.31 獅子の目覚め
広場の平手打ち劇が幕を下ろしたのち、魔女コニアは大切なことを忘れていたのに気が付いた。
いつしか雪が降り始め、広場を、街を、国中を覆い始めていた。
「足の裏がひりひりする」
裸足の娘がしょげる。
「いのちがあっただけ良かったわ。メーニャ」
魔女が娘をぎゅっと抱きしめる。安堵と不安も一緒に。
友人は助け出された。家を焼かれ、奴隷商人にさらわれた娘。
どういう経緯で広場で焼かれることになったのかは本人も知らないが、友人たちは彼女を救うのに間に合った。
しかし、そこには彼女の身をいちばん案じていた役者が欠けたままだった。
魔女に共に東奔西走した王子アレブ。
捜索のすえ、彼は殺人を犯すこととなった。奴隷商人の頭蓋をかち割ったのだ。
あれだけ殺しによる解決を厭っていた少年は、被害者である奴隷ともども商人を斬り捨ててしまった。
コニアは一部始終を見た。彼女は牢に入れられた人たちを解放したのち、外から広間の様子を伺っていた。
どこかで助太刀をするつもりでいたが、奴隷商人マーフの話しぶりからして、彼が殺されないことは分かっていたし、王子が複数人に取り押さえられてしまっていたために、手も蔓も出せない状況でもあった。
そして、黒獅子の爪による血の雨を受け、彼女は身動ぎひとつできなくなってしまった。
コニアはメーニャの暖かさを弄びながら、このことを伝えるかどうか迷っていた。
アレブはきっと城へ向かっただろう。王に会いに。
それは、単に娘の行き先を尋ねるものに留まらないのは目に見えている。
「メーニャ、私の小屋に来なさい。やけどによく効く薬を煎じてあげるわ」
少し震えた声。
「やったあ。ありがとう! でも、コニアさんの家に行くのも大変そうだ」
「少し我慢してちょうだい」
窘めるコニア。
『メーニャに伝えなくてもいいのですか?』
スケルスの声。それは宿主以外にも届くように発せられた。
「何を? 私に伝えることがあるの?」
「……ないわ。それより早く薬を塗らないと。綺麗な足なのに、痕が残ってしまうわ」
『コニア』
右手から厳しい声。
「スケルスが何か言ってるよ。……そうだ、アレブはどうしてるかな。また来るって言ってたんだ」
娘が魔女から離れる。
「あのね、ふたりとも聞いて。私の家、燃やされちゃったんだ。もしかしたらアレブが心配して待ってるかもしれないから、私の家に寄って行きたいの」
「家は見たわ。それで探しに来たの。寄って行きましょう。彼が待っているかもしれないから」
他者と己への欺瞞。
『コニア。彼女へ伝えるべきです!』
心身を共有する種。
「知らないほうが良いこともあるわ」
魔女は、まるでひとりごとのように言った。
『他者の迷いを断ち切る生業をしているあなたらしくありませんね。
このまま放って置けば、彼女のこころに、やけどよりも酷い痕が残ることになるかもしれませんよ。
もしかしたら、死ぬまで後悔し続けるかもしれません。メーニャも、あなたも』
「ふたりとも何を言ってるの?」
魔女と種の不穏な仄めかしに、まぬけ面で首を傾げる。
「分かった……。アレブでしょ。アレブに何かあったんでしょ!」
真顔に戻る。友人のこと。
『もはや隠し通せないでしょう』
「あなたがばらしたようなものじゃない」
口を尖らせる魔女。
『私はあなたの迷いを断ち切る手伝いをしたまでです。あなただってかつて友人のために苦難を越えたことがあったでしょうに』
「分かったわ。それ以上言わないで。ちゃんと話すから」
魔女は手を上げ降参する。
コニアはメーニャに、今朝がたアレブに叩き起こされてから広場に来るまでの経緯をすっかり話して聞かせた。
――そして走りだす。森の娘が街を走る。
困惑晴れやらぬ広場を抜け、いくさの足音に慄然とした家々を抜け、城へと続く通りを駆け抜ける。
娘は銀髪たなびかせ、息せき切らせ、身体中から汗を噴き出し走った。
足裏は雪を散らし、摩擦で再び焼かれ、美しい血を流す。
娘の足跡は雪に鮮やかな赤を残し、少年の赤だった黒い痕は白に覆われていく。
まるで季節外れのハナイチゲのように。
――走る火花。剣の切っ先、滑りあう鋼刃。
戦いに備え厳重になった門を知り合いの権限で突破し、慌ただしい城でも笑顔を向ける顔見知りの兵に目もくれず。
メーニャは王子を探す道すがら、掃除婦から水の入った桶を奪い取った。
