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.26 広がる病

 王子、再度の帰還。

 コナ族の村から帰ったアレブは、宮中に潜むヘビに目を光らせていた。


 ――この国に混乱をもたらそうとしている者が居る。


 王子の行動を把握している祖母ルーシーン。

 戦争が起きれば喜ぶであろう父ハイク。

 そして、数十年ぶりに城に舞い戻った神鳥タラニス。その他大勢。


 疑える相手はすべて疑いの目で見た。他人を使える立場にある教育係マブ。これも疑った。

 だが彼女は多忙に多忙を極めており、いくら付け回しても怪しい行動は見られなかった。

 全部業務! ……これ以上国を忙しくするのは、彼女にとっては単なる自殺行為だ。


 発見といえばせいぜい、マブが隠居した母親の部屋を訪ねて、酔っぱらった姿で出て来たことくらいだ。

 普段、小言ばかり言っている行き遅れの教育係が頬を赤くして愚痴を巻いている姿を想像すると、不憫な気がして仕方がなかった。


 ほかの文官のたぐいも人と接する仕事が多く、怪しいといえば怪しいが、マブに同じく多忙の身。

 あったとしても、ちょっとばかし空き腹を肥やす汚職くらいだろう。


 汚職といえば厨房に詰めていた小間使いの娘が欲に負けて夕食に悪さをした現場に居合わせたが、王子は一緒になって悪事を働き彼女を赦してやった。

 昔なら叱ったかもしれなかったが。


 祖母ルーシーン。これも日がな壁の中で過ごし、ときおり城内の厨房を借りに行くことがあるくらいだ。

 動きが少ないため、四六時中見ているのは心が折れそうだったため、完全に白とは言い難かったが、少なくとも一般の兵はおろか森で見かけた兵が離れの庭に近づくことはなかった。


 森で矢を放った兵士はアレブの記憶が確かならば戦場と城とを駆ける伝達係に任命されている男だ。

 彼は王子が城に戻ったときには既に、「いくさから戻らず死んだ」と場内の者に思われていた。


 次に父ハイク。これはまっさきに疑っていたが、調べようがなかった。

 戦争が激化したため、ずっと戦いに出張っていたからだ。


 いちばん疑わしいのは父だ。

 豪快奔放な彼が奸計を好むようには思えなかったが、白であろうとも、アレブは父が今の状況を面白く思っていると確信していた。

 伝達係の兵はいくさ場が仕事の主戦場だ。彼が暗躍していたというのは判断材料として強い。


 最後、この国に影響を与える立場になるであろう人物……ではなく鳥。

 神鳥タラニスは神として再臨する予定がある。その威力を発揮するには、国が混迷を極めていれば極めているほど良い。

 王子の目にはその正体は昼寝好きな愛玩動物に映っていたが、魔法のような力を持つ種の同族で、古来より生きルーシーンと意思を疎通していたことを考えれば、かえって疑わしくも思えた。


