恋しい
あの娘には彼氏がいる。彼の話を楽しそうに話す。今度同棲を始めると言う。
私は微笑んで相槌を打ちながら、この娘を手に入れる事は一生出来なんだなあと思う。この娘には、この娘の人生がある。
でも、彼女が欲しい。毎日、私に向って微笑んでほしい。それだけでいい。話してくれなくても、触れられなくてもいい。ただそこに、近くに居てくれるだけでいい。
絵を描いてみた。彼女の顔だ。絵には自信がある。時間をかけて何度も書き直して、満足いくまで描いた。すると、顔だけだがそれらしい肖像画が出来た。もちろん微笑んでいる顔だ。それを壁に飾り、毎日眺めていると心が落ち着いた。
でも、絵は一定の方向しか見えない。後頭部も横顔も、体のラインだって私は好きなのだ。絵では表現出来ない。目も髪の毛も香りもえくぼも、長い手足も八重歯も、ちょっと濃い化粧も。その辺にいる若者だと言われればそうかも知れない。でも私には特別だった。ミルクティー色のミディアムボブの毛先を内側に巻いて、彼氏に貰ったという指輪を左薬指にはめて。きれいな色の長い爪、優しい、可愛い声。
灰色だった私の生活が、彼女に出会って変わった。暗くて地味な私の事を、彼女は慕ってくれた。
そのまま固めて、腐らないように年老いないようにして、微笑んだまま毎日私を眺めてほしい。
ずっと、そばに居てほしい。
彼女の携帯が鳴った。画面を見ると男の名前だ。彼女の彼氏かも知れない。私は通話ボタンを押す。
「もしもしリサ? もう帰ってる?」
若い男の声。
「もしもし」
返事をした。
「… 誰?」
急に、不穏な空気が携帯電話越しに届く。
携帯の主は電話には出られない。足下で舌を出し白目をむいている。首を絞めたからだ。
「職場の同僚の者です」
冷静を装ってそう答える。さっきまで彼女の首に巻いていたベルトを左手に持ったまま。まだ少し腕が震えている。
「あ、そうなんですか。リサは…?」
まだ不信感を拭えない男は聞いてくる。
「今日飲み会だったんですけど、リサさん酔ってしまって。電話も出れない状況なんですよ」
さっき呼吸が止まるのを確認した。
「そうなんですか。ご迷惑をかけてすいません」
彼からふっと不信感が取れた。
「今日は店から近い同僚の家に泊めてもらう事になったんですが、いいですか? あの、失礼ですがリサさんの彼氏ですよね?」
あなたの彼女はもう帰ってこないですよ。ふとそう言いたくなる。
「ええ、そうです。リサは僕の話してるんですか?」
「ええ、よく聞いています。どんな方か皆会いたがってますよ」
そうなんですか、と彼は照れたような返事をし、もう完全に不信感はないようだった。
「じゃあ、リサをよろしくお願いします」
そう言いわれ、電話を切った。その安心しきった声に嫌気が差す。何にも疑わないのか。私が誰かも分からないくせに。こんな男の事をあの子は愛してたの? 愛し合っていたの? 馬鹿みたい。
その時、携帯でテレビ電話が出来る事を思い出した。時々、さっきの馬鹿な男と顔を見せ合って話していた彼女の姿を思い出す。
改めて彼女の顔を見る。
何故だろう。全然可愛くない。舌は戻そうとしても戻らないので切った。どうにかベッドに座らせて、背中に布団やクッションを積んで倒れないように固定した。目は触ってみるとどうにか動いて私の方を向いた。けれど口の端から拭いても拭いても血が流れる。化粧も乱れた。どうして可愛くないんだろう。あんなに大好きだった顔なのに。死んでしまったら、人間ってただの肉の塊だ。
馬鹿な男の電話番号を呼び出す。テレビ電話にして。
「もしもし?」
すぐ繋がった。私は部屋の出来るだけ隅に行き、彼女の全身が映るようにカメラを向けた。男は状況を掴めないまま、不自然に頭を垂れた自分の彼女を見ているだろう。私は何も言わずに、ゆっくり、ゆっくり彼女に近付いていった。
「リサ…?」
馬鹿な男がやっと状況を理解したのか、不安そうな声を出す。口から垂れた血で服の前が染まっているのに気づいたか。
「そうよ、あなたの彼女よ、これが」
そう言って私は彼女の髪の毛を掴み、ぐいっと顔をカメラに向けた。同時に携帯の向こうで男の叫び声があがる。うなるような変な声。ちょっとは整えていたんだけど、一度下を向いたせいで口が開き、髪の毛をひっぱったせいで目がまた白目をむいてしまった。目と顎が壊れた人形のようだ。あーあ、口の中が丸見え。
男の奇声が聞こえなくなったので、携帯の画面を少し覗いてみる。すると床と家具の足みたいな景色が映っている。男が携帯を落としたんだろう。気絶でもしたんだろうか? まあいいや。通話を切り、持っていた髪の毛も離した。本当に人形のように彼女はベッドに倒れる。
「お疲れ様です」
職場に出勤すると、失踪したリサちゃんの事が話題になっていた。
「あ、聞いた? リサちゃん無断欠勤が続いてて、連絡取れないんだって。それで彼が居たでしょ? その人に事情を聞こうかと思ったら、気がおかしくなって精神病院にいるそうなのよ。話なんて聞ける状態じゃないんだって」
「そうなんですか?」
白々しく返事をする。やっぱり気絶したんだ、あの時。
「何か2人共こんな事になると、妬みか恨みの事件かと思っちゃうわよね。美男美女だったし」
「そうなんですか?」
私はいつものように無表情で相槌を打つ。
「そうよー。彼氏、商社に勤めてたけどモデルにもスカウトされた事もあるとかで。リサちゃんも可愛かったし。男からも女からもひがみが出そうよね」
制服を着て、ゴム手袋をはめる。鏡に自分の顔を映すと、そこには見慣れた顔がある。畳まれた皺。正気の抜けた顔。張りもコシも無い髪。垂れ始めた贅肉。
「ま、私達みたいな掃除のおばちゃんにはいづれにしても関係ない事だけどね」
今度またお茶でもしましょ、と同僚もゴム手袋をはめる。この歳でトイレ掃除って体力的にキツくなって来たわよね、とため息まじりに言いながら。
私の掃除しているビルに勤めていたリサちゃん。定年を迎えてからこのビルの掃除の仕事に就いた。トイレで会う度に笑顔で挨拶してくれたリサちゃん。
ずっと、側に置いておきたかった。ただそれだけ。彼女が、欲しかった。ほんとうに、それだけ。今夜も家に帰れば、リサちゃんだった肉の塊がある。リサちゃんを手に入れて、私は本当に幸せ。
ほんとうに幸せ? 鏡の中の自分に言われた気がして、勢いよくロッカーを閉める。