真田 伸一
午後三時。真田はのしのしと廊下を突き進む。この時間、南町消防署の食堂前の廊下は、いつもきらきらと埃が待っている。冬の夕暮れは早い。オレンジ色になった陽光が、突き当たりの窓から署内に差し込んでいる。
「気に入らねぇな」
新田六花のことだ。新田は、真田の三期下の後輩で、細い身体ながら、訓練にも積極的で、人当たりも良く、消防士としては申し分ない若者だ。短髪で鋭い目で筋肉の鎧に包まれている真田とは正反対の、線の細いルックスのおかげで、内勤の消防士や、救急隊の女性たちからの人気は高い。そのくせ、事務仕事も卒無くこなすので、男性消防士から嫌われている様子もない。何を食ったらああなるのだろうか。いや、俺が余計な物を食いすぎているのか。そう言えば、新田がガツガツと飯を食らう様を見たことが無い。必ず野菜から食べ始めるのも俺とは違う。懇意にしている救急隊の梨田に言わせると、野菜から食べ始めると痩せやすいらしい。消防士がスタイルを気にしてどうなるというのか。甚だ疑問だ。
真田も、新田同様商店街の一角に住んでいる。非番の日に偶然見掛けたことが一度だけある。テレビからそのまま出てきたかと見紛うばかりに垢抜けていた。近所に買い物に出るだけだからと、スウェットにパーカーにつっかけサンダルという真田は、思わず電柱の影に隠れた程だ。しかも、真田行きつけの総菜屋で買い物をしているではないか。愛想の無い売り子だと思っていたアルバイトの女子大学生が、別人のような満面の笑みでコロッケを手渡している。しかも、明らかにおまけされている。あの時は、世の中の世知辛さを痛感した。随分と横道に逸れてしまったが、真田が新田を気に入らないのは、そんなくだらない事に起因するものではない。
では、何が気に入らないのか。真田は考える。どうにも嘘臭いからではないか…真田のように、単純で真っ直ぐな男では全貌を掴みきれないようなほの暗い闇が、新田六花の肩越しにはたゆたっているように感じる。正体不明の闇を背負う新田を、自分は恐れているのか。その恐れが、嫌悪感としてもくもくと胸に沸き上がり、煙のように充満しているのではないか。
真田が新田六花に不信感を抱いたのはいつだったか。トレーニング室でダンベルを上げながら記憶を辿る。
じわじわとセミの声がする。残暑厳しい九月の上旬、いまから二ヶ月と少し前だ。その日、真田は明けで、出勤してきた新田と更衣室で顔を会わせた。
「おはようございます」
夜勤明けの真田の腫れぼったい顔とは対照的に、新田の顔はさっぱりしている。
「おい、手どうした」
ロッカーを開ける新田の手を見て、思わずぎょっとした。新田の掌をはじめ、肘の周辺までが、べっとりした赤いもので汚れていたのだ。
「あ、これですか?向かいの公園を突っ切ってきたら、ペンキ塗り立ての遊具に触っちゃって…」
「怪我かと思って驚いた。人を助けるおまえが怪我してちゃ世話ねぇからな。じゃ、お疲れ」
「お疲れ様です」笑顔で手をふる新田に見送られて更衣室を後にする。署を出ると、すぐに隣の牛丼屋に入る。夜勤明けは、ここで朝飯を食べるのが日課になっている。つゆがだくだくの甘辛い牛丼の山に、生卵を割り入れる。無感動にさらさらと口に流し込む。自分の席にセッティングされたピッチャーの氷水まで全て胃に収めてから席を立つ。
膨れた腹を叩きながら横断歩道を渡ると、先程新田が突っ切ってきたという児童公園脇の遊歩道に入る。いつもはそのまま遊歩道を進むのだが、その日は何となく公園に入った。新田の言っていた通り、そこら中にペンキ塗り立ての張り紙が張ってある。こんな堂々と警告されているものに触ってしまうなんて、とろいやつだと笑いながら公園を突っ切って行く。遊歩道には、犬の散歩をする中年女性や、駅まで急ぐスーツ姿の男の姿があるが、早朝の公園は閑散としていた。
朝の公園を後にする直前、今自分の視界に赤い遊具など無かった事に気付いた。では新田の腕の赤は何だったのか。胸がざわざわした。真田のざわざわを更に掻き立てたのは、ゴミ箱に捨てられていた猫の死骸だった。猫は、だらりとピンク色の舌をたらし、腹が裂かれていた。赤。赤だ。猫の骸の下に捨てられていたコンビニの弁当箱に、どろりと赤黒い液体が溜まっていた。まだ気温がさして高くないにもかかわらず、ハエたちが早くも群がっている。遠からず、激烈な腐敗臭を漂わせるだろう。真田は、たまらず目を背け、自宅に向かって早足で歩き出した。公務員である手前、保健所に連絡するべきなのだろうが、二十四時間勤務の後では、少し億劫だった。
それから新田の事を見る目が変わった。分かる。いくら単純な真田にも分かっている。あの猫を新田が殺したという証拠は無い。赤い遊具を見落としただけかもしれないし、新田が何となくついた嘘かもしれない。でも、真田は聞けずにいた。
「赤い遊具なんかねえじゃねぇか。何だったんだあの手が赤かったのは」
聞けずに冬になってしまった。あれから特に変わった事はない。しかし、あの夏の日に見た猫の舌のピンク色が、未だに目の奥をちらちら過るのだ。
「くそっ!」
ダンベルを下ろし、目に入った汗を拭う。突然、耳を劈く三回の警告音。
『火災発生。南町消防署 出動指令。』
耳障りな機械仕掛けの声が、消防署内の空気を震わせた。真田の頭が考えるより先に体が反応していた。気付いた時にはもう廊下に踊り出ていた。先程西日が射して橙色だった廊下は、いつの間にか紫色の闇が迫っている。
後ろの食堂の方から、ちょうど新田六花も駆けてくるのが見える。追い付かれたら、何か悪いことが起きる気がして、ぐんとスピードを上げる。新田は、今どんな顔をして走っているのだろう。振り返るのが怖い。なんだ。やっぱり俺は新田を恐れているんじゃないか。自嘲気味に笑いながら、俺は消防車のタラップに足をかけた。