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月に背を向けて

作者: 網野江ユウイ

この間、一人で暗い道を歩いたら、見慣れた道が随分違って見えて、勢いに任せて書きました。久しぶりなので、リハビリがてら、と言ったところでしょうか。

 発端は些細なことだ。たまたまお互い機嫌が悪かったタイミングで,ちょっとしたトラブルに見舞われて、もう溜まりに溜まった鬱憤が大爆発、どちらが悪いわけでもないのに完全にお互いが互いに八つ当たりした形になってしまって、その結果私は母に気づかれないようにそっと夜の街に足を踏み出した。自分でも何でこんなことになったのかよくわからない。頭を冷やしたかったのかもしれないし、一人になりたかっただけかもしれない、もしかしたら私の外出に気づいた母に少しばかり心配して欲しかったのかもしれないし、それを知った学友に慰められることを期待したのかもしれない。どちらにしても、そういった感情が全部ごちゃごちゃになって混ざり合って、まとまらない思考がむやみやたらに苦しいばかりで、ひと言言うなら「むしゃくしゃしてやった、後悔も反省もしていない。」であった。

 携帯も財布も持たずに出てきてしまったので、コンビニに行って買い物することもできないし、携帯を使って近所の友達に連絡をして家に上げてもらうこともできない。突然訪ねてもいいのだが、なんせ世間は夏休み、県外出身者が多い私の大学は帰省して家を空けている友人も少なくないはずだ。この微妙な時間だと、帰省してない人でもバイトに出ている人が多いだろうし、帰省してるかしてないかまで覚えているわけがない。

(……でも、帰りたくはないんだよなあ。)

 気持ちが訳もなく一杯一杯で、喉元に何かが引っ掛かったようにどこか苦しくて、闇雲に脚を動かした。大通りに出て、歩道橋を使って通りを越え、別の住宅街に入る。

(あ、そうだ。川、行こう。)

 ここから5分ちょっと歩いたところに、一級河川があったのを唐突に思い出した。明るいうちに見てる限りでは土手に目ぼしい街灯もなかったから、かなり暗いだろうけれど、水の音を聞いて、月明かりを眺めるにはきっとちょうどいいだろう。人目も無いだろうから一人になるにはうってつけだ、もし万が一泣くようなことや、気まぐれを起こしたくなったときにも都合がいいだろう、目撃者がいないと言う意味でだが。人気が無く、静まり返った住宅街を急に溢れてきた涙に滲ませながらがしがしと踏み分けるように歩いて行く。後から後からこみ上げてくる水分が、頬を濡らして風に触れて冷えていく。年甲斐もなく涙をぬぐいながら歩く私を、しかし誰も見咎めない。カーテン一枚、窓ガラス一枚隔てたそこに、確かに人の生活が息づいているはずなのに、不思議なほどに静まり返った世界。風鈴の、乾いたカロンカロンという音が静寂と暗闇に満たされたそこに私の鼻をすする音と共に空虚に響いた。

 歩けば歩くほど道はどんどん暗くなり、さっきまで耳に入っていた風鈴の乾いた音もいつの間に遠ざかって聞こえなくなっていた。代わりに聞こえてきたのは秋の虫の鳴く声と、街灯から聞こえるわずかな振動音、どこかにある木の葉同士が擦れ合う音に風の音、そして微かな流水音だった。

「……静か。」

 人の気配は気味が悪いくらい無くなっていた。玄関先の蛍光灯だけがやけに白々しく灯された家屋、川を越えて聞こえてくる電車の走る音。人間の声以外の全ての音が聞こえるような気がしてくる。道が少し傾斜を帯びて、息が切れる。どうやら土手に差し掛かったらしい。前のめりになるようにしてぐいぐいと土手を上る。

「……ふぅっ。」

 上がり切った瞬間、水辺独特の香りが籠った空気が両頬を一気に包み込んだ。住宅街の中を抜けてきたよりもややひんやりした空気が歩いてきて火照り気味の身体をすうっと冷やしていく。流れの早いところで泡立つ波の音がじゃぶじゃぶと耳を浸し、僅かな風に波立てられた水面が揺れて月明かりを揺らす。天頂よりも少し低いところにある月は少し黄色い光を湛えて、それでも明るく周りを照らしていた。想像以上に暗いそこに目が慣れてくると、雲の切れ間からは星が覗き僅かな民家の明かりに映し出された地面の凹凸の影が空間に奇妙な効果をもたらす。遠くに月明かりに照らされてぼんやりと見える山の影が霞に沈んでいく。自転車が一台金属を軋ませるような音を立てて背後を通り抜けて行った。

