.29 交錯する想い
むせ返るような男のにおい。
そのさなか、中央に敷かれた獣の毛皮の上に身体を横たえる娘がひとり。
秋の稲畑のような健康的な肌。服の隙間から覗く肢体は、煤汚れてはいるが見事な曲線を描き、ときおり滑らかな毛皮の上を滑る。
同じく投げ出された銀糸の滝、ゆらめくろうそくの炎に照らされきらきらと輝く。
静かに閉じられたまぶた。人懐っこい頬。唾液を湛えたくちびる。
「もう食べられない……」
男はこのまぬけ顔を眺めながら息子に想いを馳せる。
翼の国のあるじ、ハイク・エポーナは息子に王位を譲るつもりだ。
王には悩みがある。国政のこと。連綿と続く争い。剣だけでは収まらぬととうに悟っていた。
彼はかつて齢十五にして母から王位を譲られ、それ以降、実母や教育係、さらにはその母、後見人たちの補佐に頼って政治を行い、国を治めてきた。
ゆえに彼自身の政治には少し足りぬところがあった。
書や思考による学びが足りぬわけではない。だが、いくさ好きでたびたび戦場に足を運ぶ行為は、彼の思考思想をより偏らせ堅固なものにした。
今や実母が表舞台から降り、教育係は日々の実務に揉まれ、敏腕を振るったその母も高齢で酒浸り。不足の歪みはいくさを呼び、彼をいっそう戦場に駆り立てている。
ハイクは、己のいくさ好きが生来の血の気質せいだけではないと気付いていた。
それは母、ルーシーン・エポーナの教育によるものだ。
母はもっと若いころから王の肩書を背負わせられ、至らぬからと政治は任されず名ばかりで、国民や他の為政者の苦労をうしろから眺め続けるばかりだったという。
それゆえに自身の息子には幼き頃より母としてだけでなく、王としても溢れんばかりの愛情を注ぎ続けた。
読み書きによる学びは言うまでもなく、あちらこちらに連れ出して世界を見せたし、眠る前にはおとぎ話や友情物語を何度も聞かせたし、もちろん、仕様もないいたずらの標的にすることも忘れなかった。
ハイクのそばには常に母があり続けた。行き過ぎた愛情は煩わしさに変わり、彼はいよいよひとりで城を抜け出す。
同じく抜け出しの多かったルーシーンは心配しながらもそれを喜んだ。
ハイクは抜けた先で戦いに巻き込まれた。城の兵が、旧体制によって虐げられたと言い張る元奴隷連中の鎮圧を行っていたところに出くわしたのだ。戦いは反逆者の優勢だった。
当時の王子はその腕を振るった。豪傑の血と翼の剣をもって敵を斬り伏せた。
人々は死んだ。彼はまだ両手で数えきれる歳だった。
兵たちはハイクを讃えた。王者の目覚めだ、伝説の再来だと担ぎ上げた。
母からの束縛を断ち切った反動もあわさり、彼はいくさの甘美な味の虜となった。
当然、現王で母親であるルーシーンの耳に入らないはずはない。
彼女の示した反応。子供の血染めの腕への祝福。いっそう彼を溺愛し、若き王子に戦場を任せる許しまでだした。
以降、アレブが生まれルーシーンの関心が分散するまでの二十年近く、ハイクは余分な愛で干からびた心を、血で潤わせ続けなければならなかった。
名ばかりの王。彼は王位そのものに執着は無い。
彼の望みは、息子アレブに自分や母とは違った「賢王」となってもらうことだった。
そして、余分な愛や、恨みしか生まぬ血の雨に晒されぬようにと祈っていた。
ハイクは息子の反抗を喜んだ。愛おしく思った。
息子が己の血と鉄を持ったやりかたに反発し、その上にルーシーンの好きなおとぎ話を夢まぼろしと片づける思想。
そして甘えに歯牙を失わない翡翠の瞳を。
このまま行けば先王とも現王とも違う、次代の、「本物の王」が生まれるだろう。
……しかし、その愛息子の成長に不純物が紛れ込んでいた。
「おばあちゃん……」
娘の寝言。この娘は母ではなく祖母を夢に見るのか。
ハイクは眠る娘を眺め、ため息をつく。
胡散臭い男から献上された“魔女”。なるほど確かに今日日珍しい銀髪を持った若い娘。
……あの男がこの娘をどこからかどわかしてきたかは知らぬが、俺に取り入ろうとしてのことだとは瞭然である。
俺はおんなには興味がない。我が子はアレブひとりで良い。
本来なら突っぱねるつもりだったが、息子の友人に似ていたため、つい貰い受けてしまった。
差し出されたときからずっと眠っている。目覚めたら問いただそうかと考えて待っていたが、さすがに眠り過ぎだ。
