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虚像

作者: 小宮 憂

着地点が難しく、何処に着地しようかとふらふらしてみました。


その結果がどのようなものかは読んでから…としか書けませんが、読んでみて何か感想があれば聞かせて頂きたいです。

「何処ですか!?」

急激な温度の変化で鼻がむずむずする。が、そんなものはどうでもいい。誰に聞いているのか自分でもわからないが、とにかく大声を張り上げる。

「どうされました?」

すぐ傍を歩いていた看護師が応える。どうされました?じゃないだろう、馬鹿野郎。

「さっき連絡があったので来たんです。彼女はどこですか」

「少々お待ちください」

確実な温度差を目の当たりにし、イラついた。医療従事者は聖職者のように扱われるが、所詮は人間。患者の事など他人事でしかないのだ。

受付の前を陣取り、まだかまだかと待っていると返答があった。彼女の居場所を聞き、看護師の言葉など無視して病院内の案内を見る。焦っているせいか言われた場所がなかなか見つからず、焦りばかり前に出てくる。引っ込んでろ。

ようやく見つけ、そこへ向かって走る。誰かにぶつかったような気もするが、そんなの構わない。ここは病院なのだから、少々怪我をしたって“人間”が診てくれるだろうよ。

目的のドアを見つけノックもせず飛び込んだ。薄いブルーのカーテンがまずは目に飛び込んでくる。

「すみません。どなたかのご家族ですか?」

彼女の名前を告げるとすぐに通される。一番奥のベッドらしい。

「旦那様がいらっしゃいましたよ」

カーテンが開くと彼女がいた。いかにも寝心地の悪そうなベッドに、いかにも具合悪そうな顔で。

「旦那じゃありません」

不機嫌そうなその声も今はかすれている。看護師は少し笑いカーテンを閉めた。笑いごとじゃないんだ馬鹿野郎。

「どうして連絡くれなかった?」

彼女は顔を背けた。いつもこうだ。俺の質問に最後にまともに答えてくれたのはいつだっただろう。

「このまま入院だってさ」

まるで他人事のように彼女は言った。いつもいつも淡々と、言い放つような喋り方が心地よかったのはいつまでだろう。言い訳や弱音など彼女が吐いた姿など見た記憶がない。

これ以上何を聞いても彼女は答えないつもりだという事を知っている。蒼白になりながらも目力だけは健在なようで、その横顔は何処だか分からない場所をにらんでいるようにも見える。ため息をつきたいところだが、踏みとどまる。彼女はため息が嫌いなんだ。

「ちょっと出てくる」

「戻らなくてもいい」

厳しいなと一人で笑い、適当に看護師を捕まえる。担当医と話がしたいと申し出ると数分後に診察室へ呼ばれる。

「彼女はこのまま入院してもらいます」

「病名みたいなもの、ついてるんですか?」

「病名、ですか。簡単に言うなら肺炎ですね」

肺炎か。名前なら知っているが、風邪がひどくなったようなものだろうか。

「どれくらい入院するんですか」

「ただの肺炎ならいいんですがね。彼女の場合、ひどく衰弱しているし様子を見て…というところです。ところであなたは旦那さんですか?」

彼女が聞けば怒るだろうが、俺は自信たっぷりに答えた。

「結婚はしていませんが、家族です」



「また来たの?」

俺の顔を見るなりそう言い放たれる。今日も厳しいですね。

入院してから少しずつ顔色は戻っているが、まだ万全ではないようで起き上がっている時間は少ない。古臭い氷枕の上に、彼女の小さな頭が乗っかっている光景にも慣れてきた。

ふとテーブルの上を見る。やはり俺以外に見舞客は来ていないようで、数時間前に来た時と何も変化がない。変わったといえば薬の包みが数個消えた事だろうか。

「何?」

「いや、今日も可愛いなと思って」

「…ふーん」

目を伏せ、顔を背ける。わかりづらいが彼女は照れるといつもこうだ。こういうところが俺は好きだ。

人間を始めてからもう何年も経つが、未だかつて見舞いという事をした記憶のない俺にとって、どんなものを差し入れていいのかわからない。けれど、他のベッドのまわりを見ると花や理解しがたいセンスの小物などが置いてある。パジャマも可愛らしい色合いのものや、パジャマのようなものが多い。

