第一話:基礎の崩壊と契約解除
「イリス・フォン・ランドール、貴様との婚約を破棄する!」
王立アカデミーの卒業記念パーティー。
その最中に、婚約者のエドワード王太子が声を張り上げた。
シャンデリアの光が、彼の金髪を眩しく照らしている。
その隣には、桃色のドレスを纏ったリリアが寄り添っていた。
私は手にしていたグラスを、そっと近くのテーブルに置いた。
グラスがカチリと音を立てる。
私の心は、この大理石の床よりも冷静だった。
「理由は、お伺いしてもよろしいでしょうか」
私は感情を排し、事務的なトーンで問い返す。
エドワードは鼻で笑い、リリアの肩を抱き寄せた。
「理由は貴様自身が知っているはずだ。
地味で冷徹、実学ばかりにうつつを抜かす女。
僕が求めているのは、リリアのような華やかで愛らしい、癒やしの存在なのだ」
周囲からひそひそとした嘲笑が漏れる。
「地味な建築令嬢」
それが社交界での私の評価だった。
豪華な装飾よりも、強固な支柱を好む。
流行のドレスよりも、緻密な設計図を愛する。
それが王太子妃として相応しくないというなら、その通りなのだろう。
「左様でございますか。婚約の解消、承知いたしました」
私は短く答え、思考を「構造計算」へと切り替えた。
エドワード様は、大きな勘違いをされている。
彼が今、この豪華な離宮で、快適にパーティーを楽しめている理由を。
「つきましては、婚約に伴い締結されていた『業務委託契約』も、本日をもって解除させていただきますわ」
「契約……? 何を言っている」
エドワードが怪訝そうに眉を寄せた。
私は淡々と続ける。
「ランドール侯爵家と王家との間で交わされた、王宮および関連施設の維持管理に関する契約です。
この建物を支える『補強魔法』。
空気を循環させる『熱量調整術式』。
これらはすべて、私が個人資産である魔力を割いて提供していたものです」
「ふん、そんなもの、宮廷魔導師にやらせれば済む話だ。
貴様の代わりなど、いくらでもいる」
エドワードは傲慢に言い放った。
リリアもそれに同調し、鈴を転がすような声で笑う。
「そうですわ、イリス様。
エドワード様を困らせるような言い方は、はしたないですわよ」
リリアが身につけている首飾り。
それは王家の内廷費、つまり王族の私金から出されたものだろう。
だが、その維持費を捻出するために、私がどれだけ王宮の修繕費を節約し、効率化させてきたか。
彼らは知る由もない。
「承知いたしました。
管理権は即刻、王宮管理部へ返上いたします。
ただし、私が作成した『設計図』および『術式構成図』は、私個人の知的成果物ですわ。
契約終了に伴い、王宮側に与えていた『使用権』の許諾はすべて取り消します。
お手元の複製図面は速やかに破棄、または返還していただきますよう、厳重に申し伝えます」
私は手元の魔導デバイスを操作した。
掌サイズの、銀色の円盤。
これは私の私物であり、王宮の魔法設備を制御するための鍵だ。
「何をしている!」
「後始末です」
私はシステム上の「全契約解除」を選択した。
その瞬間。
会場の空気が、わずかに揺れた。
まず変わったのは、温度だった。
快適に保たれていた室温が、急速に下がり始める。
窓の外は、すでに冬の気配が濃い。
魔法による「熱循環」が止まったことで、冷気が床から這い上がってくる。
「冷えるわ……エドワード様、どうしたのかしら」
リリアが細い肩を震わせた。
だが、それだけではない。
天井のシャンデリアが、不規則に点滅を始めた。
「イリス、貴様、嫌がらせをしているのか!」
エドワードの怒声が響く。
私は首を横に振った。
「いいえ。私はただ、自分の持ち物を引き揚げただけです。
この建物の所有権は王家にありますが、それを維持する技術は私のものです。
使用料も払わず、契約も断たれた相手に、サービスを継続する義理はございませんわ」
私は周囲を見渡した。
壁の隅に、小さな亀裂が走るのが見えた。
この離宮は、見た目こそ華やかだが、基礎が脆弱だった。
私の「構造補強魔法」がなければ、自重に耐えることすら危うい。
「それでは、失礼いたします。
皆様、どうぞ冷えないようにお気をつけて」
私は深く頭を下げた。
これ以上、ここに留まる理由はない。
私はドレスの裾を翻し、混乱が広がる会場を後にした。
馬車に乗り込むと、凍えるような夜風が頬を打つ。
だが、不思議と心は晴れやかだった。
これまで、義務感だけで支えてきた。
愛されることも、感謝されることもない、砂上の楼閣のような関係。
それがようやく、崩れ去ったのだ。
「さて、次はどうしましょうか」
私は手元に残った、自分だけの資産を思い浮かべる。
磨き抜いた建築魔法。
前世の記憶に眠る、鉄筋コンクリートや断熱材の知識。
そして、この国の北にある、極寒の未開地。
あそこなら、私の力が、本当の意味で必要とされるはずだ。
私は御者に、ランドール邸への帰還を命じた。
明朝、私はこの王都を発つだろう。
王宮の空調が氷点下になり、離宮の壁が崩れ始める頃には。
私は自由な空の下で、新しい設計図を描いているはずだ。
「地味で冷徹な女……ですか。
ええ、結構ですわ。私は夢よりも、確かな一歩を設計したいのです」
闇夜を走る馬車の窓に、自分の顔が映る。
そこには、これまでになく力強い、一人の技術者の瞳があった。




