.14 双頭の鷲
王子行方不明の騒動。空を探す愚かな者は居ない。
その日は誰も見上げなかった。城の付近を巨大な鳥が飛んだというのに、気付くものはなかった。物見の塔からは見張りの兵も下げられていた。
離れのあるじ、ルーシーンは庭へ出る。
壁に囲われた美しい庭。よほどの嵐でもない限り、風が楽園を煩わせることはない。
ルーシーンは空を見上げる。
青い瞳に映るのは満天の星空。無限の星々。星屑の海から見下ろせば、老女も少女も大した違いは無いのかもしれない。
――空に星を隠すものあり。それは闇の影か。
――木々を揺らす風が来る。それは嵐の前触れか。
中庭に木の葉が舞い上がる。秋爽。降る葉に混じって枯れ葉色の羽ひとつ。
かつてこの国を狙う者を畏れさせたいくさの種。伝説の怪鳥。
「タラニス」
ルーシーンは庭に下り立つ神鳥の名を呼ぶ。
「……久しぶりだ」
巨大なくちばしから発せられる言葉は人語で、それは彼女の耳にもしっかり届いた。
「元気だった? あなたは暖かいわね」
鳥の胸にうずまるルーシーン。
「この国は来るたびに寒くなっている気がする。昔は冬なんて、寝ているあいだに過ぎ去ったものなのに」
かつての王と神鳥。出逢いは遥か五十年前。ルーシーンが今のアレブと同じ年だった頃。
祭司長が己の計画に協力させるため、いたずら盛りだったルーシーンのお守り役として呼び寄せた同族。
身体のどこかに不思議な種の埋まった生物。それがタラニスだった。
彼は怪鳥として方々で幅を利かせ、宝を集め、馬を縊り殺し、人間に挑まれ返り討ちにし、人間を愚かだと嗤っていた。
彼は孤独だった。だが友を得た。
半ば押し付けられた形とはいえ、若い娘とのふれあいに、獣としての心が鎮められたのだった。
神樹と祭司長が国民を裏切り、国が滅びたあともタラニスは残った。
巨鳥は「国」や「人間」についたのではなく、ルーシーンに仕えた。
友の願い通りにいくさに赴き敵兵を殺し、各国各部族への交渉の際には王である彼女を乗せ、伝説と共に舞い降りた。
破天荒な女王と一騎当千の怪鳥。周辺国はふたりのことを“双頭の鷲”と呼び恐れた。
双頭の鷲の擁する国の土地はひ弱だった。
作物が育たぬならば獣を狩り乳を搾り、雪が国を閉ざせば火を起こし毛皮や羊毛で身体を包んだ。
自然を制し、それと同時に恵みへの感謝は怠らなかった。
女王は周辺部族の力を借り、武力を手に入れ、鳥や蛮勇の戦士たちと共に外敵から国民を護ったのだ。
すべてうまくいっていた。むやみに国土は広げず、ともがらである周辺部族も独立した存在であり続けた。
しかし、伝説の巨鳥は小国が持つには大き過ぎる力だったのだ。
タラニスの存在は諸国の王の野心を刺激した。護るための炎は、戦禍の火種でもあった。そして鳥は、己が争いの種であると自覚し、彼女の元を離れた。
――それから四十年。
「塔の上の合図を見た」
鳥が呟く。
「よく気付いたわね。いくらあなたの目が良いとはいえ」
顔を離し、猛禽の顔を見上げる先王。
「たまたま近くを通ったんだ」
「ちょっと前に、雪が降ったものね。あなた、天気が悪い夜にこっそり様子を見に来ているでしょう?」
ルーシーンが微笑む。
「気のせいだろ」
鳥はそっけなく言った。
「あら、噂になっているのよ。四十年も前から。嵐の日には稲光が神鳥の影を映すって」
「勘弁してくれよ。雨で身体を洗っていただけだ」
「そういうことにしておいてあげるわ」
暖かい溜め息。目じりに優しいしわが寄る。
「老けたね、ルーシーン。昔のきみは美しかった」
タラニスがぼやいた。
「まあ、酷い! そりゃ人間ですもの。そう言うあなたは、変わらないのね」
顔をほころばせる老女。
「まさか。ぼくもぼろぼろさ。羽につやは無くなったし、爪だって抜けやすくなった」
巨鳥は翼を広げて見せる。まるで大樹の枝のようだ。ルーシーンにはそれが昔よりも大きくなったように見えた。彼女が小さくなっただけなのかもしれなかったが。
「それでも、立派だわ」
羽を撫でる老女。滑りの悪い羽毛。指先の記憶が時の経過を訴えた。
「物覚えも悪くなった。百年前の事はもう思い出せないよ」
