第87話 封じられた井戸
闇の中を抜けると、急に森の音が消えた。
虫の声も、風のざわめきもない。ただ、沈黙だけが辺りを支配している。
春香は息を止め、懐中電灯の光を前へ滑らせた。
そこには──崩れかけた古井戸があった。
石積みはひび割れ、苔がびっしりと張り付いている。
井戸の口は木の板で塞がれ、その上には古びた御札が貼られていた。
だが、その御札の半分は風に剥がれ、はらりと舞い落ちていた。
「……ここだけ、空気が違う」
祐真が低くつぶやく。
確かに、周囲の空気は湿って重く、まるで息を吸うことさえ拒むようだ。
「ここ、昔……“封鎖区域”って言われてた場所じゃない?」
美奈が小声で言った。
「子どものころ、来たことある。近づくと、変な声が聞こえるって……」
春香は震える手で、井戸の縁に近づいた。
胸の奥で、何かがざわつく。懐かしさと恐怖がないまぜになって、彼女を突き動かしていた。
──ここだ。あの夜、美桜が消えたあと、私が夢で何度も見た場所。
「待ってください」
祐真が制止する。
「封印があるということは、何かを“閉じ込めた”可能性がある。下手に触ると危険です」
その言葉を聞いた瞬間、春香の足元で、乾いた音がした。
パキ……。
見ると、踏みしめた木の板がひび割れ、黒い隙間がのぞいた。
井戸の奥から、冷たい風が吹き上がり、春香の頬を撫でる。
そして──鈴の音が、はっきりと響いた。
チリン……チリン……。
美奈が悲鳴をこらえて後ずさる。
祐真は拳銃の代わりに懐中電灯を握り直し、井戸の中を照らした。
光が落ちていく。
その先に、何かが見えた。
白い布──いや、服だ。
子どもの服のような小さな袖が、ゆらりと揺れている。
その隣に、赤黒い鈴の飾りが、泥に埋もれて光っていた。
「……美桜……?」
春香の声が震えた。
その瞬間、井戸の奥から“何か”が、春香の手首をつかんだ。
「っ!?」
冷たい感触。氷のような手。
引きずり込まれる──!
祐真がとっさに春香を抱き寄せ、後ろへ引き戻した。
二人が倒れ込むと同時に、井戸の口から腐った木片が飛び散り、風がうなりを上げる。
鈴の音が狂ったように響き渡った。
「美桜じゃない! 誰かが……中にいる!」
祐真の声が震える。
春香は涙を流しながら、井戸を見つめた。
その底で、小さな笑い声がした。
──かえして。
──わたしの……かわりに。