「……。」

 水音に意味もなく耳を傾ける。大学生のグループがはしゃぐような笑い声が聞こえたような、言われてみれば河原の方に振り回されるような灯りが三つくらい見えたような気がして一瞬身を固くしたが気のせいだったようだ、あたりはすぐに静寂に包まれる。月明かりが妙に心地いい。吸い込まれそうだ。

「スマホは持ってくればよかったかもな。」

 そうしたら、足元を照らしながら、土手を河原に下り河原から川の中ほどまで伸びている砂利道を歩いて、川の中央に立って上流を眺めることだって出来たろうに。そうしたら私は本当に一人だ。そこでならきっと何をしようと関係ない。これだけ人目がないなら、いっそ服をすべて脱いで川で泳いだところで誰も咎めないだろうし、服のまま川に飛び込んで流れに身を任せて流されていくのも悪くない。そのうち寝てしまったりなんかしてしまったら怖いが。自分がすっかり冷たくなって翌朝下流で発見される様を想像して、ちょっとおかしくなった。が、いくら目が慣れても個の暗闇の中足場の悪いところを歩くのはやや気が引けた。不必要に痛い思いをしたくはないのだ、だって、ただ一人になりたいだけだもの。

 何も考えていなかった、と思う。時計すらしてこなかったのでどれだけ時間が経ったのかもわからない。ただ水の流れるだけの音を耳にして、あたりを黄色く照らす月の光をぼんやりと目に映して、時折聞こえる電車の音をどこか他人事のように聞いて。ああ、本当にここには自分たった一人なのだと。ざわざわしていた胸の内が知らぬ間に静かになっているのに気づく。もう気が済んだのか単純構造め。

「……ん。」

 また笑い声がしたような気がした。誰かいるのだろうか。これだけ暗いとさすがにわからない。まして、余計な音がしないだけに妙に変な勘が働いてしまう。

「帰ろうかな、そろそろ。」

 実を言うと、さっきから足元にある妙な黒が気になっていた。人の靴の裏ほどの大きさで、見ようによってはぐしゃっと丸めてそこに打ち捨てられた黒い靴下のようににも見える。目の錯覚なのだろうがそれがどうも先ほどからもぞもぞと動いているように見えてしかたがない。人気のないこの空間が先ほどまで心地よかったのに、急に気味悪くなってきた。誰に咎められもしないのに、そっと足音を殺してその場を離れる。一瞬、視線を感じた気がして足元を振り返った。妙な黒は動いてはいない。元来た道を真っ直ぐ戻る、間違えはしない、脇道など無かったのだから。

「あれ……?」

 こんなところに神社なんかあっただろうか。土手を下った斜面が切れるか切れないかのそこに、しかし確かに小さな神社があった。そこだけ温かみのある灯篭の色に照らされて、橙色の光でぼんやりと光って見える。何かに吸い寄せられるようにその神社に近づき、鳥居の近くまで行って、脚を止めた。そこだけ別世界になってしまっているようで、鳥居の内側に足を踏み入れたら戻れなくなるのではないかと言う気がして、何をバカなことをと思いながら、それでも足は鳥居の先には進まなかった。

 それでも目が離せなくて中に見える本殿を覗くと、あたりが暗いせいだろう灯りの灯った社の中は、ぼんやりと浮かび上がるように見えた。戸の近くの台には白い紋付の布がかけられ、その上には小刀と思しきものが飾ってある事だけは伺えた。

「……。」

 黙って手を合わせる。何か思う所があったわけではない。ただ、なんとなく、引き寄せられるように、吸い寄せられるように、小さな社に向かって手を合わせた。

「帰ろう。」

「うむ、そちは帰った方が良い。」

「!?」

 心臓が止まった。いや、生きてるけど。しかし、目の前には確かにさっきまでは影も形も気配もなかったはずの、人型があった。大柄な男だ。白髪とも違うような腰には届こうかというくらいの長さの白い髪を肩のあたりで赤い紐でゆるく留め、先の方にでももう一度結び、古銭の飾りを紐の先にしゃらりとつけている出で立ちに琥珀色の瞳を宿した切れ長の目、身体を動かすたびにしゃらしゃらと音のする、和装ともつかない着物。首からは連ねられた珠を数珠つなぎにして十重二十重に巻いている。足元は裸足に草履。呆気にとられているこちらを面白そうに見ている。

「家出でもしてきたか小娘よ。関心せんの。」

「……誰……?」

「そんなことどうでもよかろ。ほれ、帰るぞ小娘。」

 手が伸ばされる。胸のうちからあふれ出てくる不信感や警戒心のそっちのけにして、身体は何物にも逆らうことなくその思いのほか大きな手に自分の手を重ねていた。

(……あったかい。)