「それは、ちょっとまずいわね……」
ルーシーンは少し困ったような顔をする。
「別に構いやしないだろう? きみが生きているうちくらいは、全部憶えていられるのだから」
鳥は甘い視線で人間を見つめた。
「あなた、少し変わったわね。今度呼びつけたのは、その昔の事に関わる話なの」
女の眼は緩まない。
「そうだった。どうして、わざわざ合図をしてまでぼくを呼んだんだい? 何か大事な用があったんだろう? 手早く済ませたほうが良いかい? 今晩は天気が良い。誰かに見られたかもしれない」
巨鳥は声を潜めて言った。
「見られても構わないわ。あなたはこの国の象徴なのよ。今、この国は再び危機を迎えている。国民をまとめ上げるために、もう一度あなたの力を貸してちょうだい……」
かつての王の頼み。
「あまりいい考えとは言えないね。ぼくがここから出て行ったのは、ぼくが争いの種になるからだ。国をまとめることができたって、別の問題が起きる。ぼくですら数十年前のことを憶えてるというのに、きみは忘れてしまったのかい?」
鳥は困ったような顔をした。
「そうね、タラニス。あなたの言う通りだわ。でもね、人々もまた、大地への感謝を忘れてしまっているのよ。自分たちが自然と共に生き、自然に生かされているということを」
ハイクのいくさと自然克服派の森の焼き討ち。日中にルーシーンの高い壁からも、森を焦がす黒煙が目に入ることがある。
「大地への感謝……か。空で生きるぼくに、その役が務まるかは微妙に思えるけど」
「そうね、あなたはもともと、宇宙から来たんですからね」
種の出どころ。怪鳥に寄生したタラニスの本体。
「宇宙? 何を言ってるんだい? まあ、きみの頼みなら何でもするよ」
鳥は首を傾げた。だが、つやを失った胸を張って答える。
「……あなた、忘れてしまったの? あのね、わたしがあなたを呼んだのは、つい先日、あなたのつがいだったかもしれない“種”の持ち主が現れたからなのよ」
「つがい? 種?」
タラニスは再び首を傾げる。
「本気で言っているの? 冗談ではなく? あなたはずっと探していたでしょう?」
ルーシーンの顔が曇る。
「こんな鳥、他に居てたまるかよ。ぼくは翼の国の象徴、神鳥タラニスだ。かつて他国に双頭の鷲の片割れとして畏れられた伝説の生物さ」
タラニスは誇らしげに笑い、そして見知らぬつがいを嗤った。
「じゃ、じゃあ、あなた。この四十年はいったい何をしていたの?」
明らかな焦燥。
「……? 寝床に良いにおいのする生木を置いたり、気に入らない馬を縊り殺したり、雨の夜のたびにここに様子を見に来たり?
でも失敗だった。晴れたときにも来れば良かったんだ。
いくらぼくの眼が良いとはいえ、雨の夜に壁の中に居るきみの顔は見られないから。
せめて親友の老いて行く様子くらいは焼き付けておくべきだった」
タラニスは残念そうに言い、頭を垂れた。ルーシーンの額に暖かい息が掛かる。
「ちょっと待ってよ! つがいの相手を探すために国を出たんじゃなかったの!?」
声を荒げるルーシーン。
「知らないよ。国に良くないから出たんだ。了承は得ただろう? きみが何を怒っているのか分からないな」
いよいよ困惑する巨鳥。
「わたしがあなたが国から去るのを後押ししたのは、つがいを探してもらうためだったのよ!? あなたにとってそのほうが良いからと思って、我慢して別れたのに!」
老女は娘の声を張り上げた。鳥はたじろぎ、半歩下がる。
「ご、ごめんよ、ルーシーン。怒らないでくれ。ぼくは本当に、分からないんだよ……」
哀しそうな声。友人に叱られたから。友人が自分に怒りを向けているから。
しばしの沈黙。
鳥は人間が言葉を紡ぐのを待った。彼にはそれが四十年の長さに思えた。
「……いいわ。とにかく、近いうちにあなたへお客さんが来るわ。それまで、ここに居てちょうだい」
ルーシーンの顔は厳しい。
「分かったよルーシーン。ぼくはしばらく、この庭で昼寝をして過ごすことにしよう」
それでも鳥は嬉しそうに言い、大きなあくびをした。
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