第70話 森に還る声
湿った風が肌を撫で、森の奥から土と腐葉の匂いが立ちのぼる。
春香が振り返るたび、枝葉の影が人の形に見えて、美奈の心臓は音を立てた。
「……ねぇ、美奈ちゃん。本当に、この先で合ってるの?」
「うん。紅葉が最後に見つかったのは、この辺りだったって……」
紅葉。
その名前を口にするたび、胸の奥が冷たく締めつけられる。
秋祭りの夜、笑いながら手を振った紅葉の姿。
あの夜が、最後だった。
けれど──その“最後”が、果たして本当に終わりだったのか。
ふいに、春香が立ち止まる。
前方の木立の間に、何かが立っていた。
夕闇のような黒い影。
いや、それは──人影だ。
細い肩、揺れる髪、白いワンピース。
風に乗って、かすかな声が届いた。
「……みな……」
その声を聞いた瞬間、美奈の足がすくんだ。
あの声を、忘れるはずがない。
紅葉だ。
けれど、そこに立つその人は──どこか違う。
「紅葉……なの……?」
影が、ゆっくりと首をかしげる。
その頬に貼りつく土の色。濡れた髪。
瞳だけが、異様なほど澄んでいた。
「どうして、迎えに来なかったの……」
その言葉が森の静寂を裂く。
春香が息を呑み、美奈の肩をつかむ。
けれど、美奈の足は動かない。
その場に釘づけにされたように、ただ紅葉を見つめていた。
「……あのとき、私、帰らなきゃって……」
美奈が震える唇で呟くと、紅葉の影が微笑んだ。
優しく──けれど、どこか狂気を帯びた微笑み。
「嘘つき。
ほんとは、わたしを置いていったんでしょ。」
紅葉の輪郭が崩れ、霧のように溶ける。
風が吹き抜け、森が再び黙り込む。
春香が震える声で言った。
「……今の、見間違いじゃないよね……?」
美奈は答えられなかった。
彼女の耳の奥には、まだ紅葉の声が残っていた。
──“どうして、迎えに来なかったの?”




