.1 少年と書物
多くの本が収められた棚の並ぶ部屋。
少年はそこから一冊引き抜き、机の上に開いた。
――遥か昔、一本の樹を神様と崇めている国がありました。
天に届くほどの立派な楢の樹。国中を走る木の根は土を豊かにし、恵みをもたらしています。
人々は神樹や自然に感謝をしていました。しかし、悪い事がいくつも重なって起き、彼らから他人を思いやる気持ちや信仰心が失われてしまったのです。
それに怒った神樹は毒を吐き、土を腐らせ、井戸を枯らせました。
そのうちに人々は戦争をしました。多くの人が殺し合い、戦いの犠牲になりました。
いくさではどこからともなく巨大な鳥が舞い降り、人々を見境なく殺しました。戦いの果てに神樹も死んでしまいます。
王が巨鳥を制し、その威光で人々の争いも収めました。
多くの人が死に、大地も腐り、弱った国に冬が訪れます。長い長い冬です。
神樹を失った彼らは、自分たちの力でなんとかしなければなりませんでした。
王は国民に友情の大切さを説きます。
そして王に従う人々は互いに手を取り合い、冬を乗り越えました。
「ばかばかしい」
少年は本を棚に戻す。
現実離れした記述。巨大な樹? 巨大な鳥を王が従えた?
権力者を持ち上げるためのよくあるでっちあげ。魔法が図ったかのように人を苦しめたり助けたりし、魔物は英雄に倒されるか、王にかしずく。
書や文字というのは、事実を確実に後世に伝えるためにあるのだ。
口伝のように聞き間違えたり、人の意思によって容易く改ざんされるべきものではない。
少年はため息をつく。
――これはただの伝説だって? そうじゃないんだ。そりゃ、嘘っぱちは嘘っぱちだろうけど。
少年にだって創作と歴史を見分けることはできる。それでも、彼はまだ子供だ。そういうおとぎ話も嫌いではない。
ため息の理由は別のところにあった。
この本の著者が内容で持ち上げられている王、その人。
今は王位を退き、後見人として現王の政治を手伝うくらいであるが、かつて才腕を振るい、今のこの国の基盤を作ったとされている。
少年はそのかつての王を尊敬していた。それだけにこの本を見つけたときにはがっかりした。著者自身に真偽を確かめに行って、食って掛かったほどだ。
「魔法なんてないでしょう?」
少年はそう言った。かつての王はそれにはあっさりと同意した。
「これはでたらめを書いたものなの?」
少年は訊ねる。かつての王は首を振り、本当にあった事だと言った。
これが幻想で無ければなんだというのだ。かつての王は少年にはそれ以上、何も教えてくれなかった。
煙に巻かれた少年は、他の者にもこの話の事を訊ねてまわった。
老人はみんな、「本当にあったことだ」と言った。
他の者の半分は、「老人の作り話だ」と言った。
老人はまるで見ていたかのようにそのときの事を話して聞かせるのだ。しかも人によっては、本に出てきた神樹や鳥を良く言ったり、悪く言ったりした。
人の言葉なんてあてにできない。
少年は書庫を漁り、納得のいく答えを探した。書庫には国内外の本が収められている。ほとんどは外国のものだ。この国で書かれた本は数えるほどしかない。
なぜならば、この国は文字を使うようになってからまだ歴史が浅いからだ。
そのうえ、国内の書はさっきのような“でたらめ”で埋もれている。
実用的なものは農耕、薬学、建築に関する技術の記録だけだった。
その多くはかつて王の教育係を務めた男が記したものだ。だが嘆かわしいことに、その男すらも世迷言の書を一冊残していた。
外国の記述もほとんど嘘っぱちと幻想で固められている。
暇つぶしくらいにしかなりゃしない。それでもこの国の“でたらめ”よりは良い。
同じ“でたらめ”でも、こちらは魔物が火を吹くし、英雄が剣のひとふりで巨人の首を落とすし、天から神が降りてきて島をこねくりまわしたりするのだ。
――伝説というものは、場所や人物の名がはっきりしているぶん、神話やおとぎ話よりもたちの悪い嘘だ。
少年は世迷言の書を机に放りだしたまま、書庫をあとにした。
少年が書庫の施錠を済ませる。……と、そこにひとりの女が駆けてきた。