いっぽう彼女は、上下真っ黒のスエットを好んで着ている。ベッドの周りにはほとんど私物らしい私物がない。スリッパまで黒い。少しカラフルなものを持ってきてやらなくては、という気分になる。

「回診はもう来たの?」

「今日検査」

特に返事を求めているようでもないので、黙ってパイプ椅子に腰かける。彼女は仰向けになり、引出しを指差す。無言で応え、何冊かあるうちの一冊を彼女に渡す。彼女は昔から読書が好きなのだそうだ。

「読んだ?」

自分に自信がないというわりに自分の好みには自信のある彼女から、もう何度も同じ本を読めと言われている。首を横に振ると折角渡した本をテーブルに置いて目を閉じてしまった。



「彼女、入院してるんだって?」

何でお前がそれを知ってるんだよ。そう思ったが大人しく返事をする。

俺の上司は一体どれほどの人間と関わりがあるのか知らないが、なんでも知っている。時々それが恐ろしくもあるが、見方であるうちは無害だ。

「見舞いに行こうかな」

「いや、それは…」

「面会謝絶にするくらい悪いのか」

出来る事なら俺が面会謝絶にしたいくらいだよ。

「違います。彼女まだ起き上がれないので、もう少し先の方がいいかなと思いまして」

「そうか」

彼女が入院してから色々な人物から同じような話をされる。そのたびに胸が締め付けられる。

自分が入院した時、一体何人の人間が彼女に対する気持ちを同じものを抱いてくれるかがもうわかっていた。勝ち負けなどないのだろうが、彼女より明らかに劣っている自分を知ってもいる。

「じゃあ、見舞い行けそうなくらい回復したら教えてくれ。すぐに」

上司の目は笑っていない。真剣そのものだった。



健康とは言い難いかもしれないが、幸い病院に通うような事は自分には起きていない。

彼女が入院してから何度か足を運んでみて気づいた事がある。帰れる人、帰れない人の二種類がいる。どちらも同じ人間であることには違いないが、大きく分厚い壁がある事を空気で感じられる。


詳しく聞いた事はないのだが、彼女は昔から病弱なようだった。主治医の話では入院するのもこれが数度目らしい。カルテの分厚さも自分の知るものとはけた違いだったし、彼女自身入院する事に関して何の違和感もないようだった。

自分が入院する事になったら、準備するものなどもわからず身内に頼りっぱなしになったであろう事は考えなくてもわかる。

彼女の体は小枝のようだった。少しでも乱暴に扱えば簡単に折れてしまうのではないか、いつもそう思っていたし、五臓六腑が詰まっているとは考え難い薄さなのだ。指などテレビのコマーシャルで見るモデルのそれよりも細く、すらっとしていて何をしていても見とれてしまうほどだ。

そして、軽い。何度か酔いつぶれた彼女を介抱した事があるが、どんなにぐったりしていても軽々と持ちあがる。ヒールのせいではなく、自分よりも長身の彼女がこんなにも軽いのかと驚いた。

けれど、食事制限などをしている様子はない。彼女自身コンプレックスなど語った事もない。あるとすればバストの大きさくらいのものだ。細すぎて何処にも脂肪らしきものがない。そういうといつも機嫌を損ねてしまうのだが、それが真実なのだから仕方ないじゃないかと俺は思う。


彼女は連絡がマメじゃない。几帳面な性格なのに、対人関係においてはずぼら。そのせいで倒れた時も病院から連絡があるまで俺は知らなかった。

主治医の話だと彼女は、駅の構内で倒れたらしかった。何処へ行こうとしていたのかも分からない。彼女自身から聞きたくとも言わないからだ。それが彼女なのだから仕方ないとも思うが、時々無性に腹が立つ。

出会ってから今までに数回、病院に付き合った事がある。けれど、激務を極めている俺は送り迎えが精いっぱいだった。どうして一緒に入って聞かなかったんだと自分にも腹が立つ。