 特に彼は、魔女の手から伸びる緑の蔓や、矢を受けたはずの娘の治癒などの奇跡を見て来たばかりだ。他にどんな隠し玉があるか知れたものではないと考えた。


 だが、その疑いが馬鹿馬鹿しくなるような出来事がひとつ。


 王子はこれまで傍目で巨鳥を眺めるに済ませていた。あらかた調べ終わったので、本格的に鳥の観察でもするかと離れの庭に来た時のことだ。


「うっ……なんだこのにおいは」

 離れに入った瞬間、アレブの鼻が警報を最大音量で鳴らし始めた。


「あらアレブ、いらっしゃい」

 庭の主ルーシーン。鼻を摘まんでの登場。


「おばあさま、なんですかこのにおい」

 アレブも鼻を摘まむ。


「ごめんなさいね。タラニスがちょっと……」

 ちらと茂みのほうを見やるルーシーン。



「ああーっ!」

 鳥のものと思われる声。……それから不快な音。



「……病気でお腹を壊してるみたいで、今朝からずっとあんな調子なの」

 ため息をつくルーシーン。息を吐いたら吸わねばならない。彼女はむせた。


「ルーシーン! 何か薬を持って来てくれよ! 止まらないんだ! それと掃除をしてくれ。汚くってかなわないよ!」

 情けない声が響く。


「あんた馬鹿!? 掃除したってすぐに汚すでしょう!? 鳥に効く薬なんて知らないわよ! ……くっさ!」

 先王ルーシーン。若き日のおてんばを彷彿とさせる罵声。


「助けてくれえ!」


「知らない! どうせ変なもんでも拾って食べたんでしょう? 自業自得よ!」

「きみが持って来てくれた馬肉が当たったに違いない! あれはちょっと変な味がしたんだ!」

「馬肉? わたしはそんなの持ってきてないわよ!」

 茂み越しに言葉を投げ合うふたり。


「……そういうわけで、ここにはちょっと立ち入らないほうが良いわね。何か用事だった?」

 ルーシーンが手で扇ぎながら訊ねる。


「ううん。朝の挨拶に来ただけです」

「そう、なら早く出て行ったほうがいいわね。私もマブかメイヴに何か良い薬がないか相談でもしてみようかしら。なんて、単にここから出て行きたいだけだけど……」

 王子は離れをあとにした。あんなまぬけな連中が何か企んでるとは考えにくいか……。


「ああーっ!」



 新鮮な空気を求めて、城の外周を散歩して回るアレブ。城は外壁で囲まれており、人の足では容易く侵入することはできない。

 あまり公言できないが警備も手薄で、たまに巡回の兵がぶらつくくらいだ。


 ……なるほど、ここなら内証の話にぴったりか。


 王子は堂々と鼻で呼吸しながら、誰も居ない外周を調査する。


「おや?」

 王子が見つけたのは顔なじみの巡回兵。


「何をしているんだ?」

 かがみ込んで土を弄っている兵に声を掛ける。


「おや? これは王子様。私はちょっとしたごみ掃除をしていたんですよ」

「今埋めたものを見せてもらっていいか?」

 鋭く言う王子。


「ええ、どうぞ」

 兵士は抵抗することなく立ち上がり一歩下がる。


 兵士は土の中に何かを埋めていた。掘り返す王子。それは種だった。


「種?」


「ええ。多分、アンズの種かなんかですね。ここのところ城の壁の内側によく落ちてるんです。誰かがいたずらで投げ込んだんでしょうよ」

 アンズの種。心当たりのある人物がひとり。アレブは面倒くさいような微笑ましいような気分になった。


「あっ、王子。微妙な表情ですね。私が勝手に種を埋めたの怒ってます? 外周が森になっちゃいますもんね。やっぱり外に捨てに行ってきます」

「いや、いつか干したアンズの砂糖漬けを食べたい。種は適当に埋めておくといい」

「そうですか?」

 兵士が種を埋め直す。


