.20 剣と牙
宴は夜が更けてからも続いた。
あたりは食べものと酒のにおいで溢れ、酔いつぶれた人がその辺に転がっている。
「うふふ。見て、アレブ。きれいな火だよ」
メーニャが燭台の皿に点けられた火をみて笑う。照らされる顔は鼻まで赤い。
「なんだか、変ら臭いのする火だな」
アレブが鼻を鳴らす。彼も薄く頬を染めている。
「ひっく。変な色の水が燃えてる! 水なのに燃えてる! あはは! 変なの!」
燭台を指さしげらげらと笑うメーニャ。
「それはね。燃料になる泥から作った水なんだ。においは酷いが、よく燃える。……ぼうっ!」
男が説明する。こちらも酔っ払いだ。
「はぇー。便利れすね。これがあれば、むやみに木を伐らなくても済む」
王子が笑う。呂律が怪しい。
「ここだけの話、うちらの族長は燃料のたんまりとれる場所を知っているんだそうだ。
だからこんな小さな集落でも、豊かにやっていけている。占いでありかを探り当てたんだ。
夢占いだ。今日のお昼も精霊からのお告げを聞くために、屋敷にこもられっぱなしだった」
「お昼寝だと思ってた」
メーニャが言う。
「森に巫女や呪術師はたくさん居るが、夢占いができるのはうちのベリサマ様だけさ。立派な酋長だよ。彼女が酋長になってから、暮らしぶりが良くなった。ベリサマ様様だよ。ベリサマ様様!」
男はふらふらとこぶしを突き上げた。
「ベリサマ様様!」
酔っ払いの娘もこぶしを突き上げ繰り返した。
「メーニャ、ちょっと飲み過ぎじゃないろか。まだ子供のくせい……」
王子が娘の肩をつかむ。
「アレブも子供でしょ! 飲み過ぎじゃん。なに言ってるか分からないよ」
娘も王子の肩をつかんだ。見つめ合うふたり。
「よっしゃおまえら、ちゅーしろ、ちゅー! そしたらおとなだから、問題なしだ」
男が囃し立てる。まったく遠くで騒ぐ連中も、ちゅーちゅーうるさくした。
「よっしゃアレブ! ちゅーだよ! ちゅー!」
メーニャの顔が迫る。
「無理、恥ずかひい」
少年は娘から手を離し顔を覆う。
「わかるう」
少女も身をくねらせる。
「なんだおまえら、酒が足りてないんじゃないのか?」
男が瓶を傾け、ぐいと酒を飲む。がはは!
「酒より、水が欲しい……」
王子はよろけて燭台の下に跪く。
「アレブ、お水!」
メーニャが水を持ってくる。桶からたっぷりの水が王子の頭に掛けられた。
跳ねる水。水滴が燭台の皿に飛び込み炎が揺らぐ。
「いやったぁ。お水だあ! ってメーニャ!」
ずぶ濡れの王子が娘を叱る。
「あはは! 怒った! 酔いは醒めた? 王子様!」
無礼を働いた娘は笑い続ける。
「いいぞ! お嬢ちゃん! 大物になるぞ!」
酔っ払いの男も大うけだ。
「まったく、慣れない酒なんて飲むもんじゃないな……」
王子は頭を振った。カナリア色の髪から派手に散る水滴。
「……?」
アレブは目を凝らした。村の端。光の届かぬ闇の一点。……何も見えない。いや、何かが動いている気がした。
アレブは鼻を鳴らす。混じりあったにおいのなかに、酔いの立ち去るものを見つけ出した。
――獣のにおいだ。
「どうしたの王子さん。なんか居たのかい?」
酔っ払いが小屋の壁からたいまつを外し、王子の見つめる先に歩いて行く。
炎に照らされたのは大の字に倒れた女と、
……そのはらわたを食い破ったオオカミ。
「なんてこった!」
たいまつを取り落とす男。ひとつの黒い影が彼の前を駆け抜ける。
「オオカミだ! オオカミが来たぞ!」