年寄りでもないのに人の髪色が変わるはずはない。
やはり魔女として調和派の発散にくれてやるか。神樹や神鳥に代わる御輿にするには、まったくもって威厳が無いし……。
知人によく見た娘に見切りをつけ、兵を呼びつけるかと腰を上げる。
「アレブ……」
聞き間違いか。王子の名を呼ぶ声。
王は眠る小汚い娘をじっと観察した。
なるほど、よく見れば彼女の頭頂部……毛の生えぎわ、新しく生えて来た髪は黒い。
「どうやら俺はめくらだったらしい」
奴隷商人が白く染めさせただけなのだろう。あんな胡散臭い男の言を飲み込むとは耄碌したか。
さて、息子の友人だとして、どう扱ったものか。
おとこにおんなは必要なものではあるが、帰るべき場所は甘えを生む。
息子が誰を結婚相手に選んでも勝手だとは思うが、王者として出来上がる前にそばに置き続けるのはあまり賛成できない。
だが、この容姿だ。そのまま街へ放りだせば何をされるか分からぬ。ううむ。
「よし! “あいつ”に押し付けよう」
王の頭に名案が思い浮かぶ。
……。
例の“あいつ”。国の面倒ごと押し付けられ掛かり。誰が呼んだか国務雑用大臣。
マブはやはり憔悴しきっていた。
神鳥の暗殺は失敗。先王の謀反を疑って市井に調査に出れば、森の部族が何やら挙兵をしているという情報。
そのうえ、王に“魔女”を「任せたぞ」の一言で押し付けられたところである。
「は、母上に相談しなくっちゃ」
目を回す四十過ぎの女。彼女は手一杯になるといつもこうだ。
「ははあ。こりゃほんとに魔女みたいだね。でも、顔が違うよ」
さらっと言ってのけるメイヴ。娘はいまだに眠りこけている。メイヴの部屋まではマブがえっちらおっちら引きずって来たのだ。
「お母さまは魔女の顔をご存じで!?」
「私は魔女と知り合いだからね。知らなかったのかい。魔女はかつて城に出入りしてたんだよ。あんたも顔を合わせたことがあるはずだが……」
「ええ……お母さま、飲み過ぎではありませんか? そんな昔なら魔女ももう年寄りになってるでしょう?」
ため息をつくマブ。頼りのお母さまも、ぼけてしまったのかしら。
「魔女はね。歳をとらないのさ。
始めてあったときはルーとあまり変わらない年ごろの娘に見えたんだがね、
他の者が大人になっても、あの子だけはずっと若いままだったのさ。
魔女が街を追い出されたのもそれが原因だね。神鳥だって見たはずなのに、そのくらい頭が働かないもんかね」
今度はメイヴがため息をつく。
「ご、ごめんなさい……。お母さま。この娘はいったい、どうしたらいいのでしょうか」
「そうだねえ。ハイクはなんて言ったんだい?」
まぬけ顔の娘を眺める老婆。私にも孫が居ればこのくらいなのかねえ。
「ただ、任せると」
困り顔のマブ。
「じゃ、火炙りだね」
にべもなく言い放つメイヴ。
「は!? 火炙りですか!? どうして!?」
「どうしてって、魔女が追い出されたときは国の敵だったんだよ。
神樹殺しの経歴があるとはいえ、その力は植物を操るものとされてるんだ。
どっちかというと調和派の御輿になる器だ。
克服派を推すなら、こいつを調和派を煽った魔女として城下の広場で焼いちまうのがいちばんだ。
ルーは大衆をまとめ上げるために神を用意したが、別にそれは崇拝の対象でなくてもいい。
連中の不満を発散させる見世物にでもしたらいいさ。
毒抜きすれば民草の不満も消えて、あんたの仕事も多少楽になるってもんだよ」
「……それで、また私に手を汚せと!?」
マブが声をあげた。眉を持ち上げる母。
「不満なのかい!? せっかくおまえが楽になるようにと考えてやってるのに!」
「お母さまの言う通りにしても私はちっとも楽になりませんよ!」
机の上の盃が跳ねる。こぼれる葡萄酒。
「私に逆らおうってのかい!?」
いきり立つ老婆。
「……逆らう?」
目に涙をため首を傾げる娘。
「お母さまは確かに私に助言をくれます。でも実際に仕事をしているのは私なんですよ!?
ハイク様でも、ルーシーンお姉さまでも、ましてあなたでもない!
昔っからそうだった。みんな面倒になるとすぐ私に押し付ける!
みんな、わからないことがあるとすぐお母さまに相談。
それで答えが出たって、結局は私がやらなきゃならない!
私は国や、みんなのためを思ってずっと頑張ってきたのに!
自分のことは全部後回しにして! 本当は結婚だってしたかったのに!