 王子は黒馬にまたがった。気分転換を兼ねて会いに行くのもいいだろう。


 城の裏手へ回り、そこから森へ。道ははっきりと憶えていたわけではないが、何故だか王子は迷わなかった。


 目的地のそばに近づくと、彼の鼻はいつかと同じような芳ばしい香りを嗅ぎ取った。


 季節はさらに歩を進め、北部以外でもすっかり雪化粧が施されている。

 たき火はしてないようだ。森の娘の住む小屋は屋根から雫を垂らしている。


「メーニャ? 居るか? 僕だ。アレブだ」

 扉を叩く王子。


「おかえり! アレブ!」

 元気良く扉が開かれる。臆面もなく抱き着く娘。……と、濃いにんにくのにおい。


「おかえりって、ここは僕の家じゃないぞ」

 苦笑いの王子。


「いいからいいから。あがって行って!」

 娘に手を引かれ小屋へと入る。中の様子は、最初に訪れたときと変わらない。若い娘がひとりで暮らすには広すぎる部屋。

 冬に似つかわしくない暖かさだったが、調度品はどれも寒げに佇んでいる。ゆいいつ、かまどだけが温かい火を提供していた。においの元もそこだろう。


「メーニャ。部屋を換気しないか? ちょっとにおうようだが……」

「やっぱり!? でも寒くって」

 娘は扉を開けに走る。


「いや、ごめん。良いよ。火を焚く薪だってただじゃないんだ。無神経だった」

 謝る王子。


「ごめんね。ずっと小屋にこもってたから、鼻が馬鹿になってて……」

 メーニャは申し訳なさそうに部屋の空気を嗅ぐ。


「……違う! そうだ、アレブは無神経だ!」

 娘の態度が反転。王子に掴みかかる。


「いきなりなんだよメーニャ」


「私を置いて帰ったでしょ! 酷いよアレブ!」

 王子を力いっぱい揺さぶる。


「ごめん。悪かったって。あんまり調子が悪そうだったから。それに、小屋に戻ってもひとりじゃまずいかと思って、コニアさんに任せたんだ」

「それは分かるけど、黙って帰るなんてあんまりだ!」

 まだまだ揺さぶられるアレブ。


 彼は魔女の小屋にメーニャを残して城へ帰っていた。

 コナ族の村での衝撃が醒めぬまま、城に潜む敵に挑む心持ち。若い友人を護るためにはそれが最良だと考えた。

 けっきょく、彼の調査は鼻が曲がったくらいで収穫は無し。気晴らしと称して娘の元へふらふらと戻る結末に終わった。


「あまり揺らされると吐いてしまいそうだ。小屋の中のにおいがもっと酷くなるぞ」

 揺さぶりが収まる。

「でも良かったよ。元気そうで。傷痕とかは残らなかったのか?」


 娘は腹に矢を受けていた。

「うん。傷のほうはスケルスがすっかり治してくれたの。すっきり跡形もなくなってるよ。見る?」

 服の裾を掴むメーニャ。

「え、遠慮しとくよ。また、いやらしいって言われるし……」

 たじろぐ王子。

「いやらしいって言ったかったんだけどなあ」

 にやつく娘。

「そうだ。スケルスといえば、種だ。きみ、これを投げ込んだだろ」

 ひとつ失敬してきたアンズの種を見せる。


「し、知らないよ。私、最近アンズなんて食べてないし。ここのところウサギもあんまり獲れなくなって、ちょっとひもじいくらいだよ……」

 力なく言う娘。落とした肩、何となく服がずれている。あらためて娘を上から下まで見てみるが、確かに少々痩せてしまっている気がした。


「どこ見てるの? アレブはほんと失礼だよ……」

 娘は身を抱いてあとずさる。


「食べれていないのか。いつもの肉の味付けのにおいがするけど」


「香辛料だけ炙って舐めてた……」

 白状する娘。


「意地汚いな。薪を売って街で何か食べればいいだろう。寒いからって引きこもっていてはだめだぞ。どれ、僕も城でもひとつ成果が上がらなくて身体が燻ってるんだ、薪割りなら手伝うよ」