けれど、全ては過ぎた事なのだから…。考えても仕方ない。



「別れよう。そもそも付き合ってるの?私たち」

俺の顔を見るなり彼女は言った。肩からカーディガンを羽織り、真っ青な顔をしてこちらを見つめる。

彼女の顔が一瞬霞んだ。冗談だろ?そう言いたいが言わせない空気が漂っている。本気だ。

「じゃあね」

カーディガンを傍らに脱ぎ、ゆっくりと横たわる彼女。何だかやけにゆっくりに見えるが、これは俺の目がおかしいのだろうか。

「いや、何?何言ってんの?」

やっと言葉が出た。少し間の抜けた声だが、仕方ない。

「別れないよ、俺は」

彼女がこちらを見る。怒っている風でも、呆れている風でもない。ただ静かにこちらを見る。

「俺は付き合ってるとかじゃなくて、家族って考えてるからさ。別れとかないでしょ?家族には」

「あるよ、人間だから」

「は?…死んだりすれば別れる事にはなるだろうけどね、俺まだ死ぬ予定ないんだけど」

無理やりに笑ってみせるが果たして、うまく笑えているのだろうか。

彼女の顔を見れば何となく自分がどんな顔をしているのか分かる。ので、目をそらした。

「もう来てくれなくていいよ。今までありがとう」

目の前が真っ暗になった。



「お疲れ様です」

頭上から声がした。近所のお店の子だろうか。少し鼻にかかったような声で、低い。

「お疲れ様」

目の前にいる上司が少し見上げる形で声を掛けている。やはり近所の子らしい。買ったばかりの缶コーヒーを振り、ネックウォーマーを鼻まで引き上げる。

頭上の階段をコツコツと降りてくる音を聞きながら、定位置へと歩く。ふと視界に白いものが飛び込む。

「あ…お疲れ様です」

「お疲れ様です」

咄嗟に返し、声の主を見る。階段を数段残したところに伏し目がちな女がいた。上下白いスーツに身を包み、そこにいた。

長い脚、きちんとセットしているのに見え隠れしているくせ毛、真っ白な肌。そのどれに惹かれたのか分からないが、心臓が驚くべき速さで脈を打ち始める。彼女はこちらを見てはおらず、そそくさと何処かへ立ち去った。高いヒールの音は夜道に響いた。

「先輩、あの子誰なんでしょう?」

「ん?隣の店の新人じゃないか」

先日オープンしたばかりのラウンジ。オープンの日に自分も行ったはずだが、彼女を見かけた記憶はない。本当にいたのだろうか。

ついさっきまで熱いくらいだった珈琲が温くなっているのに気づき、すぐさま飲む。あまり飲み過ぎるとトイレが近くなるので控えめにしているつもりだが、足元にはもう数本の空き缶が立っている。

しばらくして彼女が現れた。消えた方向を考えるとコンビニに行っていたらしい。タバコの箱らしきものをポケットに押し込みながら、自分のいるのとは違う方向の階段へまわっていくのが見える。少し腹が立った。何でこちらに来ないんだろうか。

此処で初めてはっとした。俺はあの子が好きだ。一目惚れ…その言葉が脳内をパンパンに膨らませた。



気づくと自分の車にいた。エンジンをかけるでもなく、運転席に座っていた。

どうやってここまで戻ってきたのかなんて考えるだけ無駄。わからない。

時計を見ると病院に来てから何時間も経っていた。気づかないうちに外は真っ暗になっている。携帯電話が不在着信を報せるカラーランプをちかちかさせている。上司だろう。

さっさと電話を折り返し、帰宅しようとキーをまわす。が、うまくいかない。手に力が入らない。

「何やってんだ」

誰もいないのは承知だ。独り言でも言わないと保てない気がしたのだ、自分を。

一度深呼吸してもう一度エンジンをかけると、今度はうまくいった。これで帰路につける。

運転中見知らぬ車の群れを見て涙が出た。止め処なく流れる。今なら脱水症状で自殺できるんじゃないか、という気がした。

しかし、人間はそう簡単に死ぬことのできない生き物である事は実証済みだった。自分自身で試した事はない。我ながら最低な人間だが、実験台にした人間が複数人いたのだ。

もしかすると俺は、今までやってきたことの報いを今になり受けているんじゃないか。そう思えてきた。



携帯電話を開かなくなって数日が経った。仕事用の携帯電話は何度となく開いているのだが、プライベートの方はうんともすんとも言わない。誰にも番号を教えていないのではないか、と疑いたくなるほど鳴らない。

相変わらず行く先々で彼女の事を聞かれる。けれど、俺はもう答えられるほどの情報を持ってはいない。最後に会ったのは別れ話を切り出された時だからだ。

ふぅ、と何度目かのため息をつく。彼女の前で安易につけなかったため息だが、喜びなどはない。彼女がどうして嫌うのか、今になり理由を知った気がする。わかった気になっているだけで、明確に把握したわけではないのが俺のダメなところなのだが。


