粕谷 美代
終業のチャイムが鳴ると、目が覚めた。寝ぼけ眼で口からはみ出す涎を拭っているあたしを見て、皐月が声を上げて笑う。
「美代、涎!口の下跡になってるよ。それに、急がないと。きょう王子様来る日じゃない?」
そうだった。きょうは金曜日。駅に向かうバスの発車時間まで、あと二分半。ガシャガシャと騒々しくペンケースに筆記用具を突っ込み、皐月への挨拶もそこそこにバス停に向かって走る。足を踏み出す度に、大して荷物も入っていないリュックの中身が大きな音を立てる。中身の無いリュックを背負って、私は毎日何をしに大学の校門を潜っているのだろうか。偉大なる先生様から単位を貰い、晴れてこの大学を卒業し、素敵な人と結婚して幸せな家庭を築く為だ。
もう既にバスが到着し、女子大生の列がじりじりと短くなっているではないか。あたしは、パンプスをカツカツ言わせながら懸命に腕を振る。後ろから三人目が、バスの中に吸い込まれた時、何とか最後尾に滑り込みセーフ。息を切らせながらICカードをタッチして、一番後ろの座席にドカッと座る。
運転手の気だるげなアナウンスと共にバスが発車すると、すかさずリュックから手鏡を出す。鏡に映る自分にがっかり。二重の大きな目はそう悪くないと思うのだが、どうも童顔でいけない。少しでも大人びて見られたくてかけたパーマは今の全力疾走で、顔の横でしっちゃかめっちゃかになって揺れている。まっすぐなストレートだって立派な癖だとあたしは思う。せっかくバイト代を叩いてかけたデジタルパーマも何のその。ものの数日で、早くもあたしのゆるふわは萎んできている。
「はぁ」
思わず溜息が出てしまう。……きょう王子様が来る日なのに。
あたしのバイト先のお総菜屋さんに王子様が来るようになったのは、何年も前の事みたい。あたしが今年の春に大学に入学して、ここでアルバイトするようになった時には既に常連さんだった。金曜日はフライやら煮物やらをうちで買っていくようだ。おかずだけ買っていくってことは、お家でご飯だけは炊いてるってことだよね。それって凄くポイント高い。やりくり上手って感じでポイント高い。でも、名前も知らない。自分から積極的にガツガツ食いついて、それで男をゲットしていくっていうのは、あたしの思い描くいい女じゃない。黙ってても王子様が口説いてくれるくらいの女に……なる予定なの私は。
駅前のバス乗り場を大急ぎで突っ切って、裏口からお店に入ると、夕方の掻き入れ時を前に、おじさんもおばさんも額に玉の汗でフライヤーの前に陣取っている。そそくさと身支度を整えて、早番の中井さんと交代する。
「遅くなってすみませんでした。代わります」
「四時に予約のお弁当、取りに来るお客さんがいるよ。から揚げ弁当五つ。いま店長たちが急いで揚げてるから、準備頼むね。お疲れ様」
「お疲れ様でした」
中井さんは、主婦のパートさんだ。優しいし親切だが、愛想が無い。鉄仮面のような彼女でも、結婚して三人の子供がいるというのは凄い。中井さんでも結婚できるのに、自分に彼氏すらいないのが信じられない。世の中不公平だ。口を尖らせながら、お箸やおしぼりを補充して時間を潰す。
「こんにちは」
来た!思わず口元が緩む。あたしの王子様は、きょうも眩しい。色素の薄い髪にくっきりした目鼻立ち。白いシャツに黒のカーディガンにデニムパンツ。いつも清潔感のある恰好で最高に素敵だが、きょうは風が冷たい割に薄着だ。コートを着ても丁度良いくらいなのに。
いや、待って待って。そんな事よりも気にしなくちゃいけないのは、後ろに女の人がいる事だ。お姉さん……ではないよね。王子様の表情がいつもより一層柔らかく、甘くさえ思える。彼女だったら立ち直れない……と思っている間にも、二人は仲が良さそうにお弁当を品定めしている。
「ここの牡蠣フライは最高なんですよ」
「美味しそうね。半分分けて」
「この流れで違うの頼むんですか?」
王子様が、見た事も無い顔でくすくす楽しそうに笑っている。隣の女の人は、たぶん王子様より年上。そうか……年上好きか。膝から崩おれる寸前のあたしの耳に、更に聞き捨てならない単語が聞こえた。
「そろそろ、モモ起きるんじゃないかしら。早く帰らないと」
「大丈夫。大家さん、ああ見えて子供五人も育ててるんですよ。今回の事も、二つ返事で引き受けてくれましたし、ゆっくりで大丈夫ですよ」
子供……王子様に子供……。もう頭が真っ白で処理が追いつかない。すっからかんの頭のまま、牡蠣フライ弁当、ヒレカツ弁当、きんぴらごぼうと豚汁二つを袋に詰める。レジを二度も打ち間違えたが、王子様たちが怒る様子も無い。持てる者の余裕だ、これは。二人が夕方の雑踏に消えて見えなくなるまで、執念深く見送ってから、溜息を吐く。こんな日はもう静かに過ごしたい。
「から揚げ弁当五つあがったよ!!」
背後から店長の濁声が響く。そう、ここは店長の濁声とおばちゃんの喧騒が谺する夕方の戦場真っ只中。センチメンタルに浸るのは、家に帰るまでお預けらしい。こうなったらやけくそだ。
「いらっしゃいませぇぇぇ!!只今、鳥のから揚げ揚げたてでぇぇぇす!!」
商店街をみっしりと埋める老若男女の群れに向かって声を張り上げる。誰でも良い。どうかお客さんの群れがわんさか訪れて、あたしの頭から王子様を追い出してください。いつになくやる気満々のあたしを奇異な目で見つめる店長の視線が背中に刺さる。構うものか、もう一声。すうぅぅぅぅと息を吸い込んだその時、斜向かいの和菓子屋の軒先から女性がゆらりと立ち上がるのが見えた。女性は、先ほど王子様たちが消えた路地に入っていった。
「……またあの人だ」
あたしがその人に気付いたのは半年程前だ。王子様がうちに寄った日は、和菓子屋の前に必ずあの女の人が座っている。そして、王子様が帰ってすぐ、まるで後を追うように同じ方向に消えていくのだ。目の奥がちりちりするような、嫌な予感がした。あたしの勘って、当たるんだよね。たぶん、あの女の人、悪い人だと思う。