「そういうことじゃないよ、アレブ……」

 メーニャは王子の理解が得られず、すっかり意気消沈した。長い銀髪が肩を垂れる。


 みそっかすにしたお詫びに、薪売りと買い出しを手伝うことを約束させられた王子は娘を連れて街へ馬を走らせる。

 腰に抱き着く娘は、頭巾で頭をすっかり覆い隠している。まるで魔女のように。


「ごめんね。この頭で街に行くの、本当に怖くって」

 馬上が揺れる度に頭巾から髪が飛び出す。


「謝るのは僕のほうだ。本当に、掛け値無しの無神経だ」

 馬を走らせる王子は心底申し訳なさそうに言った。


 城下町に入るとふたりは馬から降り、店に金を払い黒馬を預かってもらう。

 馬に結んでいた薪の束は娘の背中と王子の腕によって運ばれる。


「ねえ、やっぱりみんな見てないかな?」

 頭巾の隙間からあたりを伺う娘。


「見ている。でもこれは……」


「ちょっと」

 男が話しかけて来た。


「あんた、王子様だろう? 危ないぞ。この辺はぶらつかないほうがいい。井戸水にまた油の泥が混じったんだ。病気が流行ったとかなんとかで、みんな怒ってる」

 男の警告。


「……そうか。ありがとう」

 短く答えるアレブ。


「あんたが直接悪いわけじゃないってのは分かっているが……。ほら、特にあの睨んでいる女には気をつけろ。油で狂った子供に“覆いかぶさった”ばかりだから」

 目を赤くはらした女が王子へあからさまな「殺意」を向けていた。


 足早に進むふたり。


 注目は娘よりも王子のほうに集まった。

 もともとは露出が少ないほうであったが、行脚を繰り返したせいで、住人にすっかりと王子の顔は知れ渡ってしまっていた。

 彼自身も今さら隠す気は無かったが、連れの少女に視線がいかないかと冷やつかねばならなかった。


「ごく潰し」「がきんちょ」「気取りや」


 ときおり耳に飛び込んでくる稚拙な悪態。王子はちょっとだけいらいらした。


 悪口に混じって聞こえて来た近辺の情勢。王子が内偵に明け暮れていたうちにさらに窮状に拍車が掛かっていた。


 いよいよ調和派と克服派の衝突が激化。街の中でも乱闘が頻発。


 調和派の危険分子は墓荒しを決行。死者の冒涜。――石の下に縛るのは魂が哀れだ、俺たちが天に解放してやる。

 克服派の危険分子は森に質の悪い油や廃棄物の投棄を行った。森への冒涜。――森に信じるに値する心霊があるというのなら見せてみろ。


 子供じみた病の蔓延。実害による摩擦から、互いの信仰への侵攻。

 中立を守る人々も居たが、多くの人は孤立を嫌い、なに派だ、なに支持だと白黒付けたがった。


「みんな喧嘩だ……」

 娘が大きなため息をついた。


 広場の雑踏。意外なことに、ここは以前とさほど変わらなかった。

 露天商は飲食物や装身具だけでなく、議論も売るようになっていたが、表立って思想の違いによる刃傷沙汰は起こらない。


 なぜならば広場の管理者一派が克服派寄りだからだ。

 連中は街に根付いてる。本音はともかく姿勢だけでも街寄り城寄りにするほうが得というものだ。


 そして、彼らが克服派なのだから、調和派を気取れば店など出せない。

 中立や調和派の連中も、買い物のためなら克服派を気取った。できない者は街を出たらしい。


 皮肉にも、街の大動脈で幅を利かせていた連中は今も昔も国の秩序を護ることに一役買っていた。

 すれ違う人々、ふたりを振り返る人が次第に増えて来た。怪訝な視線。


「見られてるな」

 アレブはメーニャがはぐれずついて来ているかと振り返る。

 娘の頭巾から銀色の房。


「メーニャ。髪が出ているぞ。さっきから見てる人が多いと思ったんだ」

 口を尖らせ、髪を直してやるアレブ。



「私ね、考えたの」

 娘が頭巾を取る。露わになる銀髪と愁いを帯びた表情。



「お、おいメーニャ」

 慌てる王子。


「……いいの。大丈夫。きっと大丈夫。逃げたり隠したりするから、みんな怖いものだって思うんだ」

 メーニャが表情を変える。ざわつきを無視するかのような破顔。



「お肉食べに行こ。おばさんもきっと薪が欲しいから」

 娘はいつかのように王子をひっぱり、走りだした。


「メーニャ……」

 痛いほどに結ばれた王子の手。


 街の人々は銀髪の少女を噂する。

「呪いの再来か?」「魔女か?」「魔女にしてはまぬけ面過ぎるでしょ」「どこかで見たような……?」


「ちょっと!? アルメちゃん、どうしたんだいその頭!」

 肉屋のおかみがたまげた。


「えへへ。どうしたんでしょう……。私も分かんない。おばさん! 今日は薪を持って来たよ」

 娘は背負った薪の束を見せる。

「あ、ああ。薪はいくらあっても困らないからね。ちょっと、あがって行きなさいよ。ほら、みんな見てる」

 おかみは娘を急かす。


「アルメちゃん、あんただめだよ。何があったか知らないけど、そんな頭で出歩いちゃ」

 肉屋の中。心配するおかみ。


「最近姿を見せないと思ったら、出てこれなかったんだね? 薪は全部買ったげるからさ」

 おかみは娘の頭に頭巾を巻いてやる。


「大丈夫だよ。広場からここまで頭を出していたけど、何ともなかったし」

