食べなきゃだめ!」
王子はまた叱られてしまった。
しかし彼は今度は口を尖らせなかった。立ち上がった娘は裸足だった。土で汚れた若い足。
彼女のそれは貧乏によるものではないとは言ったが、王子に教育係から聞いた「市井の貧しい人々」の話を思い出させた。
アレブは一言謝ると、椀に残ったシチューをすっかり掬い取って食べた。
シチューは旨い。半分は自給自足とはいえ、食は豊かだ。だが、それだけが貧富を示すわけではないのだ。
アレブは王子だ。為政の立場である彼のしごとは、今の娘の暮らしぶりにも関わるに違いなかった。
椀の汚れをふき取るメーニャを視界に映しながら、この国の政治を、戦いに明け暮れる王を、幻想に現を抜かす先王に想いを馳せる。
「アレブ。顔が怖いよ。怒らないで。でも、食べ物は大切にしなきゃだめだよ。ウサギさんだって、生きていたんだよ」
ごめん。きみに怒っていたんじゃないんだ……。言葉を呑み込むアレブ。
娘の言葉にうなずき、努めて顔を緩ませる。
――僕は、私は王にならなくてはならない。
深夜。一度床に就いたアレブだったが、ふと目が覚めた。
どうにも眠りが浅かった。床に就いてから最初に意識が無くなるまでも、かなりの時間が掛かっていた。
頭の中で政治家たちを戦わせるのに忙しく、気が立っていたのだ。
ふと、隣の寝床を見ると、掛け布がはだけてからっぽの中身を覗かせている。
「メーニャ?」
寝床の主を探すアレブ。小屋を見渡すも居ない。
そっと小屋を出てみる。月明かりが照らし、思いのほか明るい。
少年は小屋の脇に白馬を見つけた。
「スケルス。君は寝ないのかい?」
「少し眠りました。でも、“あれ”を見ていたくて」
「あれ?」
スケルスの視線の先。
月明かりに照らされた森の広間で、ひとりの人影が踊っていた。
夜の森の沈黙。空に月した光の中、闇のような黒髪を揺らし、四肢をゆらめかせる少女。
決まった動作などないかのような恣意的なからだの動き。
月白の光と漆黒の闇。冬のはじまりを湛えた空気と、夏の日差しを存分受けて育ったかのような小麦の肌が混ざり合う。
千里と万夜を超えた白馬と、城から森へ迷い込んだ王子。ふたりは息を呑む。
少女は踊る。ただ無心に。
すべての季節を孕んだ踊り。大樹が地に根を張るような。小鳥が空へ舞い上がるような。
草と土を踏む足裏と衣擦れだけが音を奏で、泥で塗れていた足はいっそう森の地面に沈んでいたが、不思議なことにいっさいの汚れを感じさせなかった。
幻想の生物。彼女のしたためる夢物語は、空が白み始めるまで続いた。
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