 儚い見た目の割には分厚い手の平と、温かい。しっかと手を取られ、元来た道を真っ直ぐ歩く。月明かりが追いかけてくるように背後から私たちを照らし、一つの影法師がゆらゆらと揺れる。

「家出かえ?」

「……。」

「……ちったあ喋ったらどうじゃ。黙りこくられてはかなわん。」

「……。」

「まあよかろ。大方母御と諍いでもして飛び出して来たんじゃろ。」

 仕方ないやつだ、とでも言いたげな声音で男は笑う。私はその男に黙って手を引かれ、元来た道を歩いていた。目の前の男からは淡い光が放たれているようで、歩いてきたときよりほんの少しだけ視界が明るいような気がする。温かい。次第に川辺の水の音が背後へと遠ざかり、虫の音がいっそうるさいくらい周りに響いている。比血の気配は相変わらず欠片もない。

「母御に心配でもされたかったか?ん?」

「……。」

「なあに、そちがそう気を揉まんでも母御は母御じゃ、そちを忘れることなど無かろうて。」

 見られておるものじゃ、心中案ずるでない。と。相変わらずこちらをバカにしているのか心配しているのかどちらともつかない口調でそう語りかけてくる。

「しかし危なかったぞ。そちがあと一度あの川辺て振り返っておったらこちらには戻っては来られなかったぞ。」

「え。」

 今なんつったこいつ。

「あの川辺にはの、昔から人の気が集まっての。良い物ばかりでは無い、人に悪さをするものもある。いつしかあそこは人呼び淵と呼ばれての、月の明るい夜半に川辺に下りて二度と戻らぬ者が多くなった。大方、呼ばれてあちらへ行ってしまったのじゃろうて。今ではわっちが見張りについておる。」

 ざっと血の気が引いた気がした。あそこで人の声がしたのは気のせいではなかったと言うのか。あちらに呼ばれてしまった人の念だとでも言うのか。

「わっちの仕事は見張りと案内人。迷って帰れぬ者を元いた場所に導くのがわっちの仕事。」

 男はまだ私の手を引いたままそう告げた。円やかで深みのある声がゆったりと鼓膜を包んでいく。

「……ふむ、そちはここらでよかろ。」

「……?」

 男が不意に足を止める。そこは来るときに通った小さな交差点。やや大きめな水路を跨ぐように小さな橋が架かっている。そのすぐ手前に橋が架かっているのだ。

「さあ、行くといい。じゃが、振り返るでないぞ。振り返ってしまえば最後、わっちがここまでそちを連れてきた意味がなくなってしまう。」

 男は相変わらず軽い声でそう告げる。

「月が背から外れるまでは振り返ってはならぬ。道を曲がり、月が背から離れるまでは何があっても振り返るなよ。」

 男の手が離れ、その姿が私の背後に回る。そして温かな手が私の肩を包み込んで、そっと背を押した。

「母御に謝るが良いぞ。案外なんともないことじゃ。迷うでないぞ、呼ばれるでないぞ、真っ直ぐ前を向いて、そちの家までを真っ直ぐ目指すのじゃ。」

 風が一際強くなる。突風のような風に思わず一瞬目を瞑る。その風が急速に肩から温度を奪っていった気がして、一瞬振り返りそうになった。

「……。」

 夢に違いないのだろう。それでも、私はぐっと首を押さえて前を向き、来た道を真っ直ぐ戻った。ガラス一枚、カーテン一枚隔てたそこに人の気配がある。自転車が一台私の目の前を横切り、自動車が私を追いぬいて行った。急に活気を取り戻したような様子に、ややついていけなくなりつつも、住宅街を抜けて大通りへ。右に折れて家路を目指す。月明かりが横から差し込む歩道橋まで来て、ようやく私は振り返った。

 なんだったのだろう。本当に迷い込んではいけない世界に迷い込んでしまったのか、それとも幻覚を見ただけだったのか。月の光は先ほど感じたほど黄色くはなく、どちらかと言えば白っぽい光を放っていた。




 結局そのまままっすぐ家に帰った。財布も無ければ携帯も無いので油を売ろうにも売れない。音も立てずに玄関を開けば、母親は私の外出に気づいていた様子も無く、咎められることもなかった。それなら言うこともないだろうと私も黙って自室に戻った。ただそれだけだった。後日明るくなったところでこの間歩いた道を自転車で走ってみたが、何の変哲もない住宅街とさびれた神社、河原があるだけで、何かが変わった様子はこれっぽっちもなかった。河原に下りてみても、誰かに呼ばれることも無ければあの白い男が見える事もなかった。

 それから更にしばらくの時が経った。自分の身に変化はないし、同じような経験はしていない。

 それでも暗い道を歩くと時々思ってしまうのだ。

 あの時河原に下りていたら、私は今頃どうなっていたのだろう、と。

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