「お疲れ様」

「あ、お疲れ様です」

仕事が終わり、注文した牛丼が運ばれてくるのを待っていた。そこへ見たことのある女がやってきた。

「えっと…」

名前を思い出せずにいると相手は怪訝な顔をした。私の事を忘れたの?とでも言いたげだ。残念ながら覚えていないのだが。

「さやかです」

「さやかさん。お久しぶりですね」

最後に会ったのがいつだったのかも思い出せないが、何処で会ったのかだけは覚えている。

「一人ですか?」

「うん。まあ」

「じゃ」

確認もとらず、さもそこが自分の席であるかのように向かい側の席に座る。

アタッシュケースを傍らに置きたい為だけに、ボックス席に座った数分前の自分を恨めしく思った。

「よく此処来るんですか?」

「まあ、時々」

嘘だった。彼女からはもっと栄養のありそうなものを食べろ、と指図されていたのだが、せっかちなのですぐに出てきて安価な牛丼店はほぼ毎日お世話になっている場所だ。

「へえ。じゃあまた会えるかな。あたしもよく来るんです」

仮面でもかぶったかのような笑みをちらりと見て、運ばれてきた牛丼に取り掛かる。さっさと食べて、さっさと出て行こう。毎日そうしているのだから。

よく考えてみればさやかは注文をしていない様子だが、これから頼むのだろうか。面倒だから待たずに帰ろう。


器の中身を全て片づけると伝票を持ち、席を立つ。

なるべく目を合わせないようにレジまで向かうが、すぐ後ろでヒールの音がした。ついてきているのだろう。

「ご馳走様」

会計を済ませ外へ出るのと同時に、たばこに火をつける。大した食事ではないが、食後の一服はいつでも最高だった。

だが、今日は最悪だ。ついてきた女も同じくたばこに火をつける。

「もう帰るの?」

彼女よりも頭二つぶんほど背の低い彼女。ヒールをはいても小さな体で、こちらを見上げる。

胸に何かがつかえた気がした。何だろうか。

「ごはんも食べましたから」

「じゃあついてってもいい?」

タバコを持っていない方の手でしがみついてくる。何だ、この展開。アタッシュケースを握る手が少し熱を帯びた気がする。

もしも彼女がこの光景を見たら、少しは嫉妬してくれるのだろうか。

「今日は用事はあるので」

煙を吐き、さっさと車に乗り込もうとするが女が離れない。

無理やりに引き離そうかと振り返ると、女は泣いていた。思い当たる節などないというのに、何処からか湧いて出た罪悪感に焦る。

「いや…また今度」

「ほんと?」

ぱっと顔を上げた彼女は涙を流しながらも満面の笑みだ。

これだから女って生き物は理解できないんだ。そう思いながら車で走り去った。



「お前の女、何処だっけ?職場」

目の前に顧客がいるというのに、全く気にする様子もなく上司に問われる。

本人から直接聞いたわけではないが、退院後に移ったという店の名前を告げるとにやりと笑う。

「明日、行ってみようか」

「明日ですか?」

動揺した。彼女に会いたくないわけではないが、果たして彼女は俺に会いたいのだろうか。わからない。

「じゃ、迎え頼んだぞ」

それだけ言うと客と一緒に外出していった。


次の日、言われた時間に上司を迎えに行った。

いつもは長い時間待たされるというのに、こんな時だけは時間通りに出てくる上司が憎い。

「最近いつ会ったんだ?」

「最近…は、忙しくて会ってません」

「連絡は?」

ハンドルを握る手に力が入る。

こいつは本当は何が聞きたいのだろう。

「とってません」

「じゃ、今日次第だな」

何が今日次第なのか、俺にはまるっきりわからない。だが、ミラー越しに目が合った上司の表情からあまり良い意味ではないのだろうと察した。

せっかちな上司はスピードを上げろ、とよく急かしてくるが、今日ばかりはアクセルを踏みたくない。


「いらっしゃいませ」

入り口付近で声を掛けられる。皆、俺よりも上司に目を向けているのは外見のせいだろうか。

「あの子いる?」

「はい。すぐにおつけできます」

「じゃ、さっさと案内して」

いやにかしこまった男についてぞろぞろと階段を昇る。絨毯のせいでくぐもった足音が連なる。

昇り切ると広い空間に出た。あちらこちらの席にちらほら人影が見えるが、彼女もいるのだろうか。しばらく見ていないのですぐにはわからないかもしれない。