今じゃ国では口うるさいばばあで通っています。これじゃ、いくら偉い立場でも、だあれも貰ってくれやしない!」
声を荒げるマブ。行き遅れ女、積年の鬱憤が涙となって爆発する。
「……分かった。分かった。だから、そんなに泣くんじゃないよ。おまえは私のたったひとりの娘なんだ。おまえにへそを曲げられてしまったら、私は生きてはいけないよ」
娘の肩に手をやる老婆。
振り払われる。
「そんな邪険にしないでおくれ。もう少しの辛抱なんだよ。この国はもうだめだ。
私もいろいろ考えてやったが、どうにもこうにも上手くいかない。
あの人、私の夫のモルティヌスのようには上手くやれないんだよ。
私も、ハイクもルーもどうしようもないばかなのさ。王子だってまだ若い。そうなれば、長いものに巻かれるしか手はないんだよ」
メイヴが諭すように言った。
「……お母さま。何を企んで」
マブが顔をあげる。人差し指を立てるメイヴ。
「私はね。若いころによその国から嫁いできた。教育係をしていた夫もよそ者だ。
その夫と同じ国からさ。そこでは、書物と十字架を重んじる教えがあった。その教えは世界を飲み込むほどの勢いで広がっている」
「やっぱり、国を差し出すのですか……?」
「少し違うね。翼の国に使者を送ってきている書の崇拝国は、私の出身国だ。
もともと私は友好の証としてこっちに嫁がされた。あっちでもそこそこの名家の出だったのさ。
今は私の甥の子があっちの国の軍使を務めている。交渉が難航してるから、あの子も私を頼ってきていてね。
かねてから準備を進めていたのさ。私たちは悪いようにはされないよ」
「それじゃ、お母さまは、それに私は今までいったい何のために」
目を見開く娘。
「布石だよ。十字の軍がこの国を攻め落としやすくするためのね。
森を切り拓き進軍するための街道を広げ、内乱で国内の戦力を殺いでいたのさ。
いくら大国とはいえ、むやみに大軍を投入することはできない。相手にしているのはここだけじゃないからね」
「私は、お母さまが恐ろしい。……魔女だ。魔女はお母さまだ!」
震えるマブ。
「そうだね。私は魔女さ。汚れ切った女。“子供たち”を争わせる卑劣な女だ。
だがね、私はお前まで見捨てはしないよ。国に帰ったら、いい男を見繕ってやる。
年増だからって心配する必要は無い。おまえの血は葡萄酒のようにきれいなのだから。
純潔を愛する国に行けば持て囃されるに違いないよ」
満面の笑みを浮かべるメイヴ。
「おまえはこれまで通り、私に頼ると良い。もう仕事に煩わされる心配もない。
娘の件も私が自ら片づけてあげるよ。ルーだって、ハイクだって、へし折られれば“わかる”はずさ。
最後は私の胸に還るしかないって。かつて夜な夜な私に安らぎを覚えた夫のように!
良いんだよ! 私がすべて包んで取り計らってあげるから!」
声高らかに宣言する老いた太母。慈愛に満ちて。机の盃には手をつけぬまま。
……。
いっぽう、大自然を太母とする森の民。コナ族酋長ベリサマ。
北の森、翼の国にそう遠くない森の中に大陣営を構える。
彼女は先の一件ののち、盟友ペン族を従え、巫女と戦士の両方の威光をもって、着々と森の戦力を集結させていた。
「大巫女様。城下の調和派の一派が参入を希望していますが」
手下の巫女が伝える。
「迎えるがいい」
「良いのですか? 連中は過激派ですが」
「構わぬ。森の民にも過激な連中はいる。手中に入れねば手綱も取れぬ。勝手な振る舞いはさせるな。ペン族の浮足立った男たちにも言い含めておけ」
「はい」
巫女が去る。
「すでに小競り合いが起きているようですが」
盲目の巫女が言った。
「なるべく殺さぬようには伝えてある。いずれ手を取り合うつもりだ。禍根は遺したくない」
「ベリサマ、変わられましたね。いくつもの顔を持つようになりました」
「光の無い瞳にも映るか。私も自分で驚いてるよ。仮面とは便利なものだ。おんなを演じることも、良き酋長を演じることも、拷問官を演じることも容易くしてくれる」
嗤うベリサマの手にはアンズの種が握られている。
「拷問は少々楽しんでいるようにも感じられましたが……」
ため息をつく巫女。
「赦せ。あれはやつに己の身を重ねて行ったことだ。
部族のためだと身を粉にしていたつもりだったが、なかなか伝わらぬものよな。
……まさか村の中に城に内通していた者が居ようとは。間者は嗤っていたのだろうな。
その身を森に浮かべながら、共に暮らすすべての者たちを」
種を放るベリサマ。
「心中お察しいたします。私はあなたにどこまでもついて行きます。たとえその道がどんなにつらくとも」
めしいの巫女が言った。
「ありがとう。私には多くの仲間がついている。おまえも、森の民も、精霊も、神も。天で見ていろベレナス! お前の求めたみなの幸せ。その望みは私が必ず叶えよう!」
こぶしを握り天に叫ぶ大巫女。
「大巫女様! 大森林の外からの報です! 十字の紋章を持った軍勢が侵攻してきた模様です!」
伝言役の男が言った。
「毒香に引き寄せられたか。……よし! みなに伝えよ! 決起だ! 敵は翼の国ではない! 真に討つべきはその腹中に潜むヘビ! 城内で手引きをしていた悪魔の女、“メイヴ”だ!」
酋長の号令により決起する森の戦士たち。大軍挙って街へと向かう。
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