.34 この大地の上で
激しい嵐は数日のあいだ続いた。
雨は雪を溶かし、森を焼く炎を消し、いくさの血を洗う。
大樹の伸ばした根は、種自身の言う通りに地中で腐り、土に栄養を与えた。
樫の樹の洞には虫が食い、鳥が住み着き、あたりを小さな動物たちが駆け回る。
苦しみの大地の救済。人々は挙って作物を植え始めた。
今まで放棄されて来た砂場も、肥沃な枯茶の土に変わり、ミミズが跋扈し、鳥がそれを追い、さらに農家がそれを追い払うのに汗を流した。
農家の人々は春を信じてコムギを蒔いていた。想定よりも早い冬。そして、想定よりも遥かに早い春がそれらを生き残らせた。
喜びの収穫。地力の強くなった土地、そのあとには彼らの馴染み親しむエンバクやライムギが蒔かれる。
遠くない未来、幸福に満たされた黄金の畝が広がることだろう。
ほかにも多くの種が蒔かれた。ルッコラが早々に緑の絨毯を披露し、地面の下では早撒きのビーツが豊かな土に戸惑う。
焼けた大地にも、かつて立ち並んでいた木の子供達が植え直された。
様々な草葉が暖かな日差しを受けてせいいっぱい伸び、動物たちがそれを食む。またたく間に太っていく家畜からは、良質なミルクが採れ、バターやチーズが食卓にあがった。
少し余分なぶんは森のはずれの小屋にも届けられた。
ささやかな感謝のしるし。それは、人同士だけでは飽き足らないものだった。
誰かが言った。「祭りをしよう」。
豊かさは人々のこころに安寧をもたらし、かりそめの平和を真のものにした。
思い出されるは太陽への感謝、森への返礼、大地との結婚。
素晴らしき恵みに負けぬよう、人々は着飾り、踊り、詩歌を捧げる。
歴史の節目。長い長い冬の閉幕。
希望に満ちた、一年の幕開け。
賑やかな広場。悦楽の空気に満たされた中、一組の男女が歩く。
「ザクロは? ザクロは売ってないの?」
不満を漏らす若い娘。不思議な長髪が揺れる。その色のほとんどは銀。しかし、新たに生えてきているぶんは黒い。前よりもわずかに大人びた背。
「ザクロは秋だよ。アンズならさっきあっちの露店で出てたよ」
娘を窘めるのはこの国の最高権力者。王が広場で遊んでいるというのに、人だかりはない。祭りの空気は、誰も彼もを同じに変えているようだった。
「お姉さん、アンズを袋いっぱいに詰めて!」
娘が声をあげる。
「うちのは美味しいですよ! どれも弟の農園で採れたんですよ! 収穫したのは私と旦那!」
賑やかな売り子が歯を見せる。
「よし、次はお肉だよ! おばさんのとこ行こう!」
「何件寄る気なんだ。僕はもう両手が塞がって……」
はて、王は娘を従えたはずだが、今は主従がすり替わっていた。
おぼつかない足取りで、駆ける娘のあとを追う。
広場のはずれに構えられた店、肉屋からニンニクやクミンの香りが漂ってくる。
先客がひとり。
「ヤーヤー。メーニャちゃん」
ちょび髭とどんぶり頭。珍妙ななまりの男が親し気に手を上げる。
「ュエさん。こんにちは! お店のほうはどう?」
娘が訊ねる。
「建物はすっかりできたヨ。もう明日には開店できるネ。今日はお肉の仕入れに来たヨ」
「はいよ、お待たせ。カモに、イノシシに、ウマ。それに鳥のガラ」
肉屋のおかみが旦那と共に包まれた肉の塊を持ってくる。注文台に置かれる大量の肉。
「いヤー! しまったネ! 張り切ってたくさん注文したが、持って帰る方法考えてなかったヨ!」
ュエが頭を抱える。
「よし、ュエさん! 私たちが手伝うよ!」
元気よく言うメーニャ。腕にアンズのたっぷり詰まった袋を抱きながら。
「何言ってるんだメーニャ。僕の腕は二本しかないんだからな」
荷物持ちの王様がわめく。
「そうだった! 頑張ってね! ュエさん! お店が開いたらすぐに食べに行くから! 手伝えなくてごめん!」
「頑張るヨ! なあに、今日は子供たちにも手伝ってもらってるネ。ええと、あの子たちはどこ行ったかナ?」
ュエは肉のかたまりをひとつ抱え込みながら、広場の方へ首を伸ばす。
薄汚れた子供たちが居る。買い食いをしたらしく、何かに熱心にかじりついているようだ。
「せっかくあげたお駄賃、もう使ったカ!? しょうがない子たちネ!」
ュエはよたよたと子供たちのほうへ駆けて行く。アレブたちは肉屋の軒先から笑って見送った。
