新田 六花
「味薄いなぁ」
大袈裟に顔をしかめる真田に、僕は醤油の瓶を押しやる。僕は新田六花。ニッタロッカ。消防士だ。消防吏員になって三年目だ。世間一般の人には、あまり認知されていないが、消防士というのは職業名ではない。消防吏員の一番下の階級の事を消防士という。偉くなれば、消防副士長、消防士長、消防司令補、消防司令……行き着く先は消防総監だ。雲の上の存在すぎて、僕はきっと一生かけてもなれないだろう。
「六花くん、消防士なの!?カッコ良い!」
僕だって二十五歳。呼ばれれば合コンという名の飲み会に参加する事もある。……週に一回くらい。その席で必ず言われるのがこれだ。その子が思い描いている消防士は、要救助者を助ける為に、火の中に飛び込む救助隊だろう。僕は、消防隊。銀色の耐火服を閃かせて火を消して回るのが仕事だ。君の家が火事になったとして、君をお姫様抱っこで救出してくれるのは、僕じゃない。むしろ、僕の目の前で音を立てて味噌汁を啜っている真田さんこそが、その子の思い描くヒーローだ。
僕がいるのは南町消防署という。南町は、南中央駅という急行の止まらない駅が最寄の小さな町だ。駅前には、古くからの大きめの商店街があり、僕が二階を間借りしている魚屋もこの商店街にある。お洒落な洋服を買いに行くには少し不便だが、暮らしていくには良い街で、僕は好きだ。
南町消防署に限らず、消防隊員には、上下の関係無く食事当番が回ってくる。三年目の僕でも、向かいで、仏頂面で八宝菜に醤油を回しかけている六年目の真田さんでも同様にだ。誤解されぬように言っておくが、薄味の八宝菜を作ったのは僕ではない。しかめっ面で烏賊を咀嚼している真田さんこそが、今日の食事当番である。
「中華鍋から出すと味薄くなんだよなぁ。」
「そんなことあるわけないでしょ。冷めたからじゃないですか?僕、温め直しましょうか?」
「いや、いい。温めなおしてる間にまた出動になったら目も当てられん。」
真田さんは、ガツガツと八宝菜をかきこむ。ごはん八宝菜ごはん八宝菜味噌汁ごはん…せわしなく吸い込まれていく食べ物に目を奪われているほんの数十秒の間に、真田さんの前の皿は軒並み空になっていく。
「いつもながら見事な食いっぷりですね」
「胸くそ悪い現場のあとこそ、腹いっぱい食っとかねぇとな」
呟くように言うと、ぱちんと両手で頬をたたいて、真田さんは大股で食堂を出ていった。真田さんは、今日の現場が相当応えているらしい。今日の現場では、男性と女性の二人が火災で命を落とした。
火の手が上がったのは午前一時。僕の住む商店街を抜けて十分程。古くからの高級住宅街の一角にある、村瀬という家だった。離れも付いている中々立派な家で、広い庭には花が溢れていた。どうやら、焼死した村瀬猛が、花屋に花を卸す業者だったようだ。
火元は離れの更に奥にある物置で、幸いにも母屋は焼けなかった。二人は、離れの居間で折り重なるように倒れていた。丁度、男性が女性を背負って逃げようとしたかのようだ。煙に巻かれて意識を失ってしまったのだろうか。
「もう少し到着が早ければ……」
南町消防署に帰る道中、真田さんは、膝を見つめながら唸るように言っていた。商店街を突っ切るように出動したのだが、古くからの商店街は道幅が狭く、加えて商店街を練り歩く酔っ払いや、違法に積み上げられた店の荷物が、消防車の進路を著しく妨害し、到着が少し遅れた。
現着した時には、夜空を舐めるように、大きな炎が上がっていた。凄惨な現場だった。懸命の消火活動の結果、付近への延焼は免れたが、救助隊の面々の顔には暗い影が落ちていた。二体の焼死体は、骨格筋の熱凝固による拳法家姿位……所謂ボクサーのような恰好で搬送されていった。死亡しているのは明らかだが、死亡したのが火災の前か後か、どちらが先に亡くなっているのか等、これから司法解剖で解明しなければならない。
食堂に残された六花は、冷えきった味噌汁の中に浮く固い大根に歯を立てた。ふいに、あの真っ黒に炭化した腕を思い出してしまった。火災現場の臭いは、いつまでも鼻にこびりついている。八宝菜の白菜が急に青臭く感じ、六花は箸を置いた。