第84話 封じられた森
夜が明けきらぬうちに、冷たい霧が村を包んでいた。
昨夜の森で見つけた箱の重みが、まだ三人の心にまとわりついている。
春香は、縁側で膝に毛布をかけ、ぼんやりと庭の方を見ていた。
隣では、美奈が紅茶を手にしながらも、ほとんど口をつけていない。
どちらも眠れてはいなかった。
「……本当に、夢じゃなかったんだよね」
美奈の声はかすれていた。
春香は頷くことしかできなかった。
昨夜、森で見つけた古い箱。
その中の“鈴”は、確かに紅葉のものだった。
そして、あの一枚の半紙──“次は、紅葉の番”と書かれた文字。
誰が、いつ、何のためにそんなものを埋めたのか。
考えれば考えるほど、胸の奥が冷えていく。
やがて、外から足音が近づいた。
一ノ瀬祐真が玄関に現れ、静かに頭を下げた。
彼の表情は、夜よりも重たかった。
「春香さん、美奈ちゃん……これから古沢住職のところに行こう。
あの森のこと、知っているのは彼だけだ。」
春香はすぐに顔を上げた。
「……住職が?」
祐真は頷いた。
「20年前、美桜ちゃんの件のときも、真っ先に『森へ入るな』と警告していた。
あの人、何か知ってる。」
3人は、山裾にある古い寺「永願寺」へ向かった。
苔むした石段を登ると、朝霧の中に古沢住職が佇んでいた。
白髪交じりの僧衣姿。深い皺の奥に宿る眼は、どこか怯えているようでもあった。
祐真が口を開く。
「住職……お聞きしたいことがあります。橘紅葉さんが行方不明になった森のことです。」
古沢は、長い沈黙ののち、低い声で言った。
「……また、呼ばれたか。」
その一言に、春香の背筋が凍った。
「“また”……ということは、やはり、二十年前も……?」
住職はうなずき、視線を森の方へ向けた。
「この村には古くから“森の神隠し”という言い伝えがある。
祭りの夜、鈴の音に導かれて子どもが消える……。
それは“山の神”が『子を返せ』と怒る時だとされてきた。」
祐真は眉をひそめる。
「子を返せ、って……どういう意味ですか?」
住職の声は、次第に掠れていった。
「昔、この土地に開墾が入った際、山を削り祠を壊した。
そこには“守り子”と呼ばれる子供の像が祀られていたんじゃ。
以来、七年ごとに子がひとり、いなくなるようになった。
……最初に消えたのが、美桜ちゃんの代だ。」
春香は絶句した。
「そんな……偶然じゃなくて……?」
「偶然ではない。」
住職はきっぱりと首を振った。
「森は、忘れた約束を覚えておる。
“あの祠を返せ。子を返せ”と。
だから呼ぶのじゃ。血のつながりをたどって。」
美奈の手が震えた。
「紅葉ちゃんが呼ばれたのも……その“血”のせいですか?」
住職は静かに目を閉じた。
「そうかもしれん。
……だが、今回の呼び声は、前とは違う。
“人の手”が、封を破った。森の掟を、動かした者がいる。」
「人の手?」祐真が問い返す。
住職はゆっくりと彼を見つめ、重々しく告げた。
「森の奥には、まだ“開けてはならぬ場所”がある。
そこを壊した者がいるのだろう。
……あの森を知る者の中に、な。」
沈黙が降りた。
春香の胸がざわつく。
まるで、あの箱を掘り返した自分たちが、その封印を破ったかのように。
祐真は小さく息を吐いた。
「もし、それが本当なら……紅葉を取り戻すには、封印を元に戻すしかない。」
住職の眼が、ほんの一瞬だけ強く光った。
「だが、その代償は大きいぞ。森は、必ず“代わり”を求める。」
春香の喉が音を立てた。
代わり──その言葉が、彼女の心に重く沈んだ。
外では、鈴虫の鳴く音に混じって、風鈴のような高い音が一瞬だけ響いた。
チリン。
それは、森の方角から。
紅葉の声のように、彼らを呼んでいた。




