第79話 森が哭(な)く夜
春香の胸の奥で、何かが軋んだ。
掘り返された土の匂い、木札に刻まれた「タチバナ」の文字。
それらは、眠っていた記憶を容赦なく引きずり出す。
──あの夜も、風が鳴っていた。
秋祭りの提灯の灯りが森の入り口を照らし、ざわめきの中で子どもたちの笑い声が響いていた。
「紅葉、あんまり奥に行っちゃダメよ」と声をかけた自分の言葉が、空気に溶けていく。
その背中は振り向かず、赤い着物の裾だけがちらりと光の中を跳ねた。
──それが、最後に見た娘の姿だった。
「春香さん?」
現実の声に呼び戻され、春香ははっと顔を上げた。
祐真が心配そうに覗き込み、美奈はそっと手を握ってくれている。
だが春香の視線は、掘り返された地面から離れなかった。
そこから、確かに“声”が聞こえる気がしたのだ。
──おかあさん、どうして。
空耳ではなかった。確かに紅葉の声だった。
「紅葉……あなたなの?」
呟くように問いかけた春香の目に、涙が滲む。
祐真と美奈が見守る中、春香はゆっくりと地面に手を伸ばした。
その指先が土に触れた瞬間、冷たい震えが腕を這い上がってくる。
まるで、底なしの闇が彼女の体を引きずり込もうとしているようだった。
「やめてください!」
美奈が春香の手を掴んだ。
「そこ……危ないです。紅葉ちゃんが呼んでるんじゃない……“何か”が、呼んでるんです」
その言葉に、祐真の表情が険しくなる。
「美奈、どういう意味だ?」
美奈は唇を噛みしめ、震える声で言った。
「紅葉と話したとき、言ってたんです。“森は返さない”って……。
それでも、行かなきゃって……“自分で確かめたいことがある”って」
「確かめたいこと……?」
春香がかすれた声で繰り返した。
頭の奥で、かつての村の噂が蘇る。
“この森には、人の形をした神がいる”──“その神に願えば、失ったものが帰る”──。
春香の頬を涙が伝う。
「……あの子、知ってたのね。あの日、私が何をしたか……」
祐真が顔を上げる。
「春香さん……“何をした”って?」
春香は震える唇を噛み、やがて小さく呟いた。
「二十年前、この森で……私は“誰かを封じた”の。
あの子を守るために。でも……それが間違いだったのかもしれない……」
その瞬間、森の奥から──低く、地鳴りのような唸りが響いた。
木々がざわめき、足元の土がかすかに震える。
美奈が息を呑み、祐真はとっさに懐中電灯を向ける。
光の先に、白い布切れのようなものがひらりと揺れた。
それは人影のように見えたが、輪郭は風に溶けて、霧の中に消えた。
「紅葉……!」
春香が駆け出そうとした瞬間、祐真が彼女の腕を掴む。
「待ってください! 行っちゃダメだ、あれは──紅葉じゃない!」
森の中から、かすかな鈴の音が響いた。
かつて紅葉が身につけていた髪飾りの、あの音だ。
──チリ……ン。
それは悲しげで、けれど確かに“呼んでいた”。