「そうかい? あたしにゃ、そうは見えないけど……」

 店先のほうを見やる。覗き込もうとする野次馬の姿。


「おばさん。肉串食べたい。今日はイノシシある?」

 気にせず娘は訊ねる。


「え? ああ、あるよ。ちょっと待ってね」

 肉の支度にとりかかるおかみ。


「なあ、メーニャ。食べたらすぐここを出よう」

 王子が言った。


「大丈夫だよ」

「大丈夫なものか。おかみさんに迷惑が掛かるぞ」


「髪が白いのは私だよ。おばさんじゃない。私だって何もしてない! だからみんな、何もしない!」

 かたくなな娘。


「彼女はきみに親切にしてくれたが、街の人たちが彼女に親切かどうかは別だぞ」

 野次馬だった男は、何やら店を指さしながら他の男と話している。相手の男は少し身なりが良い。


「広場の管理連中じゃないのか? メーニャ、もう出よう」

 娘の手を引っぱるアレブ。


「嫌だ。あの人たちはお肉を買いに来ただけだよ」

 かたくななメーニャ。ふたりのやり取りを見ておかみが作業を止める。


「何を意地張ってるんだ!」

「良いんだよ。あたしゃアルメちゃんが心配で……」


「おかみさん。僕たちを追い出すていで店の外に」

 王子が急かす。


「そんなことできるもんかい! 出て行くなら勝手口からになさい。裏手を通ればひと目は少ないから。……王子様。この子の事、頼んだよ」

 おかみは薪の代わりにと新鮮な肉をひと固まりと干し肉の束を包んでくれた。


 王子は礼を言い、踏ん張る娘の脇腹を抱えて勝手口へ行く。


「あひ! アレブ、くすぐったい!」


「仲良くするんだよ」

 見送るおかみの声。


 裏路地。娘を引きずり出した王子が向き合い、娘の両肩を叩く。


「メーニャ。知人のところに寄るのはよそう。頭巾も外すな。街のことは僕が必ずなんとかする。食料は手に入ったし、今日はもう引き上げよう」

 諭すアレブ。娘は口をとがらせて返事をしない。

 王子は額を押さえる。


 ――メーニャはいったい何を考えてるんだ。


「よし、アレブ。次はご飯食べに行こ!」

 娘は頭巾を外すと王子の手を握り、またも走り出した。


 ――ほんとに何考えてるんだ!



 裏路地を駆け抜け、顔なじみの経営する料理店へ。

 王子は娘を無理やり止めるかどうか悩んだ。


 さっき言ってた彼女の理屈はすでに破られている。

 彼女が人々の心の何かで苦しんでいるのというのはなんとなく分かる。だが、何の目的でわざわざ危険を冒しているというのか。


 街から離れているのが長かったせいか? 顔見知りに会えば落ち着くか?

 今は昼下がりの半端な時間だ。ュエさんの店ならあまり客が居ないか?


 娘に引っ張られながら、王子は思案する。


 彼の頭が答えを出す前に、鼻が新たな疑問を提起した。



 ――何のにおいだ? 焦げ臭いぞ。



 手を引く娘の足が止まった。


「……えっ?」

 立ち尽くす娘。


 店があったはずの場所。そこには客はおろか、古ぼけた建物も、愉快な顔をした異国なまりの店主の姿も無かった。

 あるのは焼け落ちた柱と、煤けた石窯だけ。


「火事、か……?」

 アレブが呟く。別の可能性を強く感じながら。


「どうしちゃったの? ュエさんはどこ?」

 焼け跡に入りあたりを見回すメーニャ。


「なんで、どうして……」

 焦燥する娘。彼女の街に出るときにだけ履く靴が黒く汚れていく。


 王子は焼け残った調理器具や家財道具がそのまま放置されていることに気付いた。燃えたとはいえ、これらは貴重な財産だ。


「何してるの? 勝手に入ったら怒られるよ」

 子供の声。小さな子供。見覚えのある、店に負けず劣らずぼろぼろの。


「メーニャの知り合いか。ここで何があったか知らないかな?」

 王子が優しく訊ねる。


「ここのよその国の悪い人のお店だから、燃やされたんだよ」

 子供が言った。


「そうか、やはり……」



 ――人間は愚かだ。きっと店主は何も悪い事をしていなかっただろう。



 王子は腹の底が煮えくり返る思いがした。異国人を祖父に持つ料理人ュエの人柄は知っている。

 娘に紹介されたときだけではない。調査や行脚を繰り返していた彼にとっても行きつけとなっていた。


「ねえ、おねーちゃんたち、知らない?」

 子供が訊ねる。そういえば、彼には似た歳の女の子と少し歳の離れた姉がいたはずだった。


「ごめん、見てないな」

 迷子になったのだろうか。


「そっか。もうずっと前から居ないの」

 男の子は眉ひとつ動かさず言った。


「おにいちゃん、メーニャおねーちゃんのお友達だよね。メーニャおねーちゃんは、今日は居ないの?」

 訊ねる子供。


「何言ってるんだ、メーニャならそこに……」


 王子が焼け跡を振り返る。


 灰と瓦礫の山。裏路地の子供に負けず劣らず汚れた娘。


 風が吹いた。

 巻き上がる黒い煤と、風に煽られたなびく銀髪。



 彼女は静かに泣いていた。



「あのおねーちゃん、だあれ?」



***

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