「アレブ様。国王様がいくさからお戻りになられましたよ」
教育係のマブだ。
「そう。父上はまた人を殺してきたんだね」
少年の口の端が歪む。
「そんな風にをおっしゃるべきではありません。ハイク様はこのお国の為を想って剣をお取りになっていらっしゃるのです」
教育係が窘める。
「そういう手段が必要なこともあるのは理解してる。でも、父上は深い考えも無しに戦っているようにしか見えない」
少年は口調を和らげない。
マブはまたかと言った調子で肩をすくめると「お呼びでしたからね」と言い残し去って行った。
少年の名前はアレブ。
この国の王の息子。本の記述者、先王の孫である。つまりは王子というわけだ。
彼は今年で十五を迎える。この国では十五歳を迎えると大人として扱われる。
正式な話はまだ出てはいないものの、立場上いつでも王位を継げるようにしておかねばならない。
本来なら現王の存命中にそういう話を開け広げに行うのは、不敬な行為だと言われるだろう。
だが、この国の王ハイクはいくさ好きで、自ら戦地に赴き先陣を切る豪傑だった。
かれこれ三十年は剣を振るってきたが、今のところ彼の生命が危ぶまれる事態には陥っていない。
とはいえ、王本人が「俺がいつ戦場で果てるとも限らんから」と王子に継承の準備を進めさせていたのだった。
少年は再びため息をつくと、王の待つ玉座、謁見の間へと足を向けた。
遥か昔、“翼の国”と呼ばれる国があった。
列強国たちの狭間にある小国。そこでは巨大な猛禽を神と崇め、人々は大地を克服し、空に想いを馳せて生きていた。
翼の国はあまり豊かではない。土地も砂が多く肥沃とは言えなかったし、周りは鬱蒼と茂る森に囲まれていたし、多く様々な部族との諍いが絶えなかった。
これといって金目のものも産出しない。そのうえ、冬は雪に閉ざされ、西風が吹けば遠方の砂漠より砂が飛来する過酷な環境であった。
この国には幾度も試練が襲っていた。飛砂害、作物の疫病、井戸の干上がり、きまぐれな寒さによる雪解けの遅れ。
それら様々な要因の絡んだ飢饉。飢饉はまるで自然が、この国の人間に対して己の力を誇示するかのように見えた。
――人々は自然を敵とみなした。
火で雪を溶かし、麻で作った砂除けで作物を護った。山を掘り、石を焼き、鉄を溶かし、木々を切り倒して自然に抗った。それでようやく生き延びた。
黄金を持てばどの国も門を開く時代だ。そんな中で黄金が採れず、大地も弱い翼の国が生き残るには、鉄と血を持った行いのほかに手立てはなかった。
草を食む生き物を支配し、肉を食むものは人だろうと獣だろうと殺した。
書物が生まれ、理知の芽が育ち始める時代。蛮族は大義名分のもと、大国に討たれるさだめにある。
翼の国も例外でなく遠方の“書物を重んじる教義の国”に目をつけられていた。
さいわいなことに、翼の国の軍団と周辺部族は屈強であった。王の血縁にあたる同盟部族たちも蛮勇名高き連中で、外敵を寄せ付けなかった。
王はべつだん、その書物の教義が気に入らないわけではない。大国の庇護を受ければ暮らしも楽になるだろう。
大国は拡大を続けている。いくさにだって事欠かない。合併されても彼の血の渇きを満たすのも容易いだろう。
それでも従わずに抗い続けているのは、それは彼らが自由と克服を愛する“翼の国”だからだ。
翼の国の伝説。王子アレブが紐解いた本の通り。
かつてこの国は、鳥ではなく一本の大樹を崇める自然を愛する国で、神樹の死と戦争で滅亡の危機に立たされた。
戦乱の中、計ったかのように現れた怪物。鋭い鷹の眼とくちばし、鉤爪を持った巨鳥。これが人々を殺して回った。
当時の王はそれを制し、従えたのだ。巨鳥とその背に乗る王を称えて名付けられた新しい名が翼の国だった。
少年が吐き捨てたように、これはよくあるおとぎ話のたぐいに思える。しかしその伝説が事実として語られるには理由があった。
著者にしても、当時の目撃者にしても、いまだ存命だということ。
その歴史的出来事からまだ五十年余りしか経過していないからだ。
大自然の象徴たる神樹を袂を分かち、自由と克服の象徴たる神鳥に向けた尊敬と畏怖。