いつか王子と魔女の喧嘩を止めた手立て。
なんの力も持たない娘の、精一杯の思い付き。
――交わる剣。交わらない帝王学。
せめて、せめて彼の手がこれ以上赤く染まらないよう。
――やいばを受け入れる肉。くぐもった唸りと血泡。
それでも、それでも彼のこころが黒く染まらないよう。
水桶を抱えた娘が玉座に辿り着く。
そこで彼女が見つけたのは、
――血の絨毯の上で天井を仰ぐ王の姿。
――それを見下ろす黒き獅子。
「強くなったな、息子よ」
ハイクが鉄臭い息と共に言葉を吐く。
「私に剣の技を教えたのはあなたです。よもやそれで己が斬られるとは思いもよらなかったでしょう」
歪んだ笑みを浮かべるアレブ。
「そうでもない。父殺しは珍しいものではないだろう。読んだことがないか? 異国の話を」
「あなたが書の話など。いよいよ死が近いと見える」
「そうだ。俺はもうすぐ死ぬ。そしてお前は王となり、すべてを得る。国民と森のいのちが、お前の双肩に重くのしかかるだろう」
苦悶に満ちた表情。ため息。
「あなたにとっては、軽いものだったのではないのですか? いくさ好きの愚王よ」
「まさか。戦いはたましいが重いゆえに価値が生まれるのだ。……そうだ、俺には重過ぎたゆえに、斬り捨てねば、斬り続けなければならなかったのだ」
「いまさらになって懺悔ですか。己の弱さを悔いれば赦されるとでも?」
「赦されようなどとは思っていない。人は死ねばそれきりだ。あとから赦しを請うことなどできはしない。俺は知りたかったのだ。初めて人を斬ったときからずっと、あのとき、なぜ人を斬らねばならなかったかを……」
王の顔が少し緩む。
「父上の初陣の話は、今でも兵たちの語り草です。あなたが殺したのは元奴隷でしたね」
「アレブよ。お前がこの部屋に来たとき、血のにおいがした」
王は笑いと共に血を吐いた。
「においなどとつまらぬことを言った。お前は頭から足先まで乾いて黒くなった血に覆われていたというのに。……お前は誰を斬った?」
「奴隷です。それと、我が国に奴隷を広めようとする悪人を斬りました。
あの男はあなたに取り入り、国の混乱のさなか、身寄りのないものをかどわかし続けていたのですよ!
彼らはおおよそ人の扱いをされていなかった。家畜よりも非道い扱いだ!」
「そうか。俺の間違いを正したか」
「あなたは間違い過ぎだ。ずっと間違い続けていたんだ。……私はあなたのようにはならない!」
苦々しく言う王子。
反して王はまた笑って、
「俺の背を見続けて育ったか。男親明利に尽きるというものだ」
「戯言を! 間違いだと気づいていたのなら、どうしてあの男に勝手をさせたのです? なぜ、その手で斬り捨てなかったのです? 親だというのなら、どうして私に正しい道を示してくれなかったのですか? そうすれば私は……」
「人を殺さずに済んだとでも言うのか?」
「それは……」
口ごもる王子。
「王はどんな形であれ、人を殺さずに済む者はない。
政治の不足で民が死ぬこともある、守備の穴から敵に攻められるのもそうだろう。
俺はこの手で反対する民を斬った。
先王ルーシーン・エポーナは剣は取らなかったが、神鳥を使役し、多くの敵を葬って来た。
数だけでいえば俺など目ではないくらいに。そして、それがさらなるいくさを呼び、戦禍が民を殺し続けた」
「そうだ。あなたは奴隷商人を招き入れただけでなく、森の民や調和派を煽って、争いを悪化させていた。なぜだ。そんなにいくさがしたければ、身内でなく外に目を向ける手もあったはずなのに」
「俺が、煽った? 俺は自らの手で斬る。いくつかの部族に、あえて掠奪をしなかったことを言っているのか?
復讐を求めていたのだ。俺は、身内の誰かに殺されたかったのだろう。
だが、それはお前が成してくれた。外に手を出さなかったのは、単純に戦力の差だ。
いくら強き狼であろうと、わざわざ熊の寝床をつつくようなまねはせんよ」
アレブの顔色が変わる。
「待ってください。では、今攻めてきている十字の軍団は何者なのです? あなたが対立を煽ったのではないのなら、コナ族やペン族に使者を送ったのは誰なのです?」
「何の話をしている? いくさのにおいは感じていた。兵たちが騒めていておったからな。だが、俺にはまだ何も伝わって来てはいない」
「私も、ここへ来る途中に小耳にはさんだだけです。父上が知らないとなると、おばあさまが……!?
