第89話 供物の儀
祠の前の空気が、ひと息に凍りついた。
春香の指先はまだ紅葉に向かって伸ばされていたが、次の瞬間、彼女の身体が小刻みに震え始めた。
祐真は慌てて春香を抱きとめ、背後の木陰へ引きずる。
美奈は涙をこぼしながらも、祠の中を見つめていた。
「……今の、紅葉ちゃん……あれ、本当に……」
言葉が続かない。
彼女の視線の先、祠の奥には、何かが“祀られていた”。
古びた木の棚。
そこには陶器の皿が並び、干からびた花や折れた人形の腕、そして土で覆われた古い帳面があった。
祐真が息を整え、震える手で帳面を拾い上げる。
表紙には、墨で書かれた文字。
「供物の記録」
湿気で紙が崩れかけていたが、ページの中には村の古い字でびっしりと文字が並んでいた。
“森神ノ怒リヲ鎮ムル為、母ト子ヲ以テ贄トナス”
“春彼岸、秋祭ノ折、選バレシ母ノ子ハ森ニ帰ル”
美奈の顔から血の気が引く。
「……秋祭り……紅葉が消えた日」
春香は唇を震わせながら、次の行を読み上げた。
“子失エシ母ハ、翌代ニテ呼バル”
その意味を理解した瞬間、三人の背筋を冷たいものが這い上がった。
「まさか……春香さん、あなたが……」
祐真の言葉に、春香は首を横に振った。
「違う……でも……美桜を失ったあの夜から、ずっと、夢の中で誰かに呼ばれていたの。
“次はあなたが”って……」
“次はあなたが”──その言葉が、まるで祠の奥から囁かれたように響いた。
チリン。
鈴の音がもう一度鳴る。
春香が反射的に振り向くと、木々の間に紅葉の姿が見えた。
白い影のように、静かに立っている。
しかし、その瞳は紅葉のものではなかった。
“母を呼ぶ”
その唇が、確かにそう動いた。
「紅葉っ!」
春香は祐真の制止も振り切って駆け出した。
美奈も泣きながら追う。
だが紅葉の姿は、霧の奥へ、森の深層へと消えていった。
祐真が荒い息を吐きながら、残された帳面を握りしめた。
最後のページには、震えるような筆跡でこう記されていた。
“贄トナレシ母ハ森ニ喰ラワレ、子ハ姿ヲ変エテ還ル”
血のように赤黒いインクが、最後の一文を滲ませていた。
そして──
その文字の下に、誰かの名が掠れた筆で書かれていた。
「橘 春香」
祐真の手から帳面が滑り落ちる。
森が、再びざわめいた。
──まるで、それを“読んだこと”さえ罰するかのように。




