■1 ナミダカフェ-上
短編からこっちに移します。若干の修正が入るかもしれませんが、たぶん途中で面倒になってコピペになるかと。
「今日もいいの?」
俺が驚いて顔を見返すと、はい、と店主である彼女はうなずいた。ただ、その顔はどこか浮かない表情で、だから余計に悪い気がした。
一人、東京にやってきてから間もないころ、突然この喫茶店を見つけ、ふらりと入りこんだのが最初だったと思う。出されたコーヒーは生まれてから飲んだコーヒーの中で一番美味しく、それ以降は他のなんか飲めないなと思うほどだった。そして会計の時になって財布がポケットにないことに気付き、焦って何も考えられなくなった俺に彼女は言ったのだ。
「大丈夫です、今回は」
上京して早々食い逃げ犯になりかけた俺は、有難くこの言葉にすがりつくことにした。
家に帰って財布の中を覗いてみると、とても喫茶店に行くという楽しみを作れるような余裕なんてなく、もう行くのはやめておこうと思ったのだが。
「……お金、返さなきゃいけないし」
あまりにもあのコーヒーが美味しかったということで、重くのしかかっていた罪悪感を言いわけのようにつぶやいて、俺は再び、その喫茶店へ出向いたのだった。
それ以来、2杯飲んだら1杯分、3杯飲んでも2杯分と、俺にだけ1杯分まけてくれるようになった。
その状態が2年ほど続いて、彼女の表情も2年前から沈んだままだ。……いや、はじめて行った時はまだ明るかったような、気もする。
今なら喫茶店が負担になるほど切り詰めた生活はしてないし、コーヒーだっておまけしてもらわなくても大丈夫なのだが、強引にでも払おうとすると「いいですから、本当に大丈夫ですから」と泣きそうな顔で言うものだから、今は素直に受け取ることにしている。
──彼女の顔を見ると、やはり悪い気はついてきてしまうのだけど。
その日は頼んだ覚えのないパイがそっと机に置かれた。
驚いて彼女を見上げると、「新作の試作品です」と言う。周りを見てもこれをもらっているのは俺だけで、ありがとう、と小さく言うと、どこか嬉しそうに彼女は微笑んだ。
カウンターの方へ戻って行く彼女の後ろ姿を見ると、キュッと耳たぶを引っ張って、その拍子につけていた小さなイヤリングが落ちたようだ。あわてて拾い上げている姿が面白くて可愛くて、笑いを堪えながらパイを齧ってみる。何層にも積み重なったパイ皮の間から出てきたソースが美味しい。コーヒーが美味いなら、パイも美味しいわけだ。今まではコーヒー以外に何も頼んでいなかったが、今度から何かもう一つ食べてみようと思った。
ただ、さっきの耳たぶを引っ張る癖はどこかで見たことがある気がした。いつか、どこかで、誰かが──
「朝香」
そうだ、朝香ヒナキ。苗字も下の名前みたいな人、と俺の中で認識されていた、中3の時のクラスメイト。「ヒナキ」の字面は忘れてしまったが──いや、片仮名だったような気もする──確かそんな名前だったはず。
「あの、いきなりなんですけど……伏原中学出身だったりします?」
レジでどきまぎしながらそう聞いてみると、彼女の目が少し変わったような、気がした。
「はい、あなたもですよね……光野君」
突然名前を言われても、驚きはしたが怖いとは思わなかった。
「朝香さん、朝香ヒナキさんですよね」
俺が言うと、はい、と嬉しそうに彼女はうなずき、やっと気付いてくれましたか、と小さくつぶやく。
どうせこのあと用事もないし、他のお客が帰るまで俺は待っておくことにした。
彼女が朝香と気付くと、さっきまで何とも思わなかった目鼻立ちが中学時代の朝香の姿と重なっていくのが不思議だ。
「さっき“やっと”って言いましたよね。朝香さん、前から知ってたんですか?」
俺の問いに、彼女は気恥ずかしそうにうなずく。
「言ってくれればいいのに」
少し口を尖らせると、朝香は何も言わずに微笑んだだけだった。
次の日、格段にコーヒーの味が落ちた気がした。
美味しいか不味いかに分けたら断然「美味しい」に入るが、前のと比べると、俺でも分かるくらいに落ちている。
何でだろうと、カウンターの方にいる朝香をチラリと見ると、その表情は喫茶店に通い始めて初めてみるほど、明るかった。
元気になったのなら味もよくなりそうなものだが、なんせ彼女は中学の頃から風変わりなところがあるし、普通に考えるものとは少し離れた結果になるのかもしれない。
