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焔音  作者: こはる
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新田 六花

 里穂さんが、彼女らしくない胡乱な目付きで、僕に何かを言おうと口を開きかけた時、見計らったようにモモちゃんが声を上げた。大人の注意が自分以外に逸れた事を、察したのだろうか。途端に、投げやりな雰囲気はふっと消えた。母親のスイッチが入ったようで、里穂さんはモモちゃんを抱き上げて優しげな声であやし始める。


「六花くん、授乳の時間が来たみたいなの。忙しなくてごめんなさい。待てるかしら?」


「えぇ。今日は非番ですから、ごゆっくり」


 襖の向こうに消える彼女の後姿を見ていると、僕は彼女と出会った春を思い出す。彼女と初めて会ったのは、僕が偶然南町フラワーハウスの前を通りかかった時のことだ。その日、僕はオープンしたばかりのイタリアンレストランでの合コンに向かう途中だった。昨今流行の隠れ家レストランという奴で、中々見つからない。待ち合わせ時刻まで、もう十分を切っていた。その時、花屋の前を掃除している女性が目に入った。


「すみません。ロッソというイタリアンレストランを知りませんか?」


 箒を手に振り返った女性は、後姿から想像したよりも若くて綺麗だった。美人という程ではないが、清潔な美しさがあった。


「君で三人目だよ」


 その人は、からっと笑うと店の名前のプリントされた濃紺のエプロンを外して歩き出した。白いシャツに細身のブラックジーンズの彼女は、高めに結ったポニーテールを揺らしながら振り返る。


「早く。こっちよ」


 そう言うと、急に路地を曲がる。慌てて六花も角を曲がる。ちらちら覗く白い項を追いかけているうちに、煉瓦造りの店の前に到着した。店内からは、早くも仲間たちの嬌声が聞こえる。


「ここの花、うちで飾ってるのよ。今日はアルメリアなの。ピンク色で凄く可愛いから良かったら見てみてね。花言葉は歓待。ね、新しいお店にぴったりでしょう?あ、でも合コンかぁ……女の子に紹介するなら、花言葉は可憐って言った方が受けが良いかもね。花言葉っていくつも種類があるから。合コン、頑張ってね!」


 その女の人は、ひらひらと手を振ると元来た道を戻っていこうとする。


「あの!名前!」


 女の人は、振り返って大きな声で言った。


「今度!うちにお花買いに来て!その時にね」


 彼女の言葉通り、店内のアルメリアは凄く可憐で目を引いた。奥ゆかしい可愛らしさで、派手派手しく着飾った女の子たちよりもよほど心に残った。女の子たちとわいわい話すのは楽しいが、僕は女の子と二人きりになるのが苦手だった。女の子は『特別』が好きだ。そして、その『特別』になろうと必死になると、必ず女の子は雌の片鱗を見せる。自分に向けられた視線の中に、少しでも雌を感じると、僕はどうも逃げたくなってしまう。追いかけられるのではなく追いかけたいなんていうのは、贅沢な悩みだと分かっているが、追いかけたくなる女の子を探す為に、僕は合コンに参加するのだ。でも、僕は既にそんな女の子に出会ったかもしれない。


「村瀬里穂です」


 三日後、南町フラワーハウスを訪ねた。彼女は今日も店の前を掃き清めていた。僕が声をかけると、彼女はすぐに僕を思い出し、相好を崩した。その日、彼女が結婚している事を知って泣きたくなったが、一方で少し安心もした。僕は、一人の人間としての彼女を非常に好ましく思っていた。誰かを『特別』にしようとするという事は、『特別』にし損ねるとその誰かを失うということと直結する。僕さえ、常連として懇意にする範疇を越えなければ、既婚者の彼女と常連の僕という関係性は終わらないはずだ。

 僕は、暇を見付けては花屋に通った。生まれて初めて母の日にカーネーションを贈ったり、時々合コンの前には花束を作ってもらって、女の子に渡したりした。貰って困るプレゼントのランキング上位に花束があったが、そういう感性の子は好きになれない。露骨に嫌な顔をする女の子がいたら、品定めの範疇から除外しようと思って用意した日もあったが、誰もが蕩ける様な笑顔を浮かべて喜んでくれた。あのランキングは、一体誰に調査した結果なのだろうか。

 里穂さんとは、花屋に通っていくうちに仲良くなった。店番が里穂さんしかいない日は、こっそりお茶を出してくれるくらいに。彼女が淹れてくれるミルクティーに合うお菓子を手土産に選んでいくのが楽しかった。消防署の向かいの児童公園の先にあるケーキ屋のシュガーラスクが好物らしく、それを持って行った日は嬉しそうにしてくれた。その頃には、配達のついでに里穂さんの夫の猛さんも内緒のお茶会に参加していくこともあった。牛乳が苦手な猛さんの為に、里穂さんはコーヒーを淹れる。コーヒーを淹れる里穂さんに聞こえないように、僕は猛さんに聞いた事がある。


「僕が、里穂さんの事好きって言ったらどうしますか?」


 一瞬驚いて眉を上げた後、猛さんは照れたように笑った。

 

「嬉しいな」


「好きっていうのは、女性としてってことですよ?」


「うん。何か、里穂の事を褒められると嬉しくなっちゃうんだよ俺。でも、六花くんみたいなカッコ良い男の子からそう言われてるんだから、焦らなきゃいけないよな」


「何か僕、子ども扱いされてますか?」


「いや、ごめんごめん。でも……じゃあ真面目な話。俺に何かあったら、真っ先に里穂を」


「何の話?」


 猛さんの前にゴトッと湯気の立ったマグカップが置かれる。きょとんとした目をこちらに向けてくる里穂さんに曖昧な笑いを返した男二人は、その日は早々に退散した。帰り道、配達の軽トラックに乗り込む猛さんに誘われて、僕は助手席に座った。花屋の前の坂道を下っていく途中、猛さんはぽつりと言った。


「最近、変な手紙が届くんだ。どうも里穂に宛てた手紙らしい」


「里穂さんには?」


「言ってない。実は、子供ができたんだ。嫌がらせなんて、無視してればすぐ終わるかもしれないんだ。余計な心配かけたくない」


 あの嫌がらせが今回の火事に繋がったのだろうか。モモちゃんが、里穂さんのお腹の中で大きくなっていくにつれて、何者かの悪意も育ったのだろうか。十月十日もかけて膨れたその悪意が、弾け飛んで、村瀬家に火をつけたのだろうか。今、僕にできるのは猛さんとの約束を果たすことなのではないか。

 モモちゃんに授乳して、寝かしつけてきた里穂さんが戻ってきた。僕は、何としても里穂さんとモモちゃんを守らなければならない。何者かの悪意の火の粉から、この親娘を守らなければならないのだ。

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