村瀬 里穂
義理の父母を玄関先まで送った後、私は居間の卓袱台にへたりこんだ。
訃報を聞いて北海道から文字通り飛んできた猛の両親とは、私が退院した昨日、やっと顔を合わせることができた。遺体の身元確認や、司法解剖から遺体が戻ったら行う葬儀の手配、水浸しになった家の後片付け…出産直後の私に代わってせっせと動いてくれた。息子が亡くなったとは思えない、と驚かれるかもしれないが、亡くなった実感などないのだ。私も同じ。実感が沸けば、立っていられない程の喪失感に苛まれる事は明白なのだから、なるたけあくせく動いて、感覚を鈍麻させていたい。お互いの心裏が分かっているから、私たちは口数少なく無沙汰を詫び、なるたけ心をモモに向けた。義理の両親は、一週間後にまた来るそうだ。モモは眠ったばかりなので、あと半刻程の猶予はありそうだ。
そういえば、朝食がまだだった事に気付く。妊娠前なら、こんな気分の日は朝食など気にかけなかったものだが、いまはモモの為にも食べなければならない。母乳しか口にできないモモにとって、私の食事これ即ちモモの食事なのだから。
「よっこらしょ」
重い腰をやっと上げて台所に立つ。たかが三キログラムのモモを抱くという行為なのに、一日中ともなると、肩に腰に膝にくる。急速に体が年をとってしまったようだ。
体だけに飽きたらず、頭には靄がかかっている。学生時代は、何ともなかった睡眠不足が、重篤な病気のように応える。モモは、小さな体の割に大きな声で泣く。昨日も夜中に二度起き、私を呼んだ。飛び起きて乳をやったが、モモは、乳を飲むだけでは飽きたらず、私に抱けと命じてくる。まだしんと冷え込む深夜、私はおくるみにくるんだモモを、ゆらゆらと揺らし続けた。
朝はパンにしよう。義理の両親が、駅前の商店街で買ってきてくれたものだ。厚切りの食パンをトースターに放り込む。焼いている間に、熱したフライパンに卵を割り入れ、スクランブルエッグにする。お歳暮で貰ったハムも脇で焼き目をつける。サニーレタスを付け合わせに皿に盛り付けていると、ちょうどよくトースターから軽快な音が響く。黄色く焼けた食パンに、たっぷりとバターを塗り、仕上げに粉砂糖をまぶす。このシュガートーストは、私の一番の好物だ。トレーに、パンとホットミルクも一緒に乗せ、居間に戻った。
「お砂糖パンはおやつにしなさい」
母が存命の頃は、甘いパンを献立に加えると叱られたものだ。シュガートーストを口に含む。サクッとした軽い音の後で、砂糖のジャリッとした歯ごたえ。バターの香りと共に、優しい甘さが口の中に広がる。ふいに涙が溢れた。夫と母の死を知らされてから初めての涙だった。一度出てしまうと、堰を切ったように滴り落ちる。でも、食べなければ。モモの為に。モモを強い子に育てる為に。私は、無心でたいらげていく。
食べ終えると手を合わせ、深く深く深呼吸する。ホットミルクが、喉の入り口に引っ掛かっている感じと共に、午前中の乾いた空気がすっと喉を通る。こうしてはいられない。昨夜、モモがミルクで汚したシーツを洗濯して干さなければ。腰を上げかけた時、ぷんと焦げ臭い臭いが鼻をついた。
どこからだろう。まずは台所を確認するも、ガス詮まで閉まっていて、火の気は無い。慌ててモモの寝室を覗く。相変わらずすやすや眠っている。少しはだけている毛布を、胸まで引き揚げて、物干場から庭に出た。
サクラソウのピンクにチューリップの黄色、最近花をつけたオオイヌノフグリの青、いつもと変わらない賑やかな庭だ。やはり焦げ臭い。表に回ると、その原因が分かった。ポストに差し込まれた新聞が燃えていた。入院中の新聞が溜まっていたにも関わらず、昨日は退院の荷解きに手いっぱいで、片付け損なっていた。その新聞の束が音を立てて燃えている。慌てて、花の水やりに使うホースを取り、水をかけるも、なかなか火は消えない。
ホースを、シャワーに切り替える。少し火勢が弱まった所に、強い風が吹き付けて、また火勢が盛り返す。風に、火のついた新聞が風に煽られて飛ぶ。ぱちぱちと背後でも音がした。
「誰か…」
声を上げたその時、右手からコートが投げ入れられた。唖然としていると、ホースを奪われる。
「空気に触れてたら、火はなかなか消えませんよ。酸素を奪ってから水かけないと。」
日に透けた茶色っぽい髪。へたりこんだ私を見下ろす顔は、逆光で陰になっているが、眩いくらいに綺麗だ。差し出された手を素直に握り、ゆっくりと立ち上がる。
「……六花くん」
「小火で済んで良かった。大丈夫ですか?」
「……大丈夫。それより、ごめんなさい…コート。弁償するわ。」
「安物ですから気にしないで。」
ベージュの深い色味ダッフルコートが無残に水溜まりの中に浸かっている。弁償すると、もう一度食い下がろうとしたとき、遠くでモモが泣いている声がする。
「ごめん六花くん、とにかく上がってくれる?」
「はい。お邪魔します」
とにもかくにも抱き上げなければ。六花のために玄関を開けてから、自分は縁側から家に入る。モモを抱き上げて揺らす。おしりがじっとりと重い。おむつを替えてから、居間に連れていく。
「産まれたんですねぇ」
「お陰様で無事に。村瀬モモです。モモ、新田六花くんです。」
六花くんは、目を細めて、モモの手に自分の人差し指を握らせる。
「いま、お茶出すね」
「お構いなく。火事…………すみません」
さすがに死傷者が出た火災だ。知っていても不思議では無いが、新聞に載ったのは夫と母の名前だけだ。もちろん住所は掲載されていない。花屋に寄って、事情を聴いてきたのだろうか。いや、まだ花屋は開店していない。どこかで聞いて、わざわざ見舞いに来てくれたのだろうか。心遣いはありがたいが、正直いまは火事の話はしたくない気分だ。喪失感の落とし穴に、いま落ち込むわけにはいかないのだ。
しかも、何故謝るのだ。聞いてごめんという意味なら、聞かなければ良いものを。何だかむかむかしてきた。お茶を入れる手元が狂いそうになる。
「僕、消防士なんです」
なるほど。プロならば、先ほどの新聞の火を消した冷静さも頷ける。
「母屋が燃えていたら、宿無しになってたところよ。ありがとう。今日は、どうしてうちに?出産祝い……じゃないよね。お線香をあげに来てくれたんだとしたら、まだ猛さんもお母さんも返ってきてないから、お葬式もまだなのよ」
ミルクパンに牛乳を沸かして、ティーパックを煮出していく。すぐに白から程よい茶色に鍋の中が染まっていく。お気に入りのナルミのティーカップに、丁寧にミルクティーを注ぐと、六花くんの前に滑らせた。六花くんは、返事の前に一口ミルクティーを口に含む。
「里穂さんの様子を見に来ただけだったんですけど、さっきの小火を見て事情が変わりました。今すぐこの家を出ましょう」
六花くんが、突然とんでもない事を言い出した。もう放っておいて。私は、モモの世話で手一杯。悲しむ暇も無い程に手一杯にしておきたいのは本当だけれど、もうこれ以上は持ちきれない。断るのも、理由を聞くのも、もちろん従うのも億劫だった。私は、淀んだ目で六花くんを見返した。