それが色濃く残るのは記録や伝承への信仰心のためではなく、「記憶」のためだった。
当然、それが事実だというのならば、神鳥やそれに由来するものが無ければならないだろう。
「証拠」というものだ。だが、神鳥はあるときを境に何も残さずこの国から去ったという。
その後もときおり目撃されることもあったらしいが、それは噂の域を出ない。
老人は事実として知っていても、子は親からの教えとして知り、孫になれば伝説。伝説も、場所や時期があいまいになればただのおとぎ話である。
孫の世代である王子がこのような態度をとるのも当然だろう。
そして、子であり親でもある世代。
「父上、おかえりなさい。お勤めご苦労様です。今日は何人殺しましたか? 内訳はどうですか? 女は何人? 子供は何人?」
玉座の鎮座する赤い絨毯の部屋。王子アレブが「労いの言葉」を掛ける。
「数えていない。生死は知らぬ。性別も、歳もな。此度のいくさは蛮族の殲滅、根絶やしが目的だ。奴らは何やら遥か昔よりの禍根を持ち出して、我が国の民を捉えて奴隷として貶めた大罪人だったからな」
国王ハイクは腰の剣を撫でた。
「奴隷、ですか。ならばこちらも女子供は斬り捨てずに奴隷にでもすれば良かったのでは? そのほうが道理にも人道にも適うと思いますが」
口元を釣り上げるアレブ。
「はっ。嘘を申すな。目が笑っておらぬぞ。それに我が国では奴隷は禁じられておるだろう。先王が厭うておる。あれが存命のうちはな」
ハイクは吐き捨てるように言った。
「やはり人殺しには人の心が無いと見えます。じつの母親を“あれ”などと」
アレブが言った。
「あれは若き頃より世迷言を言う女だった。愛だの友情だの。神の樹だの神の鳥だの。俺は目に見えぬものは好かん。それらが敵を殺してくれるのか? 森を切り拓いてくれるのか? 家畜を肥えさせてくれるのか?」
王の問いかけ。少年は答えない。
「お前は若い。反抗も結構だが、近く成人を迎える。王位が移ればこの国はお前のものだ。俺はお前の考えを否定しない。だが、その考えで本当に民を護ることができるのか、甚だ疑問に思えるのだ」
父の眼は天井を眺めている。
「争い続け、殺し続けることが正解とも思えません」
王子は突っぱねた。玉座からのため息。
「この問答も何度目か。それで、お前は答えを見つけることができたのか? それの見つからぬうちは、お前もいずれ、剣に頼ることになるだろう」
王は王子の腰の剣を指さした。
「私は人を斬りません」
アレブの腰には翼の飾りのついた剣が携えられている。
「決意は結構だが、剣とは攻め滅ぼすためだけにあるものではないぞ。あれの言う愛と友情。
それも、相手無くしては成らぬことだ。友を護るのにも必要なものだろう。
もちろん、己の身を護るためにもな。アレブよ。剣の鍛錬は怠るなよ。俺はもう休む」
そう言うとハイクは息子を手で払い、自室へと戻って行った。
アレブは悩んでいた。これから継ぐことになるであろう翼の国。彼はこの国の現在のやりかた、父である現王ハイクのやりかたを嫌っていた。
血と鉄による解決。それは多くの死を呼ぶ。死とは終わりだ。
いくらこの国が戦争に長けているとも、墓石の数は増えつつある。そのうちに大地は死者の霊魂で破裂してしまうだろう。
この国では、人は死ねば地の下に埋められ、その上に名を刻んだ石を置かれる。そして、死者は霊魂となり地の下で新たな生活を営むと言い伝えられている。
少年はかつて墓を暴いたことがある。そこには死後の世界は無く、ただ腐った肉と骨が取り残されていただけであった。
先ほどの奴隷に関する彼の発言は、嘘ではなかった。生きていれさえすれば、まだ幸せになる機会を掴めるかもしれない。そういう考えがどこかにあった。
国を継いだら今のやりかたは変えるつもりだ。しかし、どう変えればいいのか分からない。父に対する答えを見つけるには、口うるさい教育係や書庫の本だけでは到底足りないのである。
――王子の知る世界はいまだ狭い。
彼は玉座の間を後にし、城の離れへと向かった。
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