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紅葉-くれは-  作者: 菊池まりな


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第97話 闇の中で聞こえた声

足音は、確かに近づいてきていた。

 けれど、まるで霧の中で位置が曖昧になるように、一定の距離を保ったまま焦点が合わない。


 近いのに、見えない。

 気配だけが、こちらに触れようとしてくる。


 祐真は、美奈を背後に押しやりながら静かに言った。


「声を出すな。目も閉じていろ」


 美奈は必死に息をひそめ、祐真の背中に額を押し当てた。

 足音は二人の真横を通り過ぎるように聞こえた。


 ──ザッ…ザッ…


 土を踏むその音は、まるで人間の歩幅とは少し違う。

 不揃いで、引きずるようで、確信が持てない不気味さがあった。


 そして──その真上から、声が落ちてきた。


 ──「……み……つけた……」


 美奈は震えた。

 息が漏れそうになるのを、祐真の手がそっと塞ぐ。


(祐真さん……震えてる……)


 彼がこんなに怯えているのを、美奈は初めて見た。

 彼の指先は冷たく、かすかに汗ばんでいる。


 足音が、ぴたりと止んだ。


 風も止まり、森全体が耳を澄ませるように沈黙する。


 その静寂の中、再び声がした。

 今度は、地面に溶けるような低さで。


 ──「……返して……」


 美奈の背筋に冷たいものが走った。


(返して……? 何を……?)


 返事をしてはいけないと分かっているのに、胸が締め付けられるような悲しい声だった。


 祐真が、美奈の手を強く握った。


 そして、ほんの一瞬の隙をついて、祐真は美奈の手を引き、闇の中を走り出した。


「──走れ!」


 美奈は声にならない悲鳴をあげながら、必死で足を動かす。

 祐真が握る手は強く、引きずられるほどだった。


 背後で──足音が追ってくる。


 さっきより速い。

 確実に、近づいてくる。


 木々の影が揺れ、枝がはじける音が響いた。


「こっちだ!」


 祐真は古い林道脇の、小さな崩れかけた小屋へと美奈を押し込んだ。

 中は真っ暗だが、外よりはまだ安全だった。


 祐真は素早く入口に板をかけ、光を漏らさないよう懐中電灯の上に手ぬぐいをかぶせる。


 外では──足音が小屋の周りを回っている。


 ──ザッ……ザッ……ザ……


 そのたびに、小屋全体が軋んだ。


 やがて、足音は止んだ。


 止んだのに──そこにいる気配だけが、重く残っている。


 美奈は祐真の袖を握り、震える声で囁いた。


「……祐真さん……今の……人じゃ、ないですよね……?」


 祐真は答えなかった。

 答えられなかった。


 本能が告げていた。

 あれは“人間の足音ではない”。


 そして。


 暗闇の向こうで、再び声がした。


 ──「……ミ……ナ……」


 美奈の身体が凍りつく。


「なんで……私の名前……」


 声は続けた。


 ──「……くれはを……かえせ……」


 美奈は口を押さえ、祐真は美奈を抱きしめるようにして守る。

 その瞬間、外の気配がふっと消えた。


 まるで最初から、誰もいなかったかのように。


 だが、美奈の耳には、まだかすかに余韻が残っていた。


 ──紅葉を返せ。


 何者かが、確かにそう言った。


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