いや待て、ならば、僕は、僕は何のために父上を斬ったというのだ!?」
取り乱す少年。硬く握り続けていた剣が落ちる。
「……落ち着け。息子よ。愚王を退かせるのは真の王の最初の仕事だ。
お前はただ父を殺したのではない。……城内には何か魔物が潜んでいると見える。
それが母か神鳥か、別の何かかは分からぬ。
だが、伝説を繰り返すにせよ、別の腹にせよ、十字の軍団の話がまことならば、
それは国を食いつくす結末になるだろう。愚かな俺から見ても解る」
上体を起こし、息子へと手を伸ばすハイク。大量の吐血。彼の腹からは赤いヘビのようなわたが出ていた。
「やはり俺は愚かだ。この期に及んで、まだ剣を振るいたいと望んでいる。叶わぬようだが」
豪傑が嗤う。虚ろな目で。
「……父上。私は先程、タラニスが空を行くのを見ました」
「そうか。春雷を聞いたと思ったが。春はまだ遠いか。あれは神鳥の羽ばたきだったのだな。母上め。やはり、最期まで俺に付きまとうか……」
王は倦怠を吐き出す。
今わのきわ、駆け巡った走馬燈。
それは王者の抑圧でもなく、血飛沫の振舞いでもなく。
――母の胸にいだかれ空の散歩に出かけた、遠く幼き日の想い出だった。
息を吐き切ったハイクの死に顔は、どこか子供の寝顔のように安らかなものだった。
王の亡骸の横。少年が立ち尽くす。
「アレブ……」
友人が声をかける。
「メーニャ。私は父上を斬った」
「うん」
「きみを攫った奴隷商人も斬った」
「うん」
「商人に命令された奴隷たちも」
「……うん」
「私は間違ったのだろうか?」
友人への問いかけ。
娘はしばらく考えるとこう答えた。
「わからない……」
それは無知からでたことばでも、慰めでもないことばだった。
「誰なら知っているだろうか」
再び問う。
「きっと誰も知らない。でも、コニアさんならこう言うと思う。“自分で決めろ”って」
「違いない。ならば、私は彼らを斬ったことを無駄にしてはいけない。
正しいことに繋げなければ。王として、国に迫る魔の手と城に潜むヘビを打ち払わねばならない」
張りつめた声。
娘が桶を持って近づいた。
「アレブ。王様になるのに、そんな恰好じゃ、だめだよ」
水で濡らした手で王の頭を拭うメーニャ。
「ありがとう。私は王になったというのに、国に仇なす憎い父を斬ったというのに、どうして泣いているのだろう」
メーニャの見る新たな王の顔。それは、決して泣くことのないおとこの顔。
ただ頬を伝うのは赤い水。黒く固まった血が溶け、中から黄金の髪が姿を現す。
「涙が流れるのは、悲しいからだよ。私も騙されてばかりのおばあちゃんが嫌いだった。でも、大好きだったんだよ」
涙は、泣いたことのある者だけが理解できることばだ。
「父さま……愛しておりました……!」
顎を伝う最後の一滴が落ちる。
メーニャは母のようなほほえみを浮かべ、彼に向かって両手を広げた。
「……メーニャ、私はまだそこには往かない。還る場所があるというのなら、それで充分だ」
新たな王は翼まで血に染まったつるぎを拾い上げる。
「わかった」
強く頷く娘は手を下ろし、王のつるぎの血を雪いでやる。
黄金の翼の飾られた剣。初めて見たときのそれは、ただの儀式的なつるぎだったが、今や刃欠けや傷のいった戦士のものとなっていた。
「先王には問いたださなければならないことがある」
つるぎを鞘に納めながら言うアレブ。その言葉に不安げな表情を見せるメーニャ。
「安心してくれ。剣には訴えないつもりだ。……最終的には約束できないが。いくさのことも気に掛かる。
先ほどから城内が騒がしい。だが、今さら私が出張ってどうなるというものでもないかもしれない。だが、できることをするまでだ」
アレブは父の亡骸から王の外套を拝借する。父の体躯は子よりもかなり大きなものだったが、その外套はもともとそこにあったかのように新たな背に収まった。
「行こう。壁の中へ」
王は立ち上がり、進み始めた。
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