少年が警告する。
オオカミは村の中へ、ずいと入り込むと鼻をニ度鳴らした。
「祝いの夜を邪魔しやがって!」
いち早く気付いた村の戦士たちが駆けつける。各々の手には自分の槍。
灰と砂の毛皮の表面を、骨で作った穂先がかすめる。続いて錆鉄の穂先。これもするりと潜る獣。
戦士たちの刺突を潜ったオオカミは、攻撃者へは目もくれず、一軒の枝小屋に飛び込んで行った。
揺れる枝小屋。獣のひと唸りが漏れ、静かになった。
男たちの槍が小屋を囲う。
戦士のひとりが暖簾を槍で捲った。
再び黒い疾風が飛び出し駆け抜ける。
中に残されていたのは、夕方大人の仲間入りを果たしたばかりの少年。……喉元を真っ赤に濡らして。
女の悲鳴。戦士以外も騒動に気付き始めた。夏を演じた村に寒風吹き荒れる。
オオカミは赤い鼻先を悲鳴の元へ向け、大きく唸った。
追いすがる槍先が逆立った毛を散らす。またもオオカミは戦士に目もくれず飛んで行く。
女のふくらはぎが食い破られる。絶叫。男たちの怒号。
寒き森のオオカミ。人間並みの巨体を持ちながら、その的は一向に射貫かれる気配はない。
猛り勢いづいた獣は多くの者へ牙を立てた。
雪が降る。天から舞い降りる白い雪。地から吹きあがる赤い雪。
真冬の夏を演じるオオカミ。今度は誰でも狙った。戦士、逃げる者、老若男女問わず。
生死も問わず、ただ傷つける為だけに。たった一匹だけで。
血濡れの毛皮。焔と恐怖に包まれた地獄が、“彼女”をさらに赤く染め上げる。
子供を隠そうとする女が居た。背に爪を立てられ身をよじる。露わになる子供。それは四十二本の武器に頭を挟まれ、酷く揺さぶられた。
魔物の脇腹を、じゃりと擦る音。ようやく届いた槍のひとつ。子供は放され、頭を押さえて悶える。
手負いのオオカミ。狡猾剽悍。成熟した一番槍の戦士を無視し、相応しい獲物へと舵を切る。
燃えるような騒動に立ちすくむ娘。酔いは醒め、足は杭のように地に深く刺さり、動かない。
血を撒く魔物には獲物の出自など見分けられるはずがない。
狙われるは客人。小麦の肌、黒き髪。
娘の両のまなこが映しだす、牙を剥いた獣。そして疾く走る金の翼。
森に根付いた村に相応しくないつるぎが獣の身体を舐める。
やいばは毛を薙ぎ、皮を斬り、脂を散らす。だが、今の“彼女”に痛みは無意味だ。
「これ以上、勝手をさせるか」
確かに喉元を食い破ったはずの仇と見紛う影。憤激、復讐の飢狼。激しく牙を剥き、血泡と共に涎を吹き散らす。
剣を構える王子。一対の翡翠が、連れ合いを狙った魔物と対峙する。
振り切られる王者の剣。銀のやいばが敵の鼻先を掠める。跳ぶオオカミ。
――速い! 違う! 酒が身体を鈍くしている。
王子は身をよじり飛んだ。
冬を目前とした野生の重みが、顔のあった場所を飛び越える。振り返る王子。
敵はすでに二度目の跳躍。王子の足首が悲鳴をあげ、持ち主を地面へと引き倒す。
幸か不幸か。それが突進をかわさせ、毛が顔を撫ぜるだけに終わらせる。
「目が!」
不幸。人の血を吸った毛。王子は暗闇に落ちる。
――土を叩く飢狼の爪音。
――死を告げる唸り。一瞬の静寂。
――生臭い獣の吐息と、いくさ帰りの父のにおい。
半ば無意識に突き出された王子の腕に、肉をかき分ける感触が伝わる。
満たされるつるぎ。腕に伝う暖かいもの。
憎き香りが力なく王子に覆いかぶさる。
むせ返るような地獄の中、少年の意識は闇に呑まれていった。
***