第73話 呼ばれた者の名
朝霧が立ちこめる村の外れ。
杉木立の影に隠れるようにして、古びた祠がひっそりと佇んでいた。
苔むした石段は崩れかけ、屋根には蔦が絡まり、長いあいだ誰にも触れられていないことがわかる。
春香は足を止め、息を呑んだ。
「……こんなところ、昔はなかったはずなのに」
隣の美奈が、小さく首を傾げた。
「私も知らなかった。だけど……紅葉が、ここに行こうって言ってたの。祭りの前の日、“声がする”って」
春香の手が震える。
あの夜の紅葉の笑顔が、脳裏に蘇る。
浴衣姿で手を振っていた娘。その姿が最後だった。
二人は恐る恐る、祠の扉を押し開けた。
中は思ったより広く、冷たい湿気と土の匂いが満ちている。
灯りをつけると、奥の壁に“何か”が浮かび上がった。
それは、古びた石板だった。
厚い土に埋もれ、半分は苔で覆われている。
だが、指でなぞると──文字が刻まれているのがわかった。
「……名前、ですか?」
美奈が息をのむ。
春香はライトを近づけた。
そこには、震えるような筆跡でこう刻まれていた。
> 呼ばれし者たちの名
その下に、いくつもの名前が並んでいる。
どれも見覚えのある村の名字ばかりだった。
「……氷川……橘……一ノ瀬……?」
美奈が囁く。
春香の指が震えながら、最後の行へと滑っていく。
> 橘 紅葉
その名の下に、浅く新しい傷跡が刻まれていた。
──まだ、乾いていない。
「最近……刻まれた?」
美奈の声がかすれる。
春香は背筋を凍らせた。
「紅葉が失踪したのは数日前……じゃあ、これはいったい誰が……」
そのときだった。
祠の奥から、風が吹いた。
いや、風ではない。何かが“通った”──目には見えない何かが、二人の間をすり抜けていった。
蝋燭の炎が揺れ、壁の影が踊る。
春香の耳に、微かな声が届いた。
──おかあさん。どうして、見つけたの。
「紅葉……?」
春香は思わず呼びかける。
その瞬間、祠の奥の闇の中に、小さな白い手が見えた。
泥にまみれたその手が、石板をなぞるように動く。
新しい文字が、音もなく刻まれていく。
春香と美奈の目の前で──。
> 氷川 美奈
美奈の顔が真っ青になった。
足元の土がずぶりと沈む。
祠の床の下から、低いうなり声のような音が響きはじめた。
春香が美奈の腕を掴む。
「逃げるわよ!」
二人は祠から飛び出し、石段を駆け下りた。
背後では、祠の扉が軋みをあげて閉まり、
風のような声が、遠くで笑った。
──また、ひとり、呼ばれた。
春香は走りながら、美奈の手を離さなかった。
その掌に、冷たい何かが握られているのに気づく。
それは、紅葉のペンダント。
だが、裏面の文字が、変わっていた。
> 次は、あなたを迎えに行く
風が吹き荒れ、紅い枯葉が二人の周囲に舞った。
それはまるで、森そのものが“喜んでいる”かのようだった。