「おばさん、今日はイノシシある?」
「あるよ。来る頃だろうと思って、ちゃあんと支度しておいたよ!」
おかみは娘から料金を受け取ると、二本の肉串を渡した。脂が滴り、香ばしいにおいが娘と荷物持ちの鼻をくすぐった。
「へっへっへ」
娘はさっそく口へ頬張った。
「おい、メーニャ。僕はどうやって食べたら良いんだ」
鼻の良い青年が不満を漏らす。
「えー、しょうがないな。じゃあ、食べさせてあげよう。はい、あーん」
彼女は自分のぶんを口に咥え、もう一本を彼の口へと運んだ。
「おやおや、お熱いこと」
おかみが笑う。
「いや待て、熱い! 熱いってメーニャ!」
アレブの口に押し付けられる肉串。溶けた脂が彼の口元を焼く。
「わがままだなあ。ちゃんと咥えて! 落ちちゃうよ!」
「熱いって!」
ふたりは賑やかに串を平らげ、肉屋をあとにする。
「買い物をあとにすれば良かったんじゃないのか?」
今だに文句を垂れ続けるアレブ。
「だって、早くしないとみんな売れちゃうかもしれなかったんだもの!」
目的地に近づくにつれ、人々の声が遠ざかり、湿っぽい空気が濃くなっていく。
「いったん荷物を置きに城に戻っても良かったんじゃ」
彼は前が見えなくなっていた。いっぽう、娘は両手をぶらぶらさせながら歩いている。
「だめだよ、おばあさんたちはもう来てるよ!」
「だから買い物はあとに……」
ため息をつくアレブ。向こうから歩いてくる二人組に気付く。
「あらアレブ、遅かったわね」
王の祖母ルーシーン。
「私たちは済ませちゃったわよ」
横に居るのは、魔女と呼ばれている女コニア。
「先に帰ってるわね。いろいろと仕度しなくちゃいけないから」
ルーシーンが言った。
「じゃあ、僕たちも早く行こう。さっさと済ませて戻りたい」
荷物持ちの腕は剣を握ったときよりも疲弊していた。
「アレブ、私のおばあちゃんに失礼じゃない!?」
角を立てる娘。
「こうなったのは君のせいだと思うが」
荷物の陰で口を尖らせる青年。
ふたりは墓地へと歩いて行く。
「わ、きれいなお花」
祖母の墓に備えられた花束に感激するメーニャ。
「ハナイチゲだ。赤と白、それに紫か」
荷物の山が感心する。
「アレブ、お花詳しいの?」
「おばあさまの庭にあったものはだいたい分かるよ」
「お庭、すっかり壊れちゃったね」
ルーシーンの住まいである城の離れは、“種”の一件により壁がすっかり崩れてしまっていた。
庭の植物は大抵が無事だったが、今はもう自然に任されるままにされている。裏手の森と繋がる日もそう遠くはないだろう。
「そのほうが良かったのさ。壁はもう要らない」
「そうだね。それにしても、びっくりしたよね、私のおばあちゃんが、アレブのおばあさんやコニアさんとお友達だったなんて!」
娘は声をあげ、墓石に笑いかけた。
祈りが捧げられる。
墓石を彩る花は風に揺れ、満足げな笑みを浮かべた。
「……けっきょく、繰り返しなのね。六十年以上生きて、父と同じく間違ってしまった」
老婆がため息をつく。
「そうかしら」
魔女が足を止める。
「今は平和よ。街も賑やかじゃない」
「そうかもしれない。でも、あたしが取ろうとした手段は正しかったとは言えないわ。ときは無為に流れてしまった」
ぼんやりと街のほうを眺めるルーシーン。参拝者がすれ違いざまにちらとふたりを見る。ルーシーンは首を縮めた。
「気にすることはないわ」
参拝者を見返すコニア。会釈が返された。魔女も応じる。
「……あなた、また変わったわね」
ルーシーンは友人のさらけ出された若い肌と銀の髪をうらめしそうに見た。
「あなたも変わればいいじゃない。離れからは出たんでしょう?」
「まあね。でも、長くみんなから離れていたから、やっていく自信が無いわ」
「だめだったら、あなたも私の小屋を訪ねなさい。新月の晩がいいわ。人目を避けるのには持ってこいだから」
「占い業をやってるんだっけ?」
ルーシーンが訊ねる。
「そうよ。相談に乗るわ。占いはでたらめだけど。友人なら料金は無料よ」
屈託のない笑顔。
「ありがとう。相談がなくても訪ねていいかしら」
「もちろんよ」
交わされるほほえみ。
「ところで、例の大国のほうは大丈夫なの?」
