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焔音  作者: こはる
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村瀬 里穂

 モモ。

 私がお腹を痛めて産んだ子。あの日の一部始終は、今でも忘れられない。妊婦が産気付くのは夜が更けてから明け方にかけてが多いそうだ。私もご多分にもれず、夜十時に産気付き、翌三時には新たな命を世に解き放っていた。母になった感動よりも、娘が五体満足である幸福よりも、出産という痛みが終わったという安堵の方が強かった。


「ああ……おなかがすいた」


 ぽつりと漏れた一言を聞いた看護婦が笑う。分娩台の上から病室に移ったのは、きっかり二時間後で、私の到着を待っていたかのように、すぐさま朝食が運ばれてきた。山盛りの白いごはんに手を合わせ、黙々と鯵の開きをほぐし、黄色が眩しい卵焼きを口いっぱいに頬張る私を見た看護婦がまた笑った。

 午後になると、看護婦が私の娘を部屋に連れてきた。産着にくるまれた赤ん坊は、まるで猿のようで、ふにゃふにゃと頼りない。私は、桃色の頬をした赤ん坊に、モモという名前をつけた。


 モモは、よく乳を飲み、よく眠った。授乳の時以外はほとんど眠っているので、三時間おきに訪れる授乳の時間が楽しみだった。昼も夜も無くきっかり三時間おき。赤ん坊独特の時間の流れは非常に興味深い。 産後の肥立ちも良いようで、私の体は妊娠前の物に着実に戻っていく。シャワーは出産の翌日に許可された。部屋に付属のユニットバスで、軽く汗を流す。昨日までは、バレーボールのように膨らんでいた腹が、見事に平坦になっている。「あぁ、もうここにはいない」と、腹を撫でる。何だか髪が細くなったような気もするし、腹に皺も寄っているように感じる。モモは、私の中から出ていく時に、私の女としての武器をいくつか持って出たらしい。私が渡したその武器は、果たしてモモの人生で役立つ時が来るのだろうか。


 私は、それから五日目に退院した。誰一人見舞いに来ないのを、看護婦は不審に思わなかっただろうか。私と同じ日に出産した産婦は、他に二人。一人は、清楚な年若い母親。勤め人らしく背広を着た夫と会計の順番を待っている。もう一人は三十代半ばだろうか。母らしき人と、赤ん坊の兄にあたる少年と一緒にソファーに腰かけている。誰もが眉を下げ、目を細め、頬を弛めている。その間を、私は背筋を伸ばして迷いなく歩く。モモを抱き上げ、看護婦に会釈すると、すぐさまその場を後にする。私には、頼りにするべき夫も母もない。亡き夫。亡き母。私にあるのはそれだけなのだ。


「風が強いから気を付けて」


 看護婦の言葉に強く頷き、病院を出た。午前中で、日差しは暖かいが風は冷たい。モモにおくるみを強く巻き付けて、ガラス越しにもう一度看護婦を振り返る。看護婦は、もう私の方は見ておらず、彼女の日常の業務に戻っていた。モモ。私がお腹を痛めて産んだ子。鬼退治ができるくらいに強く育ててあげる。


 私の母は、毎日決まった生活を送っていた。朝は四時に起き、掃除洗濯炊事をこなし、夜は九時には床についた。母は、毎朝長い廊下に雑巾をかける。母の軽快な足音が自室に近付いてくるのが私の目覚ましの代わりだった。朝日の差し込む障子越しに見える母の影は、颯爽と廊下を横切って行く。

 母の作る朝食も、毎日同じだ。ごはんに塩鮭、豆腐とワカメの味噌汁にきゅうりの浅漬け、バナナが一本。春夏秋冬、味噌汁の具に至るまで同じもの。それは、父が失踪した十年前から変わらない。母の時間は、父が家を出ていった時から、同じところをぐるぐると回っているに違いない。父が出て行った朝を繰り返しているのか、父が出ていく前の朝を繰り返しているのか、それは分からない。

 私にモモの命が宿った時、母は大層喜んだ。最初は、目をまん丸くして驚いて、次の瞬間には目を細めて笑った。翌日には産着やらおむつやらを山のように買い込んできて私を驚かせた。その日から炊事は、母の預かる所となり、滋養の付く体に優しい味付けの献立が食卓を彩った。

 

 私の夫は、婿として我が家に入ってくれた奇特な人だ。母が一人で暮らすのでは寂しかろうと、同居を申し出てくれた夫。猛という名前からは想像もつかないほどに小柄で痩せて、優しかった。恐縮する母の肩を毎日揉み、まるで本当の親子のようだった。私の夫というよりも、一人養子に来たような、奇妙な共同生活だった。

 北海道の農家の三男坊として生まれた猛は、東京の農業大学を卒業し、私の勤める花屋に、花を届けに来る業者になった。乞われて三回食事をしたらプロポーズされ、あれよあれよという間に結婚していた。北海道から東京へ、しかも入り婿での結婚。北海道の義理の母たちの反対を、夫はどうやったのかぴたりと黙らせ、ボストンバッグとトランク一つを婿入り道具に、私と母の住む家に転がり込んで来た夫。夫を熱烈に愛していたわけではないが、それなりに幸せだった。

 それなりの幸せの結果、モモを授かり、夫は大きくなっていく私のお腹に毎日挨拶をした。ひょろりと長い夫の腕が私の腹部に伸びてきて、膨れた腹をするりとさする。「おはよう」「おやすみ」と低い声で話しかけるのが面白くてよく笑った。それなりに幸せだった。

 

 それなりの幸せは、モモの誕生を契機に、これ以上無い程の幸せに昇華するはずだった。少なくとも、産気付いて救急車で搬送されている間、いやそれどころか出産を終えて朝食を食べ終えるまで、そう信じて疑わなかった。青ざめた顔をした看護婦に聞いた話を、私は到底現実の物とは思えなかった。


 母が毎日清めた廊下、夫が案じた母の老後、朝食を囲んだ食卓、私の腹を撫でていた腕、私を産んだ母育てた母、私の夫…すべて無くなったなんて。無くなった亡くなった燃えた。

 

 ――――あの夜。この世に一人産まれた夜、二人が焼け死んだ。




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