「少々お待ちください」

そういうと男は下がった。

その後すぐ、アイスペールやグラスなどがやってくる。

「失礼します」

聞きなれない女の声に顔を上げると、予想通り彼女ではない女が立っていた。

名前は間違えていないはずだから、店を間違えているのかもしれない。上司の顔を見ると眉間に深いシワが刻まれている。

「あの、あなたじゃなくて…」

「あ、私は彼女の代わりなんです。もう少し待って頂きたいんです」

なるほど、と上司を見るとシワは消えた。

ほっと胸をなでおろすと同時に、忙しそうな彼女は流石だなと感心した。


「ありがとうございました」

数か月ぶりに聞く声に、自分でも驚くべき速さで顔を上げる。

しばらく見ていないのでわからない…そう思っていたが、俺の記憶通りの彼女がそこに立っていた。

「お隣、いいでしょうか」

記憶の根底にまで沈んでいた彼女の笑顔がそこにある。

その笑顔が俺を虚しくさせた。

「お久しぶりです」

俺と上司の間に挟まれ、彼女は上司に挨拶をしている。俺と目を合わせるのはいつになる事やら。


しばらく三人で会話をしていると不意に、上司が帰ると言い出した。

待て。俺はまだ何も話してないじゃないか。言いたい事をかみ殺し、さっさと席を立つ。

彼女をちらり盗み見たが、名残惜しそうにしてくれはしない。

「今日は楽しかったです」

にっこりと笑う彼女の目は、俺には向けられていなかった。


帰りの車内で上司が言った。

「お前はどうしたい?」

「どうって、何をですか?」

突然、上司が大声で笑いだした。俺はそんなにおかしなことを言ったつもりはない。

「彼女とに決まってるだろ」

「彼女……ですか」

「そうだ、彼女だ。どうしたい?」

運転中なので視線は外せないが、さっき見たばかりの彼女が浮かんだ。

そして何故か自分の姿が浮かぶ。

釣り合わない。どう頑張ったって釣り合わない。

「もう、無理だと思います」

「もう?」

「はい…」

また上司が笑った。

その声の大きさに耳が痛いほどだ。

「もうってお前、一度でも無理じゃなかった事があったのか?」

かちんと来た。

俺の思っていた時間は幻想とでも言いたいのだろうか。

心なしか運転も荒くなる。

「そう思ってますが」

「まあ、怒るな。けどお前が思っている事は第三者からすると的外れだったりするんだ」

「どの辺が、ですか?」

「それは自分で考えろ」



「ねえ、愛してる?」

「眠い…」

後ろから回される腕を振り払い、さっさと夢の中へ落ちようとする。

しかし、股間に違和感を感じ、なかなか寝付けない。イラつく。

「いい加減寝かせてくれよ」

「だって、愛してるって言ってくれないじゃん」

更にイラついてきた。事あるごとに泣かれるのだから、たまったもんじゃない。

さっさと起き上がり、落ちている洋服に袖を通す。

これ以上、一秒だって此処にいたくない。

「車使っていいから、何処に停めたかだけ後で連絡くれ」

それだけ言い残し、泣いているさやかを置いてホテルを後にした。


いつからこうなったのか、何故こうなったのかはわからない。

けれど、今日が初めてなわけではないし、さやかと来た場所は此処だけではない。

本来なら彼女と行きたかった場所、見たかったもの、食べたかったものを、さやかと潰していく不快感に胸が押しつぶされそうだ。

ホテルを後にしてから鳴りっぱなしの携帯電話。タクシーの窓を開け、適当に放り投げた。

あの女と会うのはもうやめよう。面倒だ。

「すみません。そろそろ行先を…」

バツ悪そうに聞いてくる運転手に、店の名前を告げた。


「いらっしゃいませ」

相変わらずかしこまった男に案内され、この間と同じ席に通される。

今日は人の数が少ないように思うが、彼女はしばらく来ず、代わりの者がどうでもいい話をだらだらとしている。

「ありがとうございます」

待ちわびた声ではなく、不愉快なほど低い声がした。

「申し訳ありません。まだしばらく来られそうにないのですが…」

「そんなに忙しいんですか?」

不快感を隠さず聞いた。相手の恐縮する様子に少しだけ、冷静さを取り戻す。

「どんなに遅くなろうが構わないから、とにかくつけてくれ」

「本当に申し訳ありません」

新人だろうか。少し泣きそうにも見える顔に、先ほど置き去りにした女がちらついた。


