第81話 封印の鏡
闇を裂くように走る懐中電灯の光。
森の中を逃げる三人の足音が、湿った土を叩く。
背後から追ってくるのは、確かに“人の形”をしていた何か。
だが、振り返る勇気を誰も持てなかった。
春香の手を引きながら祐真が叫ぶ。
「こっちです! この先に旧神社跡がある!」
息を切らしながらも、祐真の目は鋭く森の奥を見据えていた。
あの祠を見たのは、子供の頃──たった一度だけ。
橘美桜が消えた日の夕方、同じ森の奥で。
──“呼ばれて”いた。
その時の冷たい風の匂いが、今も記憶の奥底にこびりついている。
倒れかけた鳥居をくぐり抜けた瞬間、世界が急に静まり返った。
音が消えた。
風も止まり、鈴虫の声さえ途絶える。
まるでここだけが、別の時間に閉ざされたようだった。
崩れた石段の上に、小さな祠がある。
苔に覆われた扉は半ば壊れ、その奥に――黒く光る“鏡”が鎮座していた。
大人の顔ほどの大きさ。
縁は朱塗りの木で、だが長年の風雨に剥げ落ち、血のような赤錆が浮かんでいる。
「……これが、封印の鏡……?」
美奈の声が震えた。
春香は無言でうなずく。
「私が……二十年前、これを使ったの。
この鏡に映った“願い”は叶う。けれど、代わりに──」
その続きを言い切る前に、祐真が低く呟いた。
「代わりに、誰かが奪われるんですね」
春香はうつむいたまま、頷いた。
「美桜を返してほしくて……あの夜、鏡を覗いたの。
鏡には、確かにあの子の姿が映った。
でも……次の瞬間、美桜の姿と一緒に、村の子が一人……消えたの」
「……それが、祐真さんじゃないんですか?」
美奈が息を呑んで問うた。
祐真は首を横に振りながら、目を伏せる。
「俺はその時……何かを見て、記憶を失ったんです。
ただ、覚えてるんです。鏡の中の子供たちの顔。
……俺が助けられなかった子たちの顔を」
祐真の懐中電灯が、祠の奥を照らす。
鏡の表面に、何かが“浮かんでいた”。
小さな手形が無数に押され、まるで中から外に出ようとしているように見える。
手形のひとつが、ゆっくりと“動いた”。
「……祐真……お兄ちゃん」
低い声が、鏡の中から響いた。
祐真の顔が凍りつく。
「……まさか……」
「覚えてる? あの夜、私を置いていったの」
声は確かに、幼い女の子のものだった。
春香が息を呑む。
「美桜……?」
祐真は、目の奥が熱くなるのを感じた。
「俺は……助けたかった……! でも、あの時──!」
その瞬間、鏡の表面が波打った。
黒い水面のように揺れ、無数の影が浮かび上がる。
その中に、赤い着物を着た少女の姿。
──紅葉だった。
紅葉は鏡の向こうで、ゆっくりと微笑んでいた。
「お母さん……返したよ」
春香の心臓が止まるような痛みとともに、彼女の身体が祠の方へ吸い寄せられる。
「春香さん!」
祐真が叫び、腕を掴んだ。
だが鏡から伸びた“何か”が、春香の足首を絡め取る。
白く細い腕──それは紅葉のものに見えた。
「お母さん、もう大丈夫。今度は私が行く番」
祐真が銃を抜こうとした瞬間、鏡の中から“鈴の音”が鳴った。
チリ……ン。
音と同時に、祠全体が悲鳴を上げるように軋んだ。
美奈が泣き叫ぶ。
「紅葉ちゃん、やめて! 戻ってきて!」
紅葉の目が、一瞬だけ美奈を見た。
涙のような光が頬を伝い、そして──その姿は闇に溶けた。
鏡が、静かに割れた。
祠の中に、風が吹き抜ける。
鈴の音だけが、長く長く、夜の森に響いていた。