次の日も、味は昨日と変わらないままだった。2年間あの味で舌が肥えてしまったらしい俺は、我慢できずにカウンター席へ移動した。
「どうかされましたか」
彼女が不安げな顔で聞いてくる。俺が首を振ってなんとなく、と答えると、そうですかと彼女は笑った。
相変わらず動作はそっとしたものだったが、表情は──一昨日までを雨とすれば、昨日、今日は雲ひとつない快晴のような。
「なんかあったんですか」
今度は俺が尋ねると、朝香は首を傾げた。
「……最近、表情が明るいから」
朝香は顔を赤らめて、
「光野君が気付いてくれたからです」
と言う。──味が落ちたの、もしかして俺に原因があったりするのか。朝香に暗い表情でいろとは言わないが、やっぱりあのコーヒーの味が恋しい。
「てことはさ、今まで沈んだ顔してたのも、俺が気付けなかったから?」
「はい」
「……なんか、ごめん」
思わず謝った俺に、朝香ははじめて可笑しそうに笑った。今までそっと微笑む笑顔しか見たことがなかったから、この笑い方は新鮮に見える。つられて俺も笑うと、奥から従業員らしき人が顔を覗かせた。この人にとっても、朝香のこの笑い方は珍しく映るのだろうか。
壁にかかっている時計を見上げると、もう夕方の4時だ。周りの客も徐々に減っている。
「中3の時──いや、もう1年の時からずっと光野君を目で追うようになってました」
朝香も客の人数を察したのか、話し始めた。
「何でだったかな、ちゃんとした理由は覚えてないけど、廊下で教科書落としたときに拾ってくれたりとか、落ちたペンが手の届かない奥まで転がっちゃったときに、わざわざ床に這いつくばって取ってくれたこととか、とにかくそんなところに惹かれたんだと思います」
惹かれた。──これは、現在進行形なのだろうか。
「だから、三年のクラス替えの時、思わず一覧表ニ度見しました。すっごく嬉しかったんです。本当に。一番心に残りそうな年に同じクラスになれて、卒業アルバム同じページに写れて」
こっちの顔が熱くなってきて、思わず俺がうつむいた。ごまかすようにコーヒーを飲んでみるが、喉を伝って落ちていくのが異様に遅い。
「卒業式の日に告白したいとは思ってたんですけど──」
自らのカップを手で包みながら朝香は苦笑いして、勇気が足りませんでした、と言った。
「でも何で気付いたんですか?」
やっとそっちの話題回避、と若干ホッとして、俺は答える。
「パイくれた時に、耳引っ張ってたじゃん。なんか同じような癖の奴いたよなぁと思って、朝香じゃん、みたいな」
朝香は頬に手を添えて、見られてたんですか、と恥ずかしげに笑った。
そのまま、朝香が言った「惹かれる」だの「目で追う」という言葉は紛れてしまって、心のどこかでホッとしている自分に苛立ちつつ、罪悪感と共に店を出る。
結局、コーヒーの味の秘密もよく分かっていない。
家に帰って、時間が経つにつれ罪悪感が膨らんできた。やがて頭の中が自分への嫌悪と朝香への罪悪感という最悪な二色に染まった時、朝香の言葉を思い出し卒業アルバムを引っ張り出す。
「うわ、全然変わってないな」
アルバムの中で笑っている朝香を見て思った。──変わってないのに、俺は気付けなかったのか。
対する俺は、自分でも変わったのかどうか分からない。でも、朝香が俺だと分かったということは、そこまで変わってもいないのか。そして、名簿的に朝香の写真と俺の写真は離れている。
「こんなんでも、嬉しかったんだとさ」
中学でも高校でも、告白されたのなんて数えるほどしかないし、付き合ったのも一人か二人くらいだ。そのうち一人は、俺の方からは好きという感情は欠片もなかったが、「付き合ってるうちに好きになるかも」と思っていたらいつしか泣かれて、離れて行った。他の一人は、「思っていた人と違う」と言われて、これも離れて行った。
そんな儚いというかなんというか、ちょっと悲しいような恋愛したことがない俺だが、こんな風に思ってくれていた人はいたのだ。
──「付き合ってるうちに」なんてことはもう考えないと決めた。朝香はきっとその女子みたいに目の前で泣いたりはしない。誰もいない暗闇で、一人、静かに深く傷つきながら泣くのかもしれない。
彼女の気持ちを、踏みにじるわけにはいかなかった。
というわけで、今回は楽々で「下」につづきます。