第80話 封じられた祈り
森のざわめきが、遠い鼓動のように春香の耳を叩いていた。
祐真の手が腕を掴んでいるのに、それでも彼女の身体は前に進もうとする。
──紅葉が、あの奥にいる。
理屈ではなく、母親としての直感がそう告げていた。
だが、その先へ足を踏み出すことが、どれほどの“禁忌”かも分かっていた。
「……春香さん、封じたって……誰をですか?」
祐真の声は低く、張りつめていた。
春香は答えられず、森の奥を見つめる。
すると、足元の土がゆっくりと動き、小さな木札が転がり出てきた。
泥にまみれたその札には、墨のような黒い線で「ミオ」と書かれている。
祐真の喉が音を立てた。
「……橘美桜、ですか」
春香はゆっくりとうなずいた。
「三歳だったあの子を……私は、取り戻そうとして……。でも、違った。あの森は“命”を返さない。ただ、別の命を……」
声が震えた。
「──代わりに、持っていくの」
美奈は息を呑み、思わず後ずさる。
「紅葉ちゃんは……それを知ってたんですか?」
春香は震える指先を胸にあて、泣きそうに笑った。
「ええ。あの子は私の日記を読んだの。あの日、隠しておいたのに……。
“お母さん、嘘つきだね”って……笑ってた。
“私、返してくる。あの子の分も、ちゃんと”って──」
静寂が落ちた。
その沈黙を、森の奥からの鈴の音が破る。
チリ……ン。
さっきよりも近い。まるですぐ傍にいるような錯覚。
祐真は懐中電灯を強く握った。
「紅葉は“何かを返すために”森へ入った……。
春香さん、その封印──どこにあるんですか?」
春香の唇がかすかに動いた。
「──祠の下。旧神社跡の奥。あそこに“鏡”があるの。
誰かの顔を映すと、それが“向こう”に引き込まれる。
私も……一度、映したの。美桜の姿を……」
その瞬間、遠くでガサリと木々が揺れた。
風の音ではなかった。
何かが、ゆっくりと“這い出てくる”音だった。
美奈が小さく叫ぶ。
「今、何か……動いた……!」
祐真が春香を庇い、ライトを向けた。
だが光の輪の中に映ったのは、木々の影と、地面を這う長い髪のようなもの。
祐真の呼吸が止まる。
髪はゆっくりと動き、やがて“顔”を持ち上げた。
──紅葉。
いや、紅葉に似た“何か”。
肌は土のようにくすみ、唇だけが不気味なほど赤い。
「おかあさん」
その声は、確かに紅葉のものだった。
春香は膝をつき、泣きながらその名を呼んだ。
だが祐真の本能は警鐘を鳴らしていた。
──違う。これは紅葉じゃない。
“それ”が一歩踏み出すたび、地面から水音のようなぬめりが響いた。
そして、祐真の耳に微かに届く声。
──ミオを返せ。
──代わりを、返せ。
祐真は銃に手をかけ、春香を抱き寄せながら叫んだ。
「美奈、走れ! ここはもう──!」
だが、美奈の足は動かなかった。
紅葉の顔をした“それ”が、じっと自分を見つめていた。
──チリ……ン。
風もないのに、髪飾りの鈴が鳴った。