結局三十分ほど待って、彼女は来た。

ついこの間見た時とは全く別人のようだ。

太陽の下にすかせばそのまま消えてしまいそうだった髪の毛の色が、今は漆黒。息が止まった。

「似合うよ」

思うより先に、言葉が出た。

シェパードのようだと思った。真っ白な肌が際立ち、彼女の鋭い視線がよりいっそう強い光を放っている。

曲がったところなど見たことのない背筋も、更に彼女を気高く見せている。

「ありがとう」

聞きなれた声、見慣れた微笑で彼女は応えた。

俺一人だからだろうか。自惚れかもしれないが、上司に見せていた顔よりも彼女らしい気がする。

「この間は有難う」

「いや、俺の方こそ…」

沈黙が続く。

いつもなら焦って、何かしら話題提供しなくては…なんて考えるのだろうが、彼女にはそれをせずとも居心地の悪さは皆無。

「上司のせいで俺が話したい事は何一つ、離せなかった」

「帰り際、あなたの顔でわかった」

ふっと笑う彼女から目が離せない。

「ずっと考えてたんだ、君の事。というか、君の事以外は考えられなかった」

「そのわりには可愛い彼女がいるのね」

彼女のまっすぐな目が、ハッタリなんかじゃないと告げている。

胸のあたりが苦しい。

「…彼女は君だけだ」

「嘘つく人は好きじゃないわ」

「嘘じゃない」

彼女が目を伏せる。

以前より更に細くなってしまった肩を、今すぐにも引き寄せたい衝動をおさえるのに必死だった。

「嘘でしょ。私はもう、あなたとは関係ないわ」

「関係なくない」

「…そういえばそうか。今はこうして呼ばれてる」

「そうじゃなくて」

ふふっと笑いながら何処か遠くに目をやる彼女。頬もこけているようだ。

「俺、君じゃないと嫌なんだ」

「それは新しい彼女と比較して、でしょ」

笑顔を崩さない彼女が、正直何を考えているのかわからない。

「それも…あるけど、彼女だけじゃなくて君は論外なんだ。誰とも比較にならない」

この数か月、数日間で思った事がわれ先にと飛び出そうとしては、どれもうまく言葉にならない。

焦りばかりが募っている。

彼女の方は何か察しているのだろうが、敢えて口にしない。

ゆったりとグラスを口元へ運ぶ。

「私は誰のものでもない。人間全てがバラバラな中、比較すれば誰にでも秀でるもの、劣るものはあるわ。その中であなたが一番大事に思う部分を、彼女は持っていないのね」

「そこまでわかるなら…」

「私も、持っていないと思うの。あなたが一番大事に思うもの」

「そんな事ない!」

「どうしてそう言い切れるの?」

何処となく嬉しそうにこちらを見る彼女に、言葉を失った。

彼女は美しい。そして儚い。

手が届きそうなのに、こちらの手が何処を狙うか的確に知っている。全ては彼女の思いのままなのかもしれない。

「お願いします」

彼女が呼ばれ、腰を上げた。

あまりにも軽々と、そして自然に。

「帰りたい?」

「…いや、待ってる」

「そう。じゃあ、行ってくるわ」

さらさらと揺れる髪の毛から、彼女特有の香りを感じ、ゆるゆると瞼を閉じた。



「おい」

振り返ると不機嫌そうな上司の顔があった。

「どうなったんだ?」

「どうって、何がですか?」

言わなくてもわかるだろ。

表情でそう言いたいのがわかった。

「ふられました」

「そうか」

上司は特になにも言わず、さっさと歩いて行った。

その後ろ姿を見ているとつーと、涙が一筋流れたのだった。

今まで書いてきた中で、一番すらすらと書けたものです。

作品なんて立派なものではないので、“もの”です。


これを書くのにあたり、普段は話もしない方と話をしました。

その方にこの“もの”の存在は話していないのですが、私としてはその方と話せたから書けたのが嬉しくて。


着地点などは決めていないですし、テーマなんてものも存在しません。

ただひたすらだらだらと書いただけなので、もしも最後まで読んでくださった方はいて、その中で何かしら感想を持っていただけたなら是非ともお聞かせ願いたいです。


宜しくお願いします。


そして、順番は逆になってしまいましたが、有難うございました。

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