魔女が訊ねる。
「ええ。先日、ハレバンさんが親書をもって訪ねて来たわ。私たちも大国に同盟として迎えてもらえるそうよ。いっときかもしれないけど、しばらくは平和で居られるわ」
「そう、それは良かった。森のほうは?」
「例の大巫女のお嬢さんがなんとかやってるみたい。意見の食い違いが多くて苦労してるみたいだけど、彼女もよくこちらに顔を出すわ」
「何の用事があるの? 友達にでもなった?」
いたずらっぽく笑う魔女。
「まさか。あの人はあたしにはちょっと尖り過ぎてて。ええとね。ハレバンさんが大国から持って来た案があってね。議会を作ろうって話になってて」
「議会?」
魔女が首を傾げる。
「そう。考えの違う人たちそれぞれの代表を集めて、意見を戦わせて、多数決で物事を決めるの。そこで法律なんかを取り決めようって」
「血が流れないのは良いけど、眩暈は確実ね。耳にパンが欲しくなりそう」
コニアは耳に指を突っ込んで舌を出した。
「マブがね、けっこう口が強くて、みんなを上手にまとめてくれるのよ」
「あの人の娘さんだっけ。あなたがいじめてた印象しかないけど」
苦笑い。
「いじめてなんかないわよ」
老婆が娘のように頬を膨らます。
「……まあ、大丈夫ってことね」
「問題は多いわ。前途多難よ。アレブもすぐ噛み付くようになっちゃったし。若い人たちは気性が激しくって」
ルーシーンがため息をつく。
「“そういうこと”なのね」
コニアが言った。
「“そういうこと”?」
ルーシーンは首を傾げる。
「ええ。彼らが国を支えてるってことは、あなたの血筋も確かに生きてるのよ。私たちの友人の孫も」
墓地のほうを見やるコニア。
何やらアレブとメーニャが荷物を巡ってにぎやかにやりあっている。
「人間は愚かで、同じ過ちを繰り返すかもしれない。でも、ちょっとづつマシにはなってると思う。
私たちができなかったことはあの子たちが、あの子たちでもできなかったことは、そのさらに子供たちがなんとかしてくれるわ」
「そうかしら……」
不安げに若いふたりを見るルーシーン。
「そうよ。あなただってそうしたでしょう。そして、私もあなたのマネをひとつしてみたわ」
コニアは服の隙間から一冊の書物を取り出す。
「これは?」
受け取るルーシーン。
「私がこの数十年間、退屈しているあいだに書いた日記よ」
ルーシーンは羊皮紙で作られた項を捲ってみた。
本には森から見た街のこと、大きな出来事、相談に来る人たちの傾向や変遷、それに今回の一件が記されているようだった。
「あなたほど字は上手じゃないけどね」
魔女は若い娘のようにはにかんだ。
「これを、読めば良いの?」
「いいえ。読まなくても構わないわ。本当に暇つぶしで書いていただけだから。
でも……そうね。あなたの書いた本の上にでも重ねておいてくれたらいい。
ルーシーン、私、ときは流れるものじゃないと思うの。折り重なっていくものよ」
魔女はかつての王を見つめる。黒い瞳。深い深い、蒼の瞳。
「あたしの本の上に重ねるには、少し重たいかもしれないわ」
「別に、背負うのはあなたじゃないでしょ」
魔女が笑う。
「そういう意味じゃ……」
――ふたりの会話に割って入る若い笑い声。
老女たちは墓場のほうを見る。アレブとメーニャ。
若者たちはたくさんの食べ物の入った袋を分けあって抱え、歩き始めた。
「あんなに荷物を背負い込んで、ふたりは何をするつもりなんでしょうね」
ほほえむコニア。
「あたしたちも手伝ったほうが良いかしら?」
「どうかしら。あなたがしたいなら、そうすればいいわ」
魔女が笑った。
分けあわれた若者たちの荷物。それでもやはり不均等で、青年の足取りが怪しい。
ルーシーンはゆっくり息を吐き、顔のしわを伸ばして笑う。
「ふたりとも、荷物を運ぶのを手伝うわよ!」
駆けて行くルーシーン。あとを追うコニア。
――彼女たちの立っていた場所に、暖かな風が吹き抜ける。
先人の眠る大地に続く道、そこよりはじまる未来。
――人々は繰り返す。そして季節もまた繰り返される。
数多の苦難を乗り越え、ときに憎み合い、ときに助け合いながら。
折り重なる歴史の中、
この大地の上で、すべてのものと共に。
***
――おしまい。
***




