噂のイギリス人教授
ボクはつくづくツイていない。何故、この男に関わってしまったのか、数分前のボクの行動に後悔した。
黒いシルエットの男は、ボクの毎日通う『金嶺大附属高校』を目的地に、迷子になっていたわけで、目的地は図らずも同じであるため、ボクは目的地まで案内することになった。
ボクが彼と出会ったあの駅から下り方面の電車に乗って一駅で、目的地は案外すぐそこである。金嶺大学の敷地内はとても広く、国立大学故の敷地を有している。高校の建物も、大学の敷地内にある。大学の建物との距離はあるため、大学生との交流はほとんどなく、ボクは大学の方はよくわからない。軽く話しを聴けば、彼はボクの高校にではなく、どうやら大学の方に用事があるらしい。
金嶺大学の最寄り駅『金嶺駅』を降りて、目の前の広い並木道を真っ直ぐ歩けば、10分も掛からずに大学の正門が見えてくる。
ボクと彼は、まだちらほらとしか通学していない大学の正門の前で足を止めた。
「ここが金嶺大学ですよ」
「おぉ、ここが。わざわざすまなかったね」
「いいえ。ボクも自分が通学するついでだったから、大丈夫です」
では失礼します、とボクは頭を軽く下げて高校の正門の方に向かおうとした。すると、彼はボクの肩を叩いて引き留めてきた。
「ちょっと待って」
「なんですか?」
「君、名前は?」
「 … 遠藤瑞樹です」
何故名前を訊かれたのか。ボクは少し疑問に思ったが、とりあえず素直に答えておく。男は少し驚いたような顔をしたが、すぐにニッコリと笑って名刺を差し出してきた。
「私は、今日からこの大学で教授を勤める、レイバン・キャメロンです。専攻は、西洋魔術」
「 … は?」
「イギリスの大学で、西洋魔術に関する研究をしていました。今日からこの大学で魔術学を教えることになりました。以後、よろしく」
彼はボクに名刺を渡して、大学の敷地内に向かった。その背中を凝視しながら、ボクの視線は手元の名刺と彼の背中を何度も往復した。やがて小さくなった彼の背中に向かって、ボクは誰にも聞こえない声で呟いた。
「 わけわかめ、だ 」
それが今朝の出来事。
あの後、ボクはその名刺を制服の胸ポケットにしまって、大学正門から左の道に入った目の前にある高校の正門に向かった。今日はいつもより早めの通学だったためか、2年E組の教室には誰もおらず、閑散としていた。ボクの席は教室の真ん中の列の一番後ろで、扉からすぐに座れて楽で、そこに座ってボクは少し自分を落ち着かせることにした。
その後はいつも通りの日常だった。だから、ボクは今朝の出来事をすっかり忘れていた。
だがしかし、昼休みにはそれを思い出さなくてはいけないことになってしまった。
「ミズ、お前さ、大学にイギリスの教授が来た話知ってる?」
何故それを知っている、将也。ボクの親友、とまではいかないが、友人の主計将也が、どうやら今朝のイギリス人の話題をボクに振ってきた。
とりあえず、知らないふりをしておく。
「なんだ、そりゃ?」
「イギリス人の教授だよ。大学の方でも今すっげぇ噂になってるらしい。物凄くイケメンだって!」
確かに金髪碧眼のすっげぇ美形だった。切符売り場で迷子にはなっていたが。
「ふーん、そう」
「でさ、一番驚いたのが、その教授の専門分野が西洋魔術だっていうんだぜ?」
「へ、へぇ、ふーん」
どうやらボクは誤魔化すのが下手らしい。どんどん焦ってくる。というか、やっぱりそこだよな。魔術なんて、日本じゃそんなに浸透してないって。
「それで?」
「専門分野だけ聞くと怪しいんだが、顔だけは超イケメンだから、女子大生のお姉さま方にすっげぇ人気なんだぜ!」
「あぁ、そう。将也、その話一体どこから聞いてきたんだよ?」
「元3年の先輩。あの人、高校卒業してそのまま金嶺大学に入ったから、今でもよく顔合わすんだ」
元3年の先輩って、あの目元のキツイ人か。ボク、あの人苦手なんだよね。まぁ、美人なんだけどね。
にしても、やっぱりあのイギリス人、普通にイケメンなんだなぁ。なんかムカつく。
将也はとりあえず話したい内容を話し終えて満足したのか、別の噂話をベラベラと一人で語り始める。ボクはそれを、まったく無関心に昼食のついでに聴いていた。
平穏で静かな、いつもの昼休み。そのはずだったのに、
「 犬だ! 犬が出たぞ!」
そんなわけのわからないことを叫びながら廊下を走っていく男子生徒が一人いた。一体何事だ。ボクの静かなランチタイムが台無しだ。
向かいに座っていた将也も驚いたような顔で廊下を見ていた。
「な、なんだありゃ?」
「さぁ。言葉の通りなら、敷地内に犬が迷い込んだんじゃない?」
「ちょっと見てみようぜ!」
うわ。めっちゃ目がキラキラしてる。この状態になった将也は、ボクが止めても絶対に止まらない。面倒臭い…。
はしゃいで教室から飛び出していった将也の後を、ため息をつきながら仕方なく追うことにした。将也はどうやら、高校の敷地と大学の敷地を跨ぐようにある中庭の方へ向かっているようだ。
「将也、ちょっと待ってよ!」
将也の向かう方向からは、逆に走ってくる人の方が多い。どうやら、ただの迷い犬ではないように思えた。結構凶暴な犬なのかな?
そんなことを考えながら走っていると、昇降口を出て、将也とそれに続くボクは中庭に飛び出した。
でも、ボクと将也はその中庭の光景に驚いた。
「え、犬?」
いや、犬じゃない。これは、黒いオオカミだ。
中庭の中央、大型犬と同じくらいの大きさの黒いオオカミが佇んでおり、牙を剥き出しながら周りの野次馬の生徒たちを威嚇していた。よく見れば、その前脚の爪と牙には、薄っすらと血が滴っていた。誰か咬まれたのか。
「なんだよ、これ」
さすがの将也も驚きと恐怖で足が竦んでいた。ボクも冷静を装ってはいるものの、内心怖い。なんだこれ、夢か? 夢なら覚めろ、とか言いたい。
そんなことを考えていると、オオカミがこっちを見た。完全にボクと目が合った。なんか、やばい。
「っ将也!」
逃げるぞ、と言おうとして止めた。何故なら、既に手遅れだったからだ。
オオカミはボクが視線を外したと同時に、ボクと将也に向かって突進してきていた。そしてそのまま勢いで飛び掛かってきたのだ。
ボクは咄嗟に将也と一緒に身を屈めた。しかし、いくら身構えていても、オオカミの爪や牙はボクたちを襲ってこない。どうして、と顔を上げれば、オオカミは飛び掛かる途中、空中でサッと黒い霧になって消えた。
「ミズ! 大丈夫か?」
「うん、大丈夫だ」
呆然とするボクたちの周りでは、まだ野次馬の生徒たちがざわめいていた。一体、この騒ぎの元凶はなんだったのか。オオカミは一体どこから現れたのか。
そして、すべてが消えたその場に、あのイギリス人の男が焦燥の表情を浮かべて現れた。
「あれって、噂の教授?」
「レイバン・キャメロン」
ボクがボソリ、と彼の名前を呟くと、彼はこっちを見て頭を抱えながら呟いた。
「 … 初日からやってくれたな、魔女め」
言葉は焦っているように感じる彼の口元は、何故か笑っていたのを、ボクは覚えている。