第87話 声の主
井戸の底から聞こえるその声は、まるで土の中から直接響いてくるようだった。
“かえして”
“わたしの……かわりに”
耳をふさいでも止まらない。心の奥に直接語りかけてくるような──そんな響きだった。
「い、今の……聞こえた?」
美奈の声は震えていた。懐中電灯を握る手が汗で滑りそうになっている。
祐真は春香をかばいながら、井戸を見下ろす。
「確かに……声だ。だが、どこから……」
言葉を途切れさせた瞬間、再び鈴の音が鳴った。
──チリン。チリン。
まるで誰かが、その音を合図にしているように。
春香の唇が青ざめた。
「美桜……なの?」
誰にともなくつぶやく。
井戸の闇が、ほんのわずかにうねったように見えた。
そのとき、足元の土が「ズズ……ッ」とわずかに動いた。
祐真が懐中電灯を向けると、井戸の周りの地面が濡れている。
そこに、小さな裸足の足跡が、森の奥へと続いていた。
「……今の足跡、見ました?」
美奈が息を呑む。
「まるで、誰かが“ここから出ていった”みたい」
春香は立ち上がり、その足跡を追おうと一歩踏み出した。
祐真が腕を掴む。
「危険です。あの声が何なのか分からない。下手をすれば──」
「──でも、行かないと。紅葉も、美桜も、同じ森で……」
春香の瞳には決意が宿っていた。母の本能が、恐怖よりも強く燃えていた。
三人は懐中電灯の明かりを頼りに、足跡をたどって森の奥へ進んだ。
風が止み、木々の葉がひとつも揺れない。
ただ、遠くで子どもの笑い声が、何度も何度もこだましていた。
──あはは。みつけた。
次の瞬間、春香の目の前に“それ”は現れた。
白いワンピースを着た少女。
髪は湿った土で黒く汚れ、顔の半分は影に隠れている。
けれど、その首元で──小さな鈴が、かすかに鳴った。
「……紅葉?」
春香の声が震える。
だが、少女はただ、ゆっくりと顔を上げた。
そして笑った。
それは紅葉の笑顔ではなかった。
“誰か別のもの”が紅葉の姿を借りて、そこに立っていた。
──おかあさん。
──もう、かわりは見つけたの。
チリン……。
鈴の音が、森全